No.335 魅力
おう、やってやるよ。
と、常に言う。
常に言っていくしかない。
悲愴感においてではない。
笑って言うべきでもない。
すべてのものは流れている。
止まって見えるものはすべて錯覚だ。
止まって見えるものは、わかりやすいが、何も「いい」という感じがしない。
流れているものしか「いい」とは感じられない。
「いい」と感じると、胸に来て、苦しい。そうなれば、それだけはまともだ。
どれだけ架空でも、胸に来るものならそれでいい。
流れているものしか、胸にはこない。「いい」とは感じない。これは重要なことだ。
流れているすべての物の中で、「おう、やってやるよ」と言う。
常に言い続ける。
「常に」というのは、本当に「常に」なのだ。
「おう、やってやるよ」という、応答になってしまっては、意味がない。そんなものは、つまらない。わざとらしいだけだ。
すべて、流れているものの中の話。流れているものの中で、「おう、やってやるよ」と言い続けている。言葉ではなく声の話。「おう、やってやるよ」という声がずっと聞こえている。そういう人間の姿。そういう、流れの中にいる人間の話。
すべて、流れているものの中、「おいで」というと、少女がするりと脇に来る。
「行きましょう」
それだけですべて済む。対話はもう済んだのだ。
途端にすべてのものが実物になる。
季節や、風、青空や、雲。女の子や、穿いているスカートや、安くても似合っているヒール。髪の毛かコロンかわからない匂い。田舎なら田舎の昼、都会なら都会の夜。埋立地に吹き抜ける潮気。
人間に悩みは必要だろうか。悩みは存在し、問題は存在するだろうか。僕にはわからない。
僕は悩みや問題を持ったことがない。悩みとか問題とかって何だ?
悩みや問題を持ったことがないので、「対策」も持ったことがない。
あるがままでいようとしたこともない。
「こうなればいいのに」ということさえない。
そのあたりの話は、何を言っているのか僕にはわからないのだ。
仮に、悩みとか問題とかいうものが、実在したとしよう。
では、人と人とは、その悩みとか問題とかの上において、付き合うのか。
それは何かおかしいだろう。
悩みとか問題がないと付き合えないのか、ということになる。
どうして、「おいで」と言うと、するりと来た、という、それだけのことで、付き合ってはいけないのか。
僕は、僕のほうが正しいとは思わないが、僕のほうでないと、「いい」とは思えない。
「おいで」というと、するりと来た、そのときの女の子が、髪の毛とスカート、および風や青空や白い雲ともども、急に実物になって、「いい」というのはわかる。僕には、そういったものしか「いい」と感じられない。
悩みって何だ? そして問題とは何を云うのだろう。
異性にモテないなら、それが苦しみになるのはわかるけれど、悩みになるというのがわからない。問題といえば、そこに何も問題はないように思える。
どうも、勘違いしていないか。
「対策」ありきで、「対策」を施せば、「問題」は解決する、と思い込んでいるのじゃないのか。
「対策」なんかしたって、異性にモテないものが、モテるようになったりしない。なぜなら、モテないのだから。モテないものが、どうして「対策」なんかして、モテるようになるわけがある。
どうも、その「対策」という妄想が先にあって、それに呼応して、悩みとか問題とかいうものが、概念上に立ち上がっているように見える。
そういった概念上のやりとりは、習慣になるのかもしれないけれど、すべてのものが流れているこの事実の世界には適合しない。
仮に、悩みがあり、問題があり、「対策」をほどこしたとしよう。それは表面上、「解決」へうまく成り立つように見える。でもそれはうそっぱちだ。
なぜなら、その男は、対策の結果、「いい」と感じられる何かにはならないからだ。「いい」と感じらないものが、モテるようになるわけがない。
すべてのものは流れているのだ。どれだけ抵抗しても無駄だ。止まらない。
モテる男は、モテる男として流れているし、モテない男も、モテない男のまま流れているのだ。そこに善悪など生じていない。
そんな、善悪も生じないところに、問題なんか生じるわけがないし、問題が生じない以上、対策なんて生まれるはずがない。
モテる男がいて、モテない男もいる。それぞれ、同じ空間にいて、モテる男とモテない男、という形で流れている。その流れていく空間は、「いい」と感じられる。彼はなぜモテないのか、と、勝手に問題化しても、何も「いい」とは感じられない。たとえ「彼はなぜモテるのか」という前向きな側を見たとしても、やはり問題化したそこには何も「いい」と感じられるものはないのだ。
止まって見えるものは、そもそも実物ではなくて、いいも何も、そもそも「感じる」ということ自体ができない。
魅力的なものは、どっちがどれだけ魅力的かということで、比べっこしていい。比べる基準に根拠なんかないのだけれど。
それにしても、比べっこするのは、それぞれ流れているもの同士として比べっこしないと、意味がない。どっちがより、「いい」という感じがするか、それを比べっこするのだから。止まって見えるものを比べっこしても意味がない。
何か勝手に、都合よくできるものだという思い込みがあって、「対策」をほどこせば何とかなる、と思われている。それで、物事を止まって見える形に勝手に空想化して、ありもしない「問題」をでっちあげる。
「問題」があって、「対策」を施して、「解決」する、ということは、表面上、よくできているように見える。わかりやすい。でもわかりやすいだけで、何も「いい」とは感じられない。ペンギンは空を飛べない鳥だが、それの何が「問題」なのだろう? ペンギンは極地の風を浴びているだろう。彼らはペンギンに生まれたかったわけではないだろうが、何がどうということもないまま、この世界の中に生きている。流れる時間の中を流れて、実物として存在している。
「いい」と感じられるというのは、つまり「魅力」のことだ。魅力は、思うものではなく、感じたり覚えたりするものだから、必ず流れているものとしてある。魅力といって、止まって見える履歴書の情報を見て「いい」と感じる変人はいない。履歴書に本当のことが書いてあるとは限らないのだから。もし履歴書を見て「いい」と感じるつもりの人があったら、それはだから「空想だ」というのだ。書いてあることはウソかもしれないし、そもそもその履歴書上の人間は存在していないかもしれない。誰かが架空で遊びで書いただけかもしれないのだ。
もし、「わたしはいい人です、いい男です」と言い張る男がいたって、それを「いい」とは感じないし、あるいは逆に、「いい」と感じるかもしれない。それは実物に触れないとわからない。その、流れているものとしての実物に触れないとわからない。「わたしはいい人です、いい男です」と言い張っているのは、まるきりウソかもしれない。でも、目の前にそうしてウソを言い張る人間がいたとして、それだって何かしら「いい」と感じることが、ないとは言い切れない。
空想と実物は違うものだ。比較的に違うのではなく、そもそも比較する類ではないということ。Aについて空想したものと、流れているA実物とは、完全に無関係のものだ。
おう、やってやるよ、と言い続ける。言葉のことではなく声のことだ。流れの中、その声はずっとしている。常にその声がある。
僕はそのようでありたい。僕はそのようにあることで、魅力的な人間でありたい。
「いい」と感じられたいし、僕自身が「いい」と感じるものの中へ、ちゃんと混じりこんでゆける自分でありたい。
もし、「いい」と感じるものが目の前にありながら、自分は入り込んでいけない、混じりこんでいけないということでは、悲しすぎるだろう。
今、考えておかねばならないことがある。魅力について。
僕は、人は魅力によって差別されるものだと思う。魅力のあるなしによって差別されることが、まっとうで、誇らしいことだと思っている。
僕は、僕自身が魅力的であることを、証明し、実現するように生きている。誤解を恐れずに言うなら僕は、
「僕が魅力的であることが証明されればそれだけでいい」
と考えている。
なぜか?
これについては、他人をどうこうなんてできないからだ。
僕にやる気がないのではなく、物理的に無理だということ。
実物が実物に何かを足してやることは不可能だ。
御影石が流木に何かを足せるだろうか?
そんなことは、もう何を言っているのかわからない、意味不明だ。
魅力について考えておかねばならない。魅力に関しては、僕は僕限りだ。他人のことはどうにもできない。
すべてのものは流れているのだから、僕だって流れている。僕のいる場所、僕のいる空間は流れているし、僕は実在としてはその流れの中にあるしかない。
そのときに、僕は僕として魅力的であればいい。「いい」と感じられうる何かがあればいい。「おう、やってやるよ」の声が聞こえてくるのもその一つだ。魅力の一つ。僕はそういう奴でありたい。
もっと平たく言えば、僕は僕がモテることを確認できればそれだけでよいのだ。「いい」と感じられるというのはそういうことだから。
僕が、モテない男に何かを足してやれるわけがない。何かを足してやって、モテないものをモテるものにしてやれることがあるわけがない。足すといったって、実物がそれぞれ違うのに何を足してやれるものやら。モテない男は何も問題ではない。モテる男が何も問題でないのとまったく同じに。
魅力について、誰もが鋭敏でありますように。魅力のあるなしは、誰にとっても身近に重要なことだ。魅力について考えておかねばならない。「まったく魅力のない人間」というのも少なからずいる。最近は増えているかもしれない。そしてそういう人は、何もわかっていないので、何を言われたってうっすら半笑いでいる。「きみにはまったく魅力がない」と言われても、よくわかっていないので半笑いなのだ。そういったやりとりの景色も流れていくが、本来、魅力がまったくないというのは青ざめるような恐怖のはずだ。
何をするにしたって、誰もが無心で力を尽くすのはすばらしいことだ。気づけば誰もが無心になっている。皿洗いとか部屋の掃除とかいうことでもいい。皿洗いなら皿洗いを、やらされたら無心にやる。一所懸命やる。やり続けている。きょとんとした顔で、無邪気で熱心だ。素直。頬に血が通っている……。こういう人間はそれだけで魅力がある。止まって見えない。彼女が「どういう人」かについて、止まって見える説明や空想を足すより、その無心にやっている皿洗いの実物を見るほうがてっとり早い。その皿洗いの無心な姿は、「いい」と感じさせるだろう。無言で熱心で、それでも姿から「やりますよ」という声が聞こえ続けている。
魅力によって差別される。それでよいし、誰だってそのようにしている。他ならぬ、魅力に劣る当人さえ、他者を見るときは魅力において差別的に見ている。それは差別的でありながら、決して冷たいことではない。わざとあたたかいことでもないけれど。あえて言うなら堂々たることだ。魅力のある者はよりこれからも魅力を得ようとし、魅力のない者はなんとかならないかと呻吟し、なんとかしてやはり魅力を得ようとする。
そしてさしあたりの事実として、魅力ある者もない者も、実在するのだ。この時間の流れる世界で、流れながら、背中を丸めて。それでこれを読む者も、このわかりづらい話の中に、自分が得なくてはならない魅力への手がかりがあるのではないかと疑い、秘密を食い破ろうとして読んでいる。そうしてわたしたちは実在している。ふと気づけばそれは魅力ある事実だ。魅力について止まってしまった思考であれこれ考えるより、その実在の姿のほうが。
物理学へ初等の知識のある人へ。魅力といって、その「力」、「力」の単位は何であったか。[kg・m/s^2]、物体に加速度を与える作用のこと。単位の中に「時間」が入っているぞ。もし魅力が人の心を動かすのだとしたら、ここに時間の流れる経過を取り入れずにいることは、魅力が人の心を"ワープさせる"という議論をしていることに他ならない。熱力学の法則を無視したハチャメチャな理論だ。量子や素粒子のようなミクロ世界を別にして、この世界で流れて動かないものがあるだろうか?
やってやるよ、と声がしている。音の始まりがない声。気が付けばそこに張りつめてある声。流れる時間に貼りついたままある声だ。こうして流れ続けたままある「やってやるよ」の方針が、一度も止まることがない以上、何をもってそれが正しいとか、あやまっているとか言えようか。「やってやるよ」と、ただそうして流れていくというだけのこと。思いつきの正反対、やり方がないかわりに止め方もないもの。
何事もやってこなかった人がある。何事にも力を尽くさずに生きてきた者。そうして生きていくことはまったく可能だ。それだって何の悪徳とも言えないし、この世界から何も逸脱していない、やはり事実の一つに過ぎない。流れたまま立ち止まらずにいる者が、どうしてそれを指差して悪徳呼ばわりできようか。物事の善し悪しなどは立ち止まってしか言えないのだ。
ただ明らかなこととして、何事もやってこなかった人間、何事にも力を尽くさずに生きてきた者は、これまでに蓄積してきた魅力の実績がない。魅力のない生は罪ではないが、なにより本人が、魅力のない生を生かされてきたことを悲しんでいるはず。魅力のなさから差別されて、可能性のない未来を生かされることのつらさも併せて。だから他でもない、自分、当人のために、誰もが魅力について鋭敏であるべきだ。
そして魅力に鋭敏であるということは、きっと時間について鋭敏であるということだ。
だから時間を大切に。底抜けに大切に。時間について、出し惜しみすることなく大切に。やってやるよ、と、ずっと時間に貼りついたまま生きればいい。しばしば人が陥る愚かしさ、魅力がないのにいい思いをしようと企むことで、不満を蓄えていくというような、ヌケヌケとした厚顔を、なるべく晒し続けることのないように。
[魅力/了]
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