No. 389 ラブユー、言葉は空の上に
すべての物語を統べている。
夏の空も春の風もすべてそこにある。
先のコラム、「愛の世界について投げやりなレポート」と、対にして読んでもらいたいが……
See, Paradise, うまくいっているものが世界、うまくいっていないものは非世界。
言葉の直下にしか世界はない。
何が言いたいかというと、天元の軍勢。
迷っているけれど、十分に可能性のある女の子ちゃん、もしくはお嬢ちゃん、若い女の子が迷っているのは当然だ、まだ何も知らないんだから……とんでもないことを先に知ったほうがいい。
常識を先に知ったらあなたはあなたではなくなってしまう。
「天元の軍勢」だろ、空は青いだろ。
僕があなたにラブユーと言ったのは、あなたに可能性があるからだ。
そこに主語が抜けているのは、主語はIではないからだ。
主語は空の上にある。
ラブユーの主語は、ラブユーだという、またまやかしのような話になってしまうな。
人々が誰かを愛するなんて不可能なことだ。
それは、僕が物語を開陳するぐらい不可能なことだ。
だから僕はそんなことをしないし、誰もそんなことをしなくていい。
人がやらなくても空の上がやる。
あとは人が従うかどうかだけだ。
従わないのはさすがにバカで、世界をロスするとしか思えないが……
ラブユー、あなたに似合うポップな図柄のトレーナーは、その色ともども、空の上から決められており、空の上からあなたに着るように与えられている。
たまたまH&Mで出会ったそれでいいわけだ。
なぜこれまで愛を我慢していたかというと、我慢は己の内にあるからだ。
言葉は空の上にあり、我慢は己の内にある。
漠然と宇宙のことなど考えずに、地上から空の上へ観想が届けばいい。
人は天地のあいだにあるものだから、宇宙に飛び出したふりをするのはイカサマだ。
素直に重力を認めていろ。
重力を下に見るという、物理的に当たり前のことをしていたら、それだけで天は上だ。
その天のさらに上には言葉というものが現成する。
そうすると、今年の春水、今年の薫風、今年の夏空、その他もろもろはすべてあなたのものだ。
空の上にはあなた用のトレーナーまであるわけだからね。
ひとつだけ注意しなくてはならないことがあって、それは「番」だということ。
「番」ということは、これまでの「番」の人があって、あなたの次の「番」の人もあるということ。
あなたは何かを引き継ぎ、また、次の人が引き継げるよう、その「番」を果たさねばならない。
このことは、自明ではないので、気をつける必要があるのだ。
「番」ということで、はじめてリアリティが出、はじめて天地の両方と接続できる。
人は天に行ってしまってはいけないのだ、人のうちは天地のあいだにいなくてはならない。
すべてのことは解決しているので、天に行く必要がそもそもない。
「番」ということを考えると、「表示」ということも考えなくてはならない。
誰が「番」なのかわからないではいけないからだ。
この表示を堂々とすること。
必要なことは、「人」を表示すること。「わたし」を表示するのではないということ。
なぜなら、空の上とつながっていない「わたし」は、実は「わたし」ではないからだ。
人には、「我」という機能があって、自分を表示することは、この「我」を使うものだと誤解しがちだ。
そこを誤解して、我を表示したとき、青春が終わる。
表示すべきは「我」ではなく「人」だ。ここのところが紛らわしい。誰かに正しく導かれないと、まず確実に誤解のほうへ行ってしまう。
すばらしい人は、「まさにこの人」というように見える。
にも関わらず、その当人は、「まさにこのわたし」とは表示していないのだ。
ここが誤解のもとだ。
当人は、実はあくまで「人」を表示しているのであって、「わたし」を表示しているのじゃない。
なぜ「わたし」を表示せず、「人」を表示しているかというと、「番」だからだ。
「人」が表示されねばならない、その「番」が回ってきて、それを果たすために、「人」を表示している。
それが、傍目には「まさにこの人」と見える、という仕組みだ。
そんなところに、誰も「我」なんて表示していない。
「人」はどのように表示されるかというと、天元、空の上とのつながりで決まる。
空の上とのつながりで決まるし、同時に、「番」を果たしてきた、またこれから果たしてゆく、いろんな人との連帯で決まる。
タテ方向は空の上とのつながり、ヨコ方向は連帯のつながりで、その番の「人」が表示されるということだ。
わからないことを言うふうだが、これは自分がその「番」を果たすとなったら、ただちにすべてのことが視える。
すばらしい人はこれまで何人もいて、なぜそのことが見失われていたかというと、愛を我慢で否定してきたからだ。
「人」の表示が、「我」の表示とは異なるということは……つまり、「人」の表示を "しない" ということが、イコール「我慢」(吾我の驕慢)を膨張させるということなのだと、わかってもらえるだろうか。
どこまでいっても、「我」は何も表示しない。「我慢」は己のうちで膨張していくが、そのことで苦しむのは、この宇宙であなた一人だけだ。
もしあなたが我慢するならばだけれど。
ありがちな方向で「我慢」した人は、よく知られているように、内心で何かメラメラしている。逆方向へ「我慢」をした人は、たとえばアメリカのどこかの州で銃乱射事件を起こすだろう。どちらも吾我の驕慢だ。
内心のメラメラも、外部への実銃乱射も、何も「表示」できてはいないということがよくわかるだろう。それはどんな人だったかと、ワイドショーは追跡するかもしれない。でもそこにあったのは、別にどんな「人」でもなかった。
「我」は「人」ではないので、いくら追跡したところで、吾我の驕慢の一件が漠然とレポートされるだけだ。
あなたは「人」の表示をこころがけていればいい。
それは実に手ごわいことで、あなたはこの先何年も、あるいは何十年もかけて、そのむつかしさに取り組むことになるだろう。
そのむつかしさ、手ごわさに負けると、あなたは逆に、すばらしい「人」が表示されている実物を見たとき、それを否定し、攻撃し、潰しにかかるかもしれない。
そういった、おそろしい反応も、「我慢」という機能には含まれている。
だから、なるべく若いうちがチャンスだ。若いうちは、まだそこまで「我慢」が膨張しきってはいない。
注意点を述べているのだった……「言葉」は空の上にあって、これはとびきりの現象だ、とてつもないナゾに包まれていて、あなたは生涯、それが「視えた」とは言えないかもしれない。
一方で、もしそれが視えたとしたら、別に何でもない、「理由はわからないが、このとおりあるじゃないか」ということでしかなかったりする。
またあなたは、このナゾの話が、何のことを言っているのかさっぱりわからなくても、ひょっとしたら何かあるのじゃないかと思って聞いていて、なんとなくそういう気がしているのは、視えてはいなくても一種の作用は届くからなのだ。
言葉は空の上にあって、ラブユーが、視えなくても一定の作用を及ぼしている。
だからあなたは、ラブユーと、さっきのすてきな色と図柄の、あなた用のトレーナーの話が聞きたい。
何度でも聞きたくなるのは、あなたの視えていないものからも、一定の作用が届いているからだ。
注意点は、タテとヨコの交点が「番」だということ。
空の上の言葉が視えたとしても、ヨコから天元の連帯が得られないと、あなたはその視えたものに対して、これというはたらきができない。
一方で、空の上の言葉なり、あるいは、視えてはいないけれども届いている作用に対して、あなたがヘタクソでも何でも、それに何かのはたらきをしようと、実際にしていなければ、あなたは天元の連帯を得られない。
ヘタクソでも続けているそれが、やがて天元の連帯に「認めてもらえる」という仕組みだ。
何だかわからなくても、届いているものがあって、それを愛だと認めて、少なくとも我慢なんてバカなものは放棄して、なんとか届いているものに応えようとし、何かしらのはたらきを為そうとする。
それをしつこく続けていると、空の上の「言葉」が、「なにこれ」と視えたり、視えなかったりして、でも次第に、「これは何かある」という確信だけは得ていく。
そうして、あなた一人きりでも、その届いている何かに応えようとし、実際に何かを "能動的" に為していると、あなたはそういう「人」として、この世界に表示され始める。
そういう「人」と表示され始めたとき、あなたは「我」「我慢」「吾我の驕慢」からすでに遠ざかっており、なんとなく周囲から一目置かれるような存在にはなる。
このあたりは表現が難しくて、一目置かれるような存在でありながら、それは「そういう人」として、逆に一般でいうところの「人」からは、どんどん遠ざけられてしまうかもしれない。
それは、天元の反対、地元の連帯から切り離されていくという過程だ。生き方としては、この時点では損な生き方ということになる。
けれども、それでもなお、自分に届いている何かに対し、それを愛し、なんとかそれに応えようとしていると、あるときついに、今度は地元の反対、天元の連帯がワッとやってきて、あなたを認め、あなたにその「番」をやらせる。
こうして、タテのつながりとヨコのつながり交点として、「番」が発生するのだ。
そのことには、とてつもなく長い時間が掛かるかもしれない。
だけど、このことをしないで生きると、すべての時間なんてあっという間だ。とてつもなく長い時間を持てるということが、むしろ生きるという中で最上のぜいたくなのじゃないか。
よって、注意点はこういうことになる。
1.「天元の連帯」は、すべて空の上の「言葉」に尽くしてきた人々だ。
2.そこで自分の「番」が認められたとして、それはあくまで、空の上の「言葉」に尽くすということにおいてのみ認められたということ。
3.自分の「番」が回ってきたのは、これまでの人が「番」を果たしてきてくれたからだ。ただし感謝なんかしなくていい。
4.自分の「番」を恥ずかしくなく務め、同時に、次の人が「番」を務めやすいよう、くっきりと、わかりやすいように「表示」すること。
5.「番」は「人」である。まず「人」を表示すること。「人」でなければ「番」ではない。
6.「人」は不細工である。よって不細工を表示すること。<<不細工の表示が最優先である>>。不細工の表示が途切れてはならない。不細工に動かねばならないし、動くことで表示が途切れてはいけない。<<共に笑っていなさい>>。不細工こそ佳いものではないでしょうか?
7.不細工な「人」を表示したら、その後は空の上の「言葉」にのみ尽くしなさい。空の上の言葉は、ますますなあなたを不細工な「人」にするだろう。そのとき天元の連帯は、あなたの脇腹を愛で押しつぶし、あなたの魂をますます頭上へ押し上げるだろう。
8.分かる力( tell )は使わないこと。産み出す作用は借りてくること。あなたの言語は分かりますが産み出しません。(繰り返し)産み出す作用は借りてくること。それは空の上の「言葉」に尽くしたことの報酬として与えられます。<<決して言葉を所有しないでください>>。言葉を崇めることもしないでください(崇めるのも所有の一形態です)。
9.言葉の所有を錯覚すると、人は言語を持つ。言葉の存在を知り、言語という錯覚を手放せば、あなたは<<作品>>の通り道です。それをもってあなたの「番」です。
10.ラブユー、ラブユーの主語はラブユーだ。言語をうれしがるのではなく、<<言葉そのものによろこびがある>>。
思えば当たり前のことだった。ずっとこのことだけがあった。
不思議なことだが、その不思議なことはずっとあった。
言葉は何なのか、それは訊き続けねばならない。
言語とは、言葉の所有の錯覚だ。
言葉は実在しているが、言語は実在していない。
言葉と接続するということは、言語を手放すということだ。
空の上には言葉があり、世界には作品のみ存在している。
仮に言語の存在を認めたとしても、人々には外国語しか存在しない。
カレンダーと同じで、通用する意味が共有されていると思い込んでいるだけだ。
奇妙な話だ、これでは「虚数の虚数」があると考えねばならない。
フィクションのフィクションがあるということ。
フィクション作品が産み出される背後にあるのは、一次フィクションの事象じゃない。
「オリジン」なのか?
すべてのことは、勉強してはならない。
アネッサ、「人」を表示して……
とにかく、注意点としてはほとんどこれで合っている。人は不細工なものだ。
「フィクションのフィクション」は、すごく引っかかる。何だこれは。
言葉は空の上にあるのだが、これでは、その言葉の上に、さらに何かあるということになるじゃないか。
言葉は空の上だが、 "何か" の下だ。
言葉は上下にサンドイッチされている形になる。
何これ?
急に落ち着いてきたのでまあいいか、ここまでにしよう。
きっとこの話は、ここまででいいのだ。
ここにきて、「言葉」が、自分のものである "わけがない" と、ひたすら当たり前に思えてきた。
「言葉」の所有とか、本当にふざけているとしか思えない。
わけのわからん「はるか上空でサンドイッチされているらしいもの」なんかどうやって所有するんだ……
「言葉」について急に冷静になってきた。
空の上の「言葉」が愛なのは当たり前すぎて、わざわざ言い立てる気がしなくなってくる。
人は、自室に引きこもっていると、何でも出来るような気がしてきてしまう。
それは、自室には他の人がいないので、「人」を表示する必要がないためだ。
何でも空想のとおりに出来てしまう気がする。
人は、自室と、身内に対しては、「人」の表示をしない。
だから、遠い遠いところにある、「言葉」なんかと接続しなくてよくなってしまう。
トレーナーの話を覚えているか? あなたに似合う、すてきな色と図柄のトレーナー。空の上に言葉があって、そこにあるすべてのものは、視えなくてもあなたに届いている。
ラブユー、言葉は空の上に。
そしておそらく、さらにその上に何かがあって、言葉は上下にサンドイッチされている。遠い遠いところの話。はじめからあなたの頭上にある話だ。
[ラブユー、言葉は空の上に/了]