さよならアミヨさん、ネット輿論に別れを告げるときがきた
1 徒党を組む
あなたは自分の後援会のチラシを配るのに、人の手を借りようとする。
「わたし一人じゃ限界があるからさあ」
あなたの講演会のチラシを、あなた一人が配るのと、あなたが集めた 20 人が一斉に配るのとでは、なぜか知らないがあなたにとって安心感が違うはずだ。安心感どころか、あなたはわけもわからず「高揚」まで覚えるかもしれない。
この安心感と高揚のために人は徒党を組む。先に話した「オラつく」というたぐいがそれだから、このときあなた自身もオラついていると分類してよい。
なぜ徒党を組むか、なぜ安心感と高揚があるか。このことは、とてつもなく重要な、根幹にかかわることだから、念押しするようにくどくどしく言っておきたい。20 人が一斉にそのチラシを配っているのを見るとき、旧来の、あるいは普遍的なわれわれの感覚、前提において、われわれはその 20人の集まりが、「大切なもの」のもとに集まっていると推定してしまうからだ。何か「大切なもの」があって、そのもとに彼らは集まって、その「大切なもの」は何なのか、今から語ることの周辺に示し、証そうとしている。もともとわれわれは、目の前の集まりをそのように推定してしまう性質があるのだ。それはそうだろう、今だってなかなか「不毛」ですべてを塗りつぶすために 20 人がわざわざ集まるということをわれわれは想定していないものだ。
だからこそこの 20 人は、笑顔で、闊達に、互いに「仲間」であるかのような振る舞いを偽装してチラシを配る。まるでひとつの船の乗組員たち、ひとつの時代を共有して生きる互いに誇らしいクルーたちというような、表情と振る舞いを偽装する。何であれば、服装に統一性をもたせれば、その偽装はさらに効果的にはたらくだろう。話し方や声の調子も似通わせ、統一性を持たせれば、彼らはまったく「大切なもの」に集った仲間たちに見える。
そうすると、20 人がチラシを配ることには効果が出てくる。笑顔で闊達にチラシを配るクルーたち。チラシという言い方が気に入らなければフライヤーという言い方でもかまわない。それを受け取った人は、先ほどとは違い、いちおう「なんだろうこれ」と内容を読み、その歩調をゆるめる。講演会の会場にちらりと視線を遣る。
わたしはいまとんでもないことを話しているのだ。どのようにして人がアミヨになっていくか、またアミヨになっていったか。そして、なぜそこから逃れようもなくなるか。身も蓋もないことを話している。
笑顔でチラシを配る 20 人は、「仲間たち」のふうに偽装しているが、もちろんあなたが壇上で何を話すのかなど知ったことではない。スタッフである彼らでさえ、あなたのコメントなど求めていない。
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