ムン
ムンの循環と解決
人々に巣食うムンの恐怖。その恐怖に対抗するために、わたしは前もってこう言っておきたい。<<未だ命を見つけていない者においては当然のことだ>>と。何の罪もなくふつうに生きていますと、自分の無罪や善性を信じて生きている人は、想定外の恐怖に出くわすことを前もって知っておいたほうがよいように思う。いまは文学のスリルを愉しんでいるのだという厚かましさを添えるぐらいの豪気をもって。あなたは何の罪もなくふつうに・命など見つけずに生きているかもしれない。命など見つけていないあなただとしたら、あなたはどうやって日々のおっくうさを乗り越えるエネルギーを得ているのだろう? あなたが「それは……」と答えようとしたとき、すでにあなたの全身は「ムン」という音を立てている。命を見つけていないあなたは何の音も立てずに力ある答えを示すことなどできない。意地悪で言っているのではなく、あなたがいちいち発見する手間を省略するために申し上げている。あなたにとってこのことにかかわる時間短縮はきっと貴重なことだろう。
命を見つけていない・そこにつながっていないということは、性質としてその「身」は未だ存在していないということになる。体だけが存在している状態だ。体は生きもの、そしてその生にバックアップが欲しいときは体が「かわいい」必要がある。それは本来、生きものの嬰児に宿される庇護訴求の機能だが、人工的にそれを作ろうとするときは、最終的には「我慢」の極点を超える必要がある。我慢がかわいいのだ。天地を引き裂くような「死ね」の叫びを内側に隠しきり、裏腹にニッコリとほほえんでみせる。すると確かに見慣れないほどの「体・かわいい」が得られてくる。ただしこのことの先には、当然ながら「かわいい」と「死ね」しかなく、その他の世界にかかわる芳しき霊魂は一切ない。
「死ね」が「かわいい」とつながっているのは思いがけないことだ。しかしじっさいに、特に若い人においては、「死ねと思われたくないからかわいくなりたいんです」という直接の感覚はあっておかしくない。「とにかくかわいかったら生きていけるけれど、かわいくなかったら正直なところ人権ない」、そういう感覚がいかにもありうるだろう。どちらにせよ現代では誰も彼も我慢しなくてはならない。われわれの存在じたいが「我慢」だと言っても差し支えないほどだ。「かわいい」じたいが我慢から発生しているので、「かわいい」を得るためには我慢をしなくてはならないし、「かわいい」と扱ってもらえないならば、そのこともやはり我慢で対抗するしかない。
腰高の「ムン」。腰高になったときに得られる、自我の高揚。吾我の驕慢。それだけが自分を落ち着かせ、それだけが自分を解決し、それだけが自分を救済する。まったくそのように感じられるし、そのように体験される。下方に発される「死ね」の声。初めはそれを躊躇するが、いったんそれを内心にでも発すると、ふっと自分は楽になり、「これでいいじゃない、これで正しいじゃない」という確信に変わる。下方に「死ね」を向けたら自分は今日もすんなり上方の「生」へ向かうことができる。そのとき自分はもちろんムンムンなのだが、ムンムンであれ自分は楽になって解決したのだからそのムンムンとやらに疑問を持つ気にもなれない、とその腰高はさらに補強される。
そのことに特に問題はないのじゃないか。そう感じて、われわれはこの十年間をやってきたのだ。だがそうしたムンのやり方は、生死においては初めから完成した結論であっても、ひたすらわれわれを命から遠ざけるという一点において肯定できない。もちろん、魂だの命だのということを永遠に否定するという前提であれば、それはもうムンだけが生涯すべての真理となるわけだが、そのように信じる人は信じるとして、そうではないと信じる人に向けてわたしは話を続けてゆこうと思う。
ムンの恐怖は、まるで迷いの森をモチーフにしたホラー映画のようなのだ。森の中にムンの木なる邪悪な樹木があって、主人公はいまこの樹木から離れようとしている。「もうムンとはおさらばだ」「この木はなんといってもおっかないのだから!」、そうして森の中を、右往左往ではあるが踏破していく。星を頼りに、風を頼りに、せせらぎを頼りに、何かに導かれているに違いないと信じて。さんざん苦しい思いもするけれど、わたしはムンの木とは縁を切ることを決めたのだ。森を歩くうち、知ったふうの顔をしたフクロウに馬鹿にされて、心底から腹が立った。なぜこんな侮辱を受けないといけないのか。なぜこんなつらい思いをしなくてはいけないのか。いや、それでも自分は正しい道へ踏み出したのだから、胸を張って進んでいいだろう。そうして進むうち、なんだ、ただこうして歩きだせばよかったのか、と気づかされて気持ちがすっと軽くなっていく。まだまだ道のりは遠いにせよ、もうここまで歩けば大丈夫だ。このすがすがしい、解決した気分が何よりの証拠だ。自分をバカにしたフクロウのことも、いまはもうどうでもよくなった。それどころか、いまここまで来ればすべてのことを朗々と、誰に対してでも語りたいほどの気分だ。そうして背伸びをして、自分の絶好調を信じたとき、ふと後ろを振り返ると、自分はもとのムンの木に寄りかかるほど近く立っているのだ。そのときの恐怖といったら、本当にギャーと悲鳴をあげて恐慌に陥ってもおかしくないほどのものだ。
ムンの循環について、その絶望感に取り込まれる前に、筋の通った合理的な説明をしておこう。これは単純な話なのだ。この物語の主人公はこれまでに、さまざまなおっくうさを乗り越えていくことや、その他の、力が必要な局面のすべてについて、ムンから力を借りることでやってきた。人によってはそのムンから「かわいい」まで与えてもらったという場合さえある。ムンはその意味では主人公の恩人でもあるのだ。主人公はこれまですでにムンで実績をあげてきている。
本来は、それらのすべての実績を得ていくにあたって、人はいちいち「命」との接続を見つけ、その接続においてのみすべてをやりこなしていく、ということをしてこなくてはいけなかったのかもしれない。単純に言うと、この主人公はこれまでそれを "サボって" きたとも言える。命の発見やそれへの接続ということに、生意気に首をかしげてみせて、ムンですべてをやってきたものだから、そのぶんの借り入れがムンに対して残っている。いっときに、ムンから借りたものをすべて返済できたような気がしたのは、やはりムンから借り入れをしていたからなのだ。借金を借金で返したということ。だから以前の借り入れはすべて消えてなくなったように見えたのだが、やはり借り入れは相変わらず残ったまま、何なら借入総額は増えさえしたというわけだ。それじゃあ、旅立とうとしたところいつのまにかムンの木のもとへ戻ってきたということも単なる妥当な結果だと言うよりない。
厳密に言えば、雨の日にトイレットペーパーを買って帰ることのおっくうささえ、命との接続を見つけてそれをやりこなさなくてはならなかった。そうしたことのすべては、ふつう「ムン」の力を借りて済ませてきただろう?「我慢して、やることはやるしかないでしょ」と行動してきた。
だから単純に言って、すべてのことを本当にやらないといけないときが来たのだ。いちいちのことについて、これがわたしの命なんですということに結びつけて、すべてのことを本当にやらなくてはならないときがきた。そのことは、あなたにとって決して不幸なことではあるまい。あなたにとってちょっと気が遠くなるかもしれないせよ。
それにしたって、わたしが十年前に、すべてのことは意識ではなく脳でやらなくてはダメだと、そうでないとあなたはメンヘラ文化的なものに取り込まれてしまうと、じゅうぶんに警告したじゃないかと言えば、あなたとしては頭を掻いてごまかすしかあるまい。あなたはこの十年間、あるいはもっとさかのぼっての数十年間、ムンでやりこなしてきたことを、けっきょく自分の命と接続してすべてやりなおさなくてはならない。それはまだ佳い話ではないか? ここでさらに投げやりになった先に待ち受けている話は、もうそのやりなおしを "させてもらえない" という、真の恐怖のストーリーに決まっているのだから、そのことに比べれば現在のあなたは未だ希望にあふれている。課題の巨きさに見合った希望がちゃんと用意されている。
ひとつひとつのことを、いまさら、本当にやっていくのだ。自分の命につながったことなのだと、音もなく馬鹿正直に。そのことは気の遠くなるような行為だけれど、それは果ての無い行為ではないし、その行為のさなかにあるときに恐怖はない。気が遠くなるけれど循環はない。ムンの木の葉が、一枚枯れて落ち、塵になって消え去る。あなたはもうそれをムンでやらなくなったのだから。二枚、三枚とそれは続いてゆき、やがてひとつの枝がバサッと落ちて消え去るだろう。そのときあなたは、そのことについてムンっとしようとしても、もうできなくなっているのだ。
すべてのことを、自分の命につながったこととして本当にやりなおしていくのだ。あなたにたとえば、架空の日本酒の銘柄、その名前をひとつ決めてもらおう。一升瓶に貼られているラベルは未だ白紙だ、そこにあなたが銘柄の名前と図柄を書き込む。
そんなことでさえ、あなたはエッとなって動揺する。そんなことでさえ力が要るもので、あなたはムンとしてしまう。腰高になって、ムンとした声と表情で、思いついた銘柄の名前を言ってしまう。それだとまたやりなおしだ。そこで書きこまれるのは、本当にあなたが決めた銘柄の名前でないといけないから。
ゴルフの練習をする人が、腰高になってムンとなって、その打球を飛ばしているうちは、未だ一球も彼の打球は出現していないことになる。わずかも腰高にならずムンとならず、彼のままスイングしてボールを打つということがいかにむつかしいことか。単なる練習でなんとかなることじゃない。そこに命が見つからなければ彼のスイングも出ないし彼の打球も出ない。学門が要るのだ、彼の体をいくらムンムン振り回しても、彼の身はゴルファーにならない。
また、たとえばあなたにこう問いかけてみよう。人は労働するべきだろうか。学生は勉強するべきだろうか。人は人を愛するべきだろうか。これに対する答えようはいくらでもある。だが、答え方やその内容が問題なのではない。あなたがわずかもムンとならず、本当にあなたが見てきたもの、本当にあなたが視ている世界、本当にあなたが知ったこと、信じること、情熱のほとばしること、それに基づいて、本当にあなたが答えなくてはならない。わずかもムンとならずに答えなくてはならない。それはそんなに簡単なことではない。
ふつうわれわれは何かひとつを考えるにしても、また話すにしても答えるにしても、半分は自分のムンに頼るし、もう半分は「一般」ということに頼るものだ。人は労働するべきだと、一般に言われている。学生は勉強するべきだと、一般に思われている。人は人を愛するべきというほうが、一般に聞こえがよい。そうしたものに頼るのだが、きっと言わずもがなのこと、そのときその一般というやつもムンとしている。
ムンのひとつである「一般」ということについて考えてゆこう。
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