さよならアミヨさん、ネット輿論に別れを告げるときがきた
アミヨの始まり
スポーツ選手がオリンピックで優勝したとする。本人、会場、ならびに応援席が歓喜に爆発する。アナウンサーが昂った声で称賛する。その家族にマイクが向けられ、コメントを求められる。チームメイトや、学生時代のコーチなどにもマイクが向けられ、コメントを求められる。
あなたの手元にも、さまざまなニュースサイトやまとめサイト、動画サイトなどのコメント欄があると思うが、あなたはそこに、優勝選手についてのコメントをしてはならない。SNSのツイート欄もあると思うが、そこにもコメントをしてはならない。なぜなら、あなたはコメントを「求められていない」からだ。
このように考えるとわかりやすい。実際、選手がオリンピックで優勝し、その応援席がドカーンと歓喜する。そして応援席にいた、選手の母親にマイクが向けられ、コメントを求められる。あなたはその後、その母親に向けられたマイクをもぎ取って、いきなりあなたの「コメント」を全世界に向けて発信するだろうか。あなたはそんなことを決してしないだろう。なぜ決してそんなことをしないかというと、やはりあなたはコメントを「求められていない」からだ。
しかるべき人に向けられたマイクを勝手にもぎ取って自分が全世界にコメント発信。そうして考えると、求められていないのにコメントをいきなり発するというのはかなりの奇行だということがわかる。この奇行を、やるべきなのかやらざるべきなのか。それがウェブ上の各プラットフォームにおいてかなりあいまいになった。なぜあいまいになったかについても、あなた自身で説明できたほうがよい。
ツイート、「つぶやき」ということがウェブ上の常識として無理やりねじこまれ、プライヴェートの口元に漏れるつぶやき、手帳の端に書き込まれるつぶやき等と、他の人もいる公的な空間への発言がごっちゃになってしまった。あなたがあなたの手帳の端に、◯◯選手の奮闘は感動的だった、と書くのはよし。それはふとしたあなたのつぶやきのメモだからだ。だが全世界に向けて発信するコメントはそれと同じではない。あるいは、◯◯選手の活躍について、親しい友人同士で騒ぎあうのはいい。それは目の前にいるあなたの友人なのだから。だが全世界であなたのコメントを唐突に読まされる人々はあなたの親しい友人ではまったくない。
なぜマスコミのインタビュアーは、選手の母親にコメントを「求める」のだろうか。それは、親子という封建的な考えもあるにせよ、それ以前に、母親にとってその自分の子がきっと「大切なもの」であるべきだということ、そしてその自分の子が長年努力を積み重ねてきて、母親としてきっとそれを支え、励ましてきた道のりと思い出も、きっと「大切なもの」であるべきだということ、そのことからインタビュアーは母親にコメントを求めている。
「大切なもの」を前提にコメントを求めているのであって、「感想」を前提にコメントを求めているのではない。だからあなたにどんな感想があったとして、あなたが全世界に向けてコメントを発信してはならない。あなたの「感想」がどれだけ昂ったとしても、あなたの「感想」はコメントとして全世界に求められていない。世界中の人々があなたの親しい友人なら、あなたの感想は友人のこころとして受け取られるが、誤解なきよう、あなたは身近な人とさえまともに友人になれないじゃないか。ここを誤解したコメント発信が<<アミヨの始まり>>になる。
わたしの言うことはこれまで話してきたことの構造においてよく視認されるはずだ。あなたは選手の母親に向けられたマイクを奪ってコメントを発しはしない。インタビュアーもあなたにマイクを向けてコメントを求めはしない。けれどもその場で、もしあなたが女性で、人並みよりすぐれて「かわいい」顔かたちを持っていたら……インタビュアーは視聴率への商魂から咄嗟にあなたにマイクを向ける。「大切なもの」がない前提でも、「かわいい」という神経を惰弱化する楽しみは通用するからだ。
インタビュアーがあなたにマイクを差し向けて微笑み、
「◯◯選手、すごい活躍でした。観ていて、どのように感じましたか」
あなたはそのとき、エッとびっくりしたふりをしながら、自分でも気色悪いぐらい、これ以上ない「かわいい」自分を演出し、マスメディアを通したファボを稼ごうとするだろうし、そのときのインタビュアーの笑顔も声の調子も、いかにもそうしたあなたの「かわいい」パフォーマンスを促す様子だ。
次のことを明確に順序立てて把握しなくてはならない。このことは、不毛革命以降の現代を根幹から揺るがすものなので、いかにも明視に抵抗があるのだが、だからこそこのことはまざまざと浮き彫りにされてあなたに知られねばならない。
世界中の人々があなたの「コメント」を求めているか否かについて知りたければ、手っ取り早くわかる方法がある。周辺にチラシでも配って、あなたがあなたの名前で講談でも講演会でもやればいい。あなたは自分の煮えたぎる「感想」のすべてを壇上で述べればいい。するとどうなるか。あなたのコメントを求めて会場に押し寄せる人々はまったくいないということがわかるだろう。最も能動的て軽薄な好事家のたぐいさえ、あなたの講演会のチラシには首をかしげて素通りしていく。
それはそうだ、あなた自身も、そんな講演会のチラシにグイとこころを惹かれるなどということはありえないだろう。まったくの赤の他人が、壇上で自分の煮えたぎるすべての「感想」を言うらしい。自分がなぜそんなことのオーディエンスにならなくてはならないのか? あなたの友人はそのチラシをのぞき込んで、
「こういうのはアレでしょ、背後に何かヤバい宗教とか絡んでいるやつでしょ」
「へえ、そんなのがあるんだ」
「割とフツーにあるよそういうの」
とあなたに教えてくれるかもしれない。
あなたの感想・コメントを求めて会場に押し寄せる人たちは0人だということが明らかになった。そのとき会場に紛れ込んだのは、挙動不審で明らかに頭がおかしい、身なりも破綻したひとりの老人だけだった。半分がた、ただの認知症なのかもしれない。口を半開きにして会場の隅にただ座っている。
あなたはその老人ひとりに向けて、笑顔で、マイクで、あなたの煮えたぎるすべての感想を熱烈に語るのか。そんなことが、有為で誇らしく文化的な営為だとはまったく言えない。
だからあなたはどうするのか。アミヨの始まりを順序だてて明瞭に視ていく。
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