ムン
一般、しばしば、ムンに取りつかれた考えと挙動
一般という存在を否定する必要はない。たとえば、一般に赤信号は「止まれ」で、青信号は「進んでよし」だ、このこととケンカする必要は誰にとってもまったくない。いかなる芸術家でもそんなところに闘争を仕掛ける理由はないだろう。われわれは信号の規則についてはまさに一般人でよい。だが自分の魂にかかわることまで一般ということに保証をなすりつけてはいけない。
われわれが見かける最も濃厚な「一般」の気配は、テレビ番組としてよく知られるいわゆるワイドショーだ。誰もワイドショーで誰かの魂を見かけることは期待していない。そして「ムン」と言えば、ワイドショーじみた光景のすべては笑いたくなるほどにムンムンだ。PTAの会合や、親戚の法事、地域の慣習行事など、じつに一般と呼ぶべき一般が強調されるそうした場は、ムンがわかりやすく圧している。
赤信号や青信号に関しては、われわれは一般のまま、一般人そのままでよい。けれどもわれわれがワイドショーそのままの人間になってよいのかというと、そんなことを肯定する人はまずいまい。この差分は何から生じているかというと、これは単純な話、信号の規則にはダウンフォースやらリフトフォースはないからだ。信号の赤色や青色に関わって上昇したり下降したりする魂はない。だから、そうしてダウンフォースもリフトフォースもないことについては一般そのままでよいのだが、十八歳でお酒を飲んでよいか、十五歳とキスしてよいかという話になってくると、それはけっきょく一般がどうこうということに括り付けていられなくなる。もちろん一般にはどうなっているか、法律や条例のことは知っているべきだろうが、法律や条例やワイドショーに言われるままにするということは、けっきょく本当には自分では何一つやっていないということになる。ワイドショーで「十八歳でお酒はいけませんよね」と言うとき、当たり前だがその一般というやつが体にムンと出現している。
ワイドショーに映っている出演者のほとんどは、じっさいには十八歳のときには飲酒経験があったと思うけれどね! コメンテーターとしてはシレッと「十八歳でお酒はだめですよね」と言う。そう考えると、われわれはけっこう不気味でいかがわしいものを見せられているわけじゃないか、その「一般」というやつの中で。
十八歳は未だお酒は飲んではいけないという、遵法的な、お堅い一般論があり、片側には、「もちろんダメですけれど、若気の至りでちょこっとというぶんには、そこまで責め立てなくても」という、寛容さの一般論がありうる。ここではもちろんそのどちらが正しいというわけではなく、それが一般のこととして言われるときには、どちらも同じように「ムン」としているということだ。大げさでなく、たとえばツイッターなどのSNS上でこの飲酒と年齢の問題についていわゆるレスバトルが起こると、どちらの論者も、余裕を持っているふうでいながらその体勢は腰高だ。そして遵法側は寛容ぶる者らにうっすら「死ね」と思っているし、寛容側は遵法ぶる者らにうっすら「死ね」と思っている。レスバトルがヒートアップすればはっきりと「死ね」と思うだろう。「話が通じないのでもういいです、死んでください」。
そうしてムンとムンがやりあうことに命はなく、その中ではそれぞれに対立する吾我の驕慢があるだけで、誰かが本当の何かをやってはいない。十八歳の少年少女の前に置かれたワイングラスについて、「いいじゃん飲めよ」と言うにせよ「やめとけよ」と言うにせよ、それがムンとせず自分の本当に考えたことになるかどうか、そんな小さなひとつひとつのことにわれわれの命が掛かっている。
ワイドショーに代表される「一般」というやつが、われわれの魂を真に案じてくれるということはありえないだろう。ありえないし、そんなことを期待するのは、さすがに期待するほうがどうかしている。
昔の話になるが、東京で得たわたしの友人が、夜の銀座で殴り合いをしたという話を人づてに聞いた。男Aが男Bの愚痴っぷりに呆れ、さらにその愚痴の中に女性を冒涜する言いようが混ざりこむことに腹を立て、「お前ちょっと表に出ろ」ということになったらしい。その時点では酒精もあって、売られたケンカを買う男Bは「なんだよ、やんのかよ」と強気だったらしいが、じっさいに表に出ると男Aは本当に全力でやる気マンマンだったらしく、そのことを看取した男Bは男Aを「ちょ、ちょっと待て」となだめようとしたらしい。しかしときすでに遅く、男Aから男Bへの一種のケジメのようなものはブチ込まれてしまった。その光景はさいわい、戦闘の勝ち負けというような血腥(なまぐさ)いものでなはく、ただガラス張りの銀座の路面店からは恰好の見物だったそう。これはいわば短期的に生成した決闘のようなものだと思うが、このようなことを肯定するワイドショーは存在しない。「一般」でいうと、暴力はいけませんね、ということで初めから締めくくられている。法律上は決闘に関する罪というものも定められており、法的に決闘は許されていない。
けれどもわたしはその時点でわたしの友人らが、遠い場所ではあれ、気合の入った生きようをしていることをすなおにうれしく思ったのだった。
同じように、わたしはたとえばその気合の入った生きようをしている友人が、十五歳の少女にせがまれて「しょうがないからキスしてやった」ということがあったとしたら、わたしはそのことにワイドショーのようなムンとした腰高を向けるつもりはない。「ふーん」あるいは「そりゃまあそうだろうな」というようなことしかわたしからは出ないだろう。
わたしがこうして話していることは、いまここではどこにでもあるようなエピソードのひとつとして、平穏に聞き流されるだろうが、このようなことに対してもムンの勢力は見逃さなくて激怒する。ワイドショーに出ているタレントが、夜の銀座で友人をブン殴って見世物になり、あげくに十五歳の少女にせがまれたとはいえキスをしたとなったら、ただちに謹慎させられて芸能界を干されるだろう。それが一般的なことだが、こうして見ると一般というものは正常なのか異常なのかよくわからなくなる。冷めきった無言で銀座から帰宅してアニメキャラクターで自慰をするほうが正常だと本当に言うのだろうか?
われわれがここで明確に知らなくてはいけないのは、ムンが反応することは、<<自分で考えたことではない>>ということだ。ムンはただ、「一般」に頼りきり、「一般」によって自分の側の安全が保障されていることを確認すると、吾我の驕慢からダウンフォースを爆発させることにタガが外れるというだけだ。
彼ら自身は、何かを本当にやったことはないし、自分で何かを本当に考えたことはないし、自分で何かを本当に話したこともない。彼らはただの強弱がついた「ムン」なのであって、彼らおよび彼らの話というものは存在していない。
その証拠に、あなたはムンムンしたワイドショーの出演者と酒を飲みかわしたいとは思わないだろう。一方、愚痴っぽさと女性への侮辱に対してケジメの一発を銀座の路上ショーで決めてやった男Aとは、あるべき酒杯を交わせるような者でありたいと望んでいる。
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