ムン
湧き出てくる「我慢します」
「我慢」はもともと仏教用語で、サンスクリット語ではアートマ・マーナと言う。わたしはこの現象をときに悪魔じみているとも思うので、悪魔(マーラ)の語を当ててアートマ・マーラとも言いたくなるのだ。わたしが初めてこのことに気づいたとき、しばらくはその悪魔のヴィジョンを抱えて息を切らすほどだったことを夢うつつのこととして記憶している。
われわれには何が与えられるだろうか。まず、われわれには何もかもが与えられるだろうか。きっと、何もかもが与えられるわけではないだろう。たとえば世の中にいま、いわゆる婚活に焦る女性が一定数いたとして、そのすべての女性が、いわゆる上級の男性を伴侶に獲得できるわけではあるまい。容姿・器量に恵まれていない女性もあるし、年齢的にすでに不利となった女性もある。また社交性や知性、美徳や生産性について自己を高いレベルまで研鑽はしきていない女性もある。彼女らのぜんいんが「あこがれの彼」とゴールインできるわけではないだろう。けっきょくはそこそこの、傍から見ればていどの釣り合っている誰かと縁談を進めていくということが有為にありえて、そうでなければ、最後までそのお相手は見つからずじまいということもありうる。
誰でもが、自分の欲しがったものをそのまま与えてもらえるわけではない。それが不平等だと言い立てる口もあるかもしれないが、そのことはさておき、事実として最上のものが全員に分配はされない。希少なものを全員に分配することはできない、全員に分配できるならそれは希少なものではないのだから。
ではここでその例に引き当たる婚活女性はこのことをどのように受け止めるだろうか。自分が欲しいと思う最上のものは、どうやら自分には与えられず、その次点というのも与えられそうにない。となればその次の、そのまた次の、そこそこの、ということになっていくが、そのことについて、一般的にはいかにも、
「それはまあ、しょうがないことですよね。残念ではありますけど、我慢します。そこそこの相手でもしょうがないです。自分だって大したものではないのですから、当然ですよね」
ということになりそうだ。
"我慢" します?
ある少年が自転車を欲しがったとする。少年の友人が裕福な家庭の子で、その子は最新式の、高価で見栄えのする自転車を買い与えられていた。それにアテられて少年も自転車を欲しがるようになったのだが、少年の家庭はその友人ほど裕福でないため、最新式どころか新品じたいを買ってもらえず、いとこが使っていたおさがりを与えられることになった。いとこのおさがりは自転車として問題なく使用可能ではあるが、見た目にも傷んで貧相で、かっこうのよさなどはどこにもあしらわれておらず、形状はいわゆるママチャリだ。体格にもまだ合っていないし、漕げばキーキー耳障りな音が鳴る。
このママチャリで、友人のそれと並んで走れというのか?
少年はぐずるかもしれない、
「もっとカッコいいやつ買ってよ! 電動のやつ、テレビでCMしているやつがいい」
「ダメです、なんでもかんでも欲しがって! 我慢しなさい」
「えーだって、欲しいんだって、ないと一緒に遊びに行けないんだって」
「我慢しなさい!」
「買ってよ!」
「我慢しなさいって言っているでしょ!」
少年はやがて癇癪(かんしゃく)を起こすかもしれない。のたうちまわって叫び、暴れまわるかもしれない。こんなものをどうやって説得することができるだろう? なぜ友人が買い与えられて堂々と乗り回しているものを、自分は買い与えてもらえないのか。自分はその友人より身分が低いとでもいうのか。そんな、説明もできないことを、無理やり納得しろというほうが横暴なのではないか。
少年はただ自転車を欲しがっているだけだ。ただ欲しがっているというだけの彼を、どのように断罪することができるだろう。彼は何かを盗んだわけでもないし、誰かを傷つけたわけでもない。彼はただ、ひたすら、欲しがっているだけだ、欲しいものを要求しているだけだ。
母親はしばらく、泣き叫ぶ子供を無視していたが、いいかげんその騒音に我慢の限界が来て、ツカツカと子供に詰め寄って、その頬を平手で打つかもしれない。
打たれた子供は痛みでますます泣くだろう。
母親は、
「こんなことも我慢できないんか! あんたアホの子か! あんたみたいなのはウチに要らないから、もう出ていけ! 出ていって二度と帰ってくんな!」
子供の爆裂した叫び声と、母親の激昂が激突する。こうしたことにおいて、果たして母親のやりようが正しいのか誤っているのか、はたまた正しいやり方などというものが存在するのか、誰にもまったくわからない。
ただただ、鳴り響くのは「我慢」の一語だけだ。
やがて少年が、泣き疲れたのか腹が減ったのか、それとも作戦を変えたのか、わからないが、
「わかった、我慢する」
と言った。
それを受けて母親は、
「そうよ、いい子ね、ちゃんと我慢できるもんね。ごめんね強く言って。でもあなたはいい子だもんね、ちゃんと我慢できたから、偉いよ」
と子供を褒めるだろう。
"我慢" する?
少年は、自分が友人のような高価な自転車を買い与えられないということを「我慢」するのか。
友人の自転車と並んで走れば自分の自転車はみすぼらしくて憐憫を受けるということを「我慢」するのか。
「我慢」というのは本当には何をどのようにすることなのだろう。
アイドル・オタクの人々は、いくらアイドルに入れあげたところで彼女と恋仲になって褥(しとね)を共にできるわけではないだろう。彼らはそうしてアイドルの女性と交際できるわけではないことについて、
「そうですね、そこは我慢します」
受験勉強や、学生のうちの勉学や活動に、そこまで力を入れたわけでもない、また就職活動でも全力を注ぐことができなかった青年は、漠然とあこがれていた派手で高収入な職業には就けなかったけれども、
「そうですね、そこは我慢します」
自分で作ってみたシチューは、あまりおいしいものにはならなかった。夕食に自分でしぶしぶ食べるという感じになったけれど、
「そうですね、そこは我慢します」
我慢というのはいったい何をしているのだろうか。
わたしが誰かを旅行に連れて行ったとしよう。新幹線に乗り、当地でレンタカーを借り、料理屋で食事をして、ホテルに泊まった。
それについて、
「すっごく楽しかった、最高」
と言ってくれる場合もありうる一方、次のようにも言いうるわけだ、
「新幹線はグリーン席ではなかったけれど、わたし我慢したし、レンタカーもふつうの安い乗用車だったけれど、わたし我慢した。料理屋も地物が食べられるってだけで高級店ではなかったけれど、わたし我慢したし、ホテルだって三ツ星ではなかったけれど、わたし我慢したよ。わたしって偉くない?」
これだけ聞いているともちろん、お前は何様なんだと言いたくなるけれども、そこで次のように言えば話は混迷していく、
「あのね、わたしの知っている人は、新幹線って言ったらグリーン席なの。わたしの知っている人が車に乗るといったら、ベンツとかポルシェとか、そういう楽しめる車なの。わたしの知っている人がホテルに泊まるといったら、ちゃんとミシュランガイドに載っているホテルの、コーナースイートかロイヤルスイートなの」
「たとえば子供がさ、自転車を買ってもらうとして、自分の友達は電動機能つきのかっこいい新型を買ってもらっているのに、自分だけ親戚のおさがりだとしたら、かわいそうだと思わない? そんなみじめなことを、その子は我慢しないといけないの? 子供はかわいそうだよね、どうして自分だけそんなみじめな思いをしなきゃいけないんだって。ぜったいバカにされるに決まっているし、そんなのぜったい傷つくよ」
「それに比べたら、わたしはちゃんと我慢できる人だから、われながら偉くない? 文句言っているわけじゃないよ、じっさいわたし文句言わなかったでしょ。少々のことは我慢するよ、なんだって手に入るわけじゃないってことぐらい、わたしわかっているからさ。我慢しなさいっていつも両親に教わってきたし。わたし偉くない? その点わたしのこと、それなりに褒めてくれていいと思うんだけどな」
ここで、新幹線の指定席に乗り、ありふれたレンタカーを借り、ありふれたホテルに泊まることは、標準的でふつうなことだと、彼女を諭したとしよう。すると彼女はどう答えるか。
「うん、まったくそのとおりだと思うよ。だから、わたしちゃんと我慢しているじゃない。あなたの言うとおり、ふつうの、標準的なものでいいと思うよ。上を見たらキリないし、こんなの、我慢すれば済むことなんだから」
我慢というのは本当には何をどのようにすることなのだろう。我慢するというのは、必ずしも標準未満のことについて我慢するという文脈で成り立つわけではない。
このことについては彼女のほうがよく知っている、
「標準のていどを与えられているのに、それを『我慢する』って言い方はおかしいって? うん、それはそうだけど……あのね、よく聞いてね。標準がどうこうっていうことも勿論わかるけど、一方でじっさいに、新幹線といえばグリーン車、車といえば外国の高級車、ホテルといえば星付きのところっていう、そういう人もいるんだよね、事実として。事実としてそういう人がいるのは確かなことじゃん。それと比べたら、わたしはそういうものを与えてはもらっていないけれど、そこはまあ我慢しようと。そういうことなの。わかる? 文句言っているわけじゃなくて、わたしはわたしのしている我慢をわかってほしいの。わたしはちゃんと標準的なもので我慢しているよって言っているの。あのさあ、ぶっちゃけさあ、グリーン車と外車と三ツ星ホテルを与えられたら、誰だって本当はそっちのほうがいいわけじゃない? そっちのほうがいいから値段が高いわけでしょ。だから、みんな本当はそっちのほうがいいけれど、与えてもらえないから我慢しているんだって。ただそれだけのことで、こんなの誰にとっても当たり前のことじゃない?」
この女性の例はいま、わかりやすさのために極端な形で表示している。その極端さのせいで「さすがにこんな人はそうそういないよ」と思えるのだけれど、本質的にはそうではない。本質的には誰もが同じだ、生死軸・ムンに所属するかぎりは。ただこのことのあらわれが、ふつうは目立たないように隠蔽されるので、このメカニズムが起こっていることが気づかれない。「我慢」のメカニズムは、極端には見せびらかされないだけで、ここでの彼女が言うものとまったく同じものがわれわれのうちに仕込まれている。われわれはむしろ「我慢」の真相をここでの彼女の見事な語り口から真摯に学ばねばならない。
<<我慢するというのは、そのことを受容するということではまったくない>>。水面下で、まったく別のプロセスが起こっている。
この知られざるプロセスが、知られざるまま「蓄積」していくとき、われわれにはどのようなことが起こるのだろう? わたしはかつてそのことに悪魔のヴィジョンを見て息を切らすほどだった。
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