No.337 熱
熱い自分がある。
まだ熱い自分があって、僕は熱い自分が好きだが、これがいつまであるものなのかは、わからない。
今はまだ熱い自分だ。
いつか冷たい自分になるのだろうか。
わからないが、そのときはもうジタバタしたくない。
ジタバタするのは、見苦しいし、男らしくない。
熱い自分が、なくなってしまうことなど、想像もつかないし、まるで信じる気にもなれないが……
でも、もし、こうして熱い自分が、失われてしまうことがあるのだとしたら、そのときは自分で自分を救済したり、ケアしたりということをしたくない。
そのときは、ちっぽけな器量と命数を使い果たしたということなのだから。悪あがきして、外国製の情熱を輸入して延命したりしたくない。
インスパイア、という考え方が流行っている。
僕はこれには、まっぴらごめんだという感じがする。
インスピレーションを「ひらめき」とするなら、インスパイアされるということは、「ひらめきを与えられる」ということになる。
僕はインスパイアなどされたくない。
自分の熱が失われたところに、外部から熱を借りてきて、自分が燃焼しているふうになるということへ、逃げ込みたくない。
人と人とは、お互いに燃え立たせるものだ、という考え方がある。
それはわかるが、その考え方は、合理的すぎていやだ。
自分の熱に、そんなシケた合理性を持ち込むぐらいなら、いさぎよく挫折するほうがましだ。
そんなことは、これまでも今も、ずっと想像にも遠くて、現実味がないけれど。
もし、それはお前がお前だからの傲慢だ、と言われることがあっても、「そのとおりだが、何だ」と、弾き返せるように、僕は在り続けたい。
熱というのは、熱い寒いの足し算で段取りするようなものであってほしくない。
体調管理という考え方が流行っているから、水面下に、メンタル管理、みたいな考え方がはびこっているのかもしれない。
国際的に結果を出さねばならない責任あるスポーツ選手だとかいうならともかく、ちっぽけな一個人が生きることでしかないこの場合は、管理などというあさましいことはしたくないものだ。
人間として熱があるということが、人間の実存に及びうるものだとしたら、熱のない人間というのは、精神的には透明人間みたいなものだ。いるのかいないのか、確認しないとわからなくなる透明人間。
透明人間になってしまったらどうなるのか。どうなるのかは知らない。知っていてもどうしようもない。どうするかはそのときになってから考えればいいだろう。どうせそのときには何もかもが変わっているのだ。
熱い人間とはどのようなものか。まったく単純なもので、腹の中に湯を抱えている人間だ。
例え話ではなく、身体的な感覚、あるいは心身的な感覚として、湯、が腹の中にあるのである。
人間は37℃の血袋なのだから別におかしい感覚でもない。
37℃の湯のかたまりは、触れてみるとはっきり熱い。
この湯が、僕に、くだらないことをしきりにさせようとする。
まあ、そうなると、されるがまま、従順にそうするしかない。
別に恋あいが偉いと思っているのではないし、芸術が偉いと思っているのでもない。
むしろくだらないことだと、わかってはいるのだが、腹の中の湯がそのくだらないことを、咄嗟にさせるのだからしょうがない。
僕がくだらない人間になってしまっているのは、この湯のせいだ。
くだらないことばっかりしている、自覚はあるのだが、この湯のせいで、どうしようもない。
僕はわりと、普段から猫背かもしれない。猫背? とはまた違うかもしれないけれど。
ただ、胸を張ってすっきりと立った、あの形に、僕はなりたくないと感じている。僕はこれが前傾姿勢なのだ。腹に湯を抱えて前傾姿勢になればこうなる。腹の中を空っぽにして、何も運んでいない人間として、こぎれいな姿勢を取ることには、僕は反発する。
誰がというのではなく、僕がそうなることを選べないだけだ。
この不恰好な僕にも、あなたはあたたかさの次元が違う、と言ってくれた人がいた。
底抜けに綺麗な人で、一度は僕から遠ざかることを選んだが、思い直して、もう一度僕と心を親しくしてくれることを選び、戻ってきてくれた人だ。
あたたかさの次元が違うと言われて、僕は、ありがとう、あなたはきれいだよ、としか言えなかった。
その人は、本当に、底抜けに綺麗な人だから。
僕にだって、そうしたことが、素晴らしいことだというのはわかるけれど、まるで僕のような不恰好には、感動する権利なんてないな、という気がする。そんな上等すぎるものへの感動なんて、僕にはなくていい。そりゃ、内心では、メロメロになってしまうところがあるけれども。でもそういうことじゃない。僕がそうして綺麗な人に言えることは、あなたはきれいだよ、ということしか、結局最後までない。
同様に、というか、逆に、僕のことを嫌う人だっている。それはそれで、と感じる。
僕は、人に好かれようとか、好感触でいてもらおうとか、そういうことの工夫が、自分には似つかわしくないと信じている。
この不恰好のままで、そのまま、直線的に嫌われることは、何もおかしくない、ありふれた正当なことだと感じる。
ただ一方で、誰にとっても、そんなことは大事でも何でもないのだから、気にしないでほしい、という思いがある。
僕のことを嫌った人には、まずそのことを思う。僕のことを嫌いな人にとって、僕のことが嫌いであるという自己情報は、まったく重要でない。注目するだけ損で、時間の無駄だ。
僕は、好き嫌いに関わらず、そうして正当な話は正当なものとして通じるということに、気分のよさを見出している。
腹の中の湯がどうこうなんて、僕の話だ。僕は腹の中に湯を抱え、その湯を漏らしたりするようなことは好まない。湯について覗きこんだり、調査したり、議論したりということも、好きではない。
腹の中に湯はあるが、これは別に有用なものではないのだ。
これが一体何なのかについては、他ならぬ僕自身が考えていない。
腹の中の湯は、くだらないことをしたがる。僕にくだらないことをさせたがる。大切に思えることはさせたがらない。まるで魔法瓶のように、ただ湯を抱えていなさいと言わんばかりだ。
湯は、女の子を口説きたがり、モテたがり、同時になぜか、フラれたがってもいる。ひどい話で、だから僕の振る舞いは常に利益に向けて合理的でなくなる。
僕は冷たいのだろうか。そう思えて自分が厭になるときもある。けれど、あたたかいふりをするのはさすがに決定的に冷たすぎる。第一、似つかわしくもないので、わざわざそんなことにトライする気にもなれない。
僕にだって情緒はあるはずだ。あるいは話したいことや、伝えたいこと、わかってもらいたい気持ちのことなどが、僕にだってあるはずだ。
あるはずなのだが、肝心なところで、この腹の湯が「いいや」と、急に全てから手を離す決定をする。
「いいや」と言われると、もっともらしく聞こえてしまう。それに抵抗なく乗っかってしまう僕も、どうかしているけれど。
誰にとっても、この湯は、腹の中にあるものなのだろうか。わからない。知りたいとは思えないし、あればあるでよいと思えるし、なければないでよいとも思える。なにより、そうして人を覗きこめるような、上等な自分ではないしなと思える。僕が思うのではなく、腹の中の湯が。たぷんたぷんと、前傾姿勢で決定する。
もっとさわやかな人間でありたかったなあ、などという、それこそヘソで茶を沸かすような、幼児的なあこがれが、本当は僕にもないではなかったのに。まあしょうがない。人は二重には生きられないだろう。
結局、こうして行くしかなくなる。僕は決して、孤独が平気な人間ではないし、ともすると、誰よりもアマッタレで、寂しがりなのじゃないかという気もする。ただ、湯が僕を前傾姿勢にして、何もかもをふと「いいや」と決定する。不本意がないわけでは決してないのに。どれだけ入念に不本意をこしらえ、準備していても、いざとなると湯気に当てられて、不本意がどこかへ揮発してしまう。「いいや」と、歩き出す、その前傾姿勢が始まってしまう。
僕は決して知能は低くないはずなのに、そのせっかくの計算能力が、肝心なときにはまるで活かせない。
何だっていいだろうという気がしている。
たちの悪い……僕はなぜ自分が歩かされているのかわからないまま歩いている。
僕にだって青春のチャンスはあった。そこでうまいこと、僕だって青春がやりたかった。結果的に、青春は、胸を壊しかねないぐらいあったのだけれど。思えばそこで、これは注ぎ込まれたのか。この腹の中の湯は。
僕は浮かない顔をしているだろうか。
たまにな。
でもそのときは、たいてい、僕は自分の湯加減に、諦めきっているだけだ。
どんなときでも、あなたの手を引いて突然歩き出すぐらいの余裕はある。
そのときは猫背でごめんなさい。
そんなものが受けるとは思っていないし、くだらないことだと、さすがの僕でもわかっている。
そういう、ただの湯としての熱い人間を、あなたが好きか嫌いかは知らないが、どうせなら好いてもらえたほうがうれしい。
キライだった場合、あまりにもその自己情報には、意味がなさすぎるからな……
まだ熱い自分がある。これから先はどうなるのかわからない。
わからないが、何がどうなったって、ジタバタ抵抗する気はない。
別に熱いものが偉いというわけではなかろうし。
熱いものがなくなったら、きっと僕は僕自身が好きじゃなくなるだろうが、まあだからといって、こんな奴に手厚いケアをしてやろうとは、さすがに僕も思わない。
どうなるだろう。
正直、湯の量は、以前より増えていると感じている。
この湯を注ぎこんでいるのは誰だ。
僕を好いてくれている綺麗な女の全員か。
[熱/了]
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