ムン
ムンが魔境入りする
都市伝説のたぐいは、どこまでが本当なのか、ただの都市伝説なのか、誰にもわかりようがない。むかし、ヨーロッパにアフリカのゴリラの存在が報告されたときには、あまりに信じがたくてUMA扱いされたそうだし、ベトナム戦争に先立ってアメリカの船がトンキン湾で攻撃されたというのは、アメリカの自作自演で陰謀だったという説が有力だ。いまでは禁止どころが悪魔の所業のように言われているロボトミー手術は、当時ノーベル生理学・医学賞を受けた。足裏の反射区を刺激して全身の調子を良くしようというマッサージだって、人によってはただのオカルトということになる。脳を電磁波から守るために金属箔を巻いて寝るという人もいるそうだが、そうしたもののすべてはウソかまことかよくわからない。われわれが一般に使う鎮痛剤だって、「どのていど効く」のかは未だ定量化できていない。ただ習慣的に効くと知られているから使われているだけだ。現代、インターネットが普及して、調べればあたかも何もかもが身体に悪く、何もかもが陰謀に満ちているように言われている。まさかそれらのすべてを真に受けるわけにはいかないし、すべてを真に受けている人はさすがに少数だ。わたしが子供だったころには、マクドナルドのハンバーガーの肉はミミズの肉らしいという都市伝説がまことしやかにささやかれたし、コーラを飲むと骨が溶けるという都市伝説、自分で耳にピアス穴をあけると視神経が飛びだして失明するという都市伝説がまことしやかに言われた。けっきょくのところ、ハンバーガーの肉をミミズで用意するほうがはるかに困難で不利益だし、コーラを飲んでアメリカ人の大半が骨を溶かして死んだという事実はないし、わたしの知りあいでピアス穴のせいで失明したという人はひとりもいない。それでも当時の人々はそれなりに真に受けて震えていたのだ。一九九九年に「ノストラダムスの大予言」らしきことが何も起こらなかったとき、当時のわれわれは安心というより何かタチの悪い落胆さえいくらか覚えたように記憶している。
ムンが魔境入りする。「魔境」というのはここでこしらえたファンタジー用語ではなくて、古くから座禅にかかわって警句として用いられることばだ。人は解脱を目指そうとすると、その手前で典型的に誘惑に引っかかって魔境入りするらしい。つまり、解脱なんかしていないのに、自分は解脱した、法力を得た、三千世界を観た、というような誤解に入り込む、その「いつものパターン」をむかしの僧侶たちは魔境入りと呼んだ。どのような口調でそう呼んだのだろう、現代のわれわれのように「はいはい、魔境魔境」という具合にだろうか。
ムンは「計算が合わない」という不安と不満にぶつかる。この計算が合わないという納得のいかなさを、どのように解決すればぐっすり眠れるだろう。あるいは、どう考えれば「なあんだ」となって意気揚々とベッドから起き上がれるだろう。
誰にも相談できないけれど、
「このごろ、わたし自身が何かヘンな気がする。気のせいだとは思うけど」
なぜか知らないが、自分の声に違和感がある。これまでになかった「キャキャキャッ」とのけぞるような笑い方をするようになった。そのとき、自分から汚い声、冷たく病んだような声が出る。聞き慣れない周波数が鳴っていて、なじみのない情緒に支配されていく感じがする。これまでになかった、「死ね」という感情が湧いて笑いが止まらなくなる。
たまに、不意に鏡に映った自分の顔が、何か知らない人の顔をしていて、
「これ誰?」
と見えることもある。
おかしい。わたしは命の者としての歩みを続けてきて、こんなにちやほやされるまでになったのになぜ? 誰からも「かわいい」と言われて、「ありがとう」と答えるのにも抵抗がなくなってきたのに。
この不調と違和感は何のせいだろう。
ムンはひまつぶしがてら、そうした漠然とした調子の悪さ、違和感について検索してみた。すると近隣に、エステサロンと兼業で、オーラ診断をやっているところがあるという。
ムンはエステサロンには行きなれていたので、そこでそのオーラ診断というのをやってみた。
「なんか、自分から違和感のある声が出るんです。あと、笑い方とかも変わったかなーって」
「それはね、あなたの、繊細なところが前面に出てきてねえ、それが "毒電波" に干渉されるようになったからですよ。誰にでもあることだから、浄化が必要で……ひとまず、このお香を焚いて眠ってみなさい。お風呂で半身浴して、粗塩で体を清めてからですよ。できたら窓の外に満月を見て、深呼吸を七回してから眠ってください」
後日、
「不思議なことに、言われたとおりにして眠るようにしてから、こころなしかぐっすり眠れるようになって。毒電波って、なんとなくわかる気がします。あ、それで、周囲と声の周波数が合わなくなった件なんですが、あれって」
「そうそう」
「こっちが向こうに合わなくなったというか、こっちが新しい次元に進んでいて、向こうが毒電波に犯されたままだから、合わなくなってきたってことですよね」
「そうなんですよ。現代人は、いろんな毒物を食べていますし、そのことにかかわって、いろんな陰謀がはたらいていますからねえ。ノーガードだと、そういうふうになっていっちゃうんですよ。だから、流されないようにしていかなきゃいけない」
「それってどうやって防御していけばいいんでしょう」
「そうですね、たとえば代表的には……」
健康問題にかかわって、環境や飲食物に慎重になることはあるていど当然だ。さまざまな健康法に関心が湧くのもそれじたいは異常なことではないだろう。
けれどもいまから三十年前、一九九〇年代に、けっこうな数の人が「飲尿療法」といって、自分の尿を毎朝コップ二杯ぶん飲むという健康法を実践していたことは、現代の弱年層をそれなりに驚かせるだろう。いまこのときにそのような健康法を推奨してみても、まず現実味がないに違いない。この飲尿療法にしたって、その効果がウソかまことかはいまもってわからないのだが、ただ事実なのは当時に比べて現在もそれを続けている人はきわめて少なくなっているだろうということだ。
そしてこれらのすべては、現在の自分に不安を覚えていない人は多くの場合で深入りしないということだ。飲尿療法といって、「うーん、そういったことは、本当にあるのかもしれないけれど」、でもいまの自分の調子が何か悪いわけではないから、遠慮しておくわ、ということになる。頭に金属箔を巻いて毒電波を防御したり、満月を見上げて七回深呼吸して「浄化」したり、そういったことのすべては、自分について不安がある・調子が悪い・違和感を覚える・「なんなんだろうこの気持ち悪さは」「何かがうまくいかない」「眠れない」「異様にイライラして八つ当たりが止まらない」という悩みがあるときにかかわって生じてくる。
「こんなはずじゃないって、どこかで思っていたんですよね。これまで自分のやってきたことと照らし合わせると、なんか計算合わないなって思っていました」
ムンは我慢スコアや「かわいい」による倍増評価が、自分の実体と適合しなくてずっと「おかしい」と感じているので、必然、こうした都市伝説にかかわっても魔境入りしやすくなる。もちろんそれでも、都市伝説のすべてはどれがウソでどれがまことなのかはわからない。すべての陰謀論がウソということではないのだろうし、すべての陰謀論が本当ということもむろんないだろう。
ただ、ムンが魔境入りするという「仕組み」だけ前もって知っておき、自己判断の材料にするということは誰にとっても健全だ。自分がうまくいかない理由を外部的な「毒」に帰するのか、世の中のいかがわしさをすべて「陰謀」に結びつけるのか。道を究めようとしたかつての僧侶たちだって魔境入りが警句として言われたということはわれわれを戒めつつ励ますこととして知識に持っておいて損はない。
帳簿上のスコアとして 1000点 の自分が、なぜか実体として 10点 しか出せていないように思え、自信を失いそうだと、激しい苦しみが足許に迫りくるとき、われわれはいくらでも簡単に魔境入りするだろう。
「こういうこと、本当にわかっている人はわかっていてさあ。わたしね、最近こういう人と知り合ったんだけど……」
魔境入りすると、とうぜん同じく魔境入りしている人たちと友人になっていく。その新しい友人(たち)に「あれっ?」とヘンなところを感じることがあったら、あるていど「自分は魔境入りしていないか?」と点検してみることは正当なことだ。魔境はムンの悩みじたいには救済的に作用するように感じられるけれども、けっきょくトータルで見たら「祝福よりわざわいのほうが多い」ということがあるので、「わざわいのほうが多いなら浄化とか言っても意味ないよね、というかそれって逆効果ってことだよね」と合理的な思考を持つべきだ。中にはどうしても、わざわいより自己評価のほうが大切ですと、ムンでも魔境でも抱きかかえていくという人もいるけれども。
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