ムン
我慢のメカニズムと、その蓄積
オンボロの自転車のスコアを 10 とする。
新型の高級自転車のスコアを 100 としよう。
そのスコアの差は 90 ある。
自我は、そのスコアが他人と同等なら納得し、他人より勝るならよろこぶ。
他人未満のスコアだと、そのことを「許しがたい」と怒る。他人未満のスコアというのは、自我にとって恥辱であり冒涜だ。そして恐慌であり「死」だ。
なぜ「死」なのか。
生死軸において、下位のスコアは上位のスコアに比べて「死」だ。恥辱にまみれた死。
ダウンフォースは「死ね」であるから、
「はいはい、ぼくは死ねってことね」
ということになる。
このことに「我慢」というプロセスはどのような解決をもたらしているか。
オンボロの自転車の所有者に、「偉い」というスコアを付与してみよう。スコアを 90 付与すると、彼のスコアは計 100 になり、高級自転車の持ち主に並ぶ。
ただ、その「偉い」というものは実物として使えるものではないので、スコアとしてただ並ぶというだけでは溜飲が下がらないだろう。そこで、同じ「偉い」というスコアを付与するなら、スコア 100 を付与してしまえばいい。
そうすると、彼のスコアは計 110 になり、高級自転車の持ち主を凌駕する。高級自転車の持ち主を上から見下し、いわゆるマウントを取ることができる。
「どっちが死ねばいいかといえば、あっちが死ねばいいってことですよね? ぼくのほうが偉いから」
彼の声も表情も明るくなる。
彼は恥辱に満ちた死の側ではないのだから。
我慢とは「吾我の驕慢」だ。忍耐ではないし、受容でもない、悟性でもない。
我慢というのは何の解決にもなっていない。
我慢というのは、もっと根深い、とてつもなくおそろしいものだ。
高級自転車の持ち主は、スコア 100 、オンボロ自転車の彼は、我慢スコアが追加されてスコア 110 となった。
ここでわたしが、畑でとれたキュウリを彼らに分配するとしよう。キュウリはわんさか穫れたので、本数はいくらでもある。
高級自転車の持ち主に 10 本のキュウリをやったとする。オンボロ自転車の持ち主に、同じく 10 本のキュウリをやったとしよう。
するとオンボロ自転車の持ち主は、
「……は?」
という納得のいかない顔をする。
表情は笑顔だが、その向こうにムンという強い音が鳴る。
オンボロ自転車の持ち主は、
「彼と同じ 10 本ですか? ぼくには 11 本ではないですか?」
と主張してくる。
「ぼくのほうが彼より偉いんでしょう? そのスコアが反映されていないように思いますが」
もしここで、彼にだけキュウリを 11 本やるのは不自然だからということで、やはり彼にキュウリは 10 本しか与えられなかったとする。
するとその 1 本のぶんはどうすればいいか。
これもやはり「我慢」するしかない。
彼はすでに我慢するということを知っているので、
「わかりました、我慢します」
と明るく言うだろう。
我慢によって彼はますます偉くなるのだから。
キュウリスコア 10 に、「偉い」を 2 ほど追加して、彼のキュウリスコアは計 12 になった。
この点でも彼はまた、高級自転車の友人よりもスコアとして上位になったわけだ。
我慢は我慢をよび、蓄積された我慢は、いずれどこかで相応する報酬を請求してくる。
「ぼくのほうが偉いんですよね?」
もしここで彼に我慢をやめさせたらどうなるか。我慢スコアを排除すれば、高級自転車とキュウリの合計は 110 、オンボロ自転車とキュウリの合計は 20 だ。
これまでスコア 12 ぶんも上位だったものが、急にスコア 90 ぶんも下位につくことになる。
すると生死軸の性質上、
「これってぼくに、死ねっていうことですよね」
ということになる。
先の段の冒頭にわたしは、このような問いかけを示した、「われわれには何が与えられるだろうか、まず、われわれには何もかもが与えられるだろうか。きっと、何もかもが与えられるわけではないだろう」。
自我においては、これは単なるウソで、自我というのはそんなに複雑な思考を持っていない。
自我というのは、他人に与えられるものは何でも自分にも与えられると思っている。
誰も翼なしに空を飛ぶことはできないし、誰も別の銀河系へワープしたりすることはできないので、そうして誰にも与えられないことについては自我もさして求めないが、そうではない、<<他の誰かに与えられるものについては、自分にも与えられるものだと思っている>>。
美女に上等な男性があてがわれるのを見ていた女性は、自分にも上等な男性があてがわれるのだと思っているし、上等な男性に美女があてがわれるのを見ていた男性は、自分にも美女があてがわれるのだと思っている。
自我はそういう単純な思考をしている。
誠実に生き抜こうと実践している男性を、美少女が慕うのだとしたら、すべての男性は、自分も美少女に慕ってもらえるものだと思っている。
誠実に生き抜こうとしていない男性が、美少女に慕われないという現実があったとしたら、そのことは「いちおう理屈ではわかるけど」と捉えられるものの、根本的にはやはり、
「いや、納得がいかん」
と思われている。
自我は、なんでもかんでも与えてもらえると思っているのだ。
<<自我は理性ではない>>のだ。理性もそれなりに存在しているように見えるが、生死軸において理性の声が自我の声に勝るということはけっきょくない。
理性が何をどう言おうが、自我は、
「いや、だから、納得がいかない」
の一点張りだ。
他人がサッカー選手になれるのなら、自分もサッカー選手になれると思っている。
他人が人を笑わせることができるのなら、自分も人を笑わせることができると思っている。
他人が何かの名人になれるのなら、自分も何かの名人になれると思っている。
他人が称賛されるのなら、自分も称賛されるのだと思っている。
しかも無条件でだ。
無条件ですべてが与えられるものだと自我はどだい思っている。
だから幼児は短冊に、将来の夢として「総理大臣になりたい」「金持ちになりたい」「映画スターになりたい」と書くのだ。
自我が空想するとき、われわれは決勝点を決めるサッカー選手であり、人を笑わせるショーマンであり、誰にでも名を知られた名人であり、誰からも称賛を受けて紙吹雪の中にいる。
自我の空想でサッカー選手に「なれない」ことを空想するということはないのだ。
われわれは大人になって、その自我の思い込みという性質を克服したわけではない。
自我というのはもともとそういう性質のものであって、その性質じたいが変化することはないのだ。
われわれは大人になって、自我の思い込みが満たされないところを、我慢スコアで埋め合わせるという習慣を得ていくだけだ。
「我慢しなさい」という親の言いつけは、説明されないまま、
「我慢スコアで手当てして、あなたがスコアで上回りなさい」
ということだと、子供の自我で処理されている。
自我は、自分が無条件で他人と同等のものを与えられるもので、それが当然だと思っているから。
さらに自我は、無条件で他人より勝るものを与えられて、優越することだけが気持ちいいから。
先の例で、旅行にかかわって女性がわれわれに「我慢」の真実を教えてくれた。その旅行のエピソードをスコアリングすると、たとえば次のとおりになる。
グリーン席 200
外国高級車 1000
高級ホテル 2000
<計> 3200
普通指定席 100(我慢 120)
国産大衆車 300(我慢 800)
中級ホテル 500(我慢 1700)
<計> 3520
カッコ内の我慢スコアだけを足し算すると 2620 になる。この我慢スコアのぶんだけ、「わたし偉くない?」と彼女は言っているのだ。彼女がした「我慢」というのは他ならぬそれのことだから。
彼女は普通指定席と国産大衆車と中級ホテルについて文句は言わない。ただし彼女が文句を言わないのは、その我慢スコア 2620 ぶんに相応する報酬を、いつか請求して回収するつもりでいるからだ。その報酬をもらうときまでは、彼女は「我慢」を続けようと思っている。彼女の自我にとっては何らマイナスはなく、誰の下位になるわけでもない、それどころかけっきょく「わたしが一番偉いよね?」ということなので、彼女の表情も声も明るいままに保たれる。
こうした「我慢」の一体どこが美徳なのか、ひたすら恐怖に値するメカニズムだと言わざるを得ない。
ところが困ったことに、われわれはこの「我慢」を否定して、本来のしかるべきメカニズムを示すことができないのだ。つまるところ、高級自転車を欲しがって駄々をこねる子供に対して、
「我慢しなさい!」
と言いつける以外の文脈を持っていない。
だからわれわれは、けっきょくのところ「我慢しなさい」と他人にいい、自らについてもけっきょく「わかりました、我慢します」と言い出すのだ。我慢します、という言い方が、いつまでもどこからか湧いてくるみたいに。
なぜわれわれは、「我慢しなさい」という以外の文脈を持たないのだろう。それは、理性が命に由来するものだからだ。命によって理性がもたらされ、理性そのものに命がある。そこで、生死軸に所属するかぎり、人には理性の「ようなもの」はあるけれど、その理性には命がなく、よってそれは真の理性ではありえないということになる。
自我は理性ではないということを決して忘れてはならない。自我はけっきょく、他人に与えられるものは何でも自分にも与えられると思っており、何なら他人に勝るものが与えられるということさえ当然ありうることと期待している。いかなる事実や理由を突きつけられたところで、自我がそれを納得するということはない。自我がこのことで何かを「譲る」ということは決してない。自我は理解した上ですべてを「我慢」するだけだ。我慢したそのスコアぶんだけ、自分は偉くなり、その偉くなったぶんだけ相応の何かが与えられるだろうと、その帳簿を管理しつづけている。我慢という魔法のような約束手形をどこからともなく仕入れてきて、それで採算が合ったので引き取りますという挙動を繰り返しているのだ。彼女はその約束手形が不渡りになるとは思っていないので好調を続けている。
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