ムン
ムンは自分を恐いもの知らずと思い込む
人は大切なものを持たなければ、傷つくことはないし、大切なものを差し出さないかぎりは、やはり傷つくことがない。その意味で、たとえば「どんな仕事でもやります!」と意気揚々と見える者が、必ずしも与えられた業務に対して責任感と集中力を発揮するわけではないということがすでに一般に知られている。
どんな仕事でもやりますと宣言するところ、機械を操作する単純な業務を与えてみたとして、じっさいにはろくに集中して真剣にその操作を続けられず、操作手順でミスをして、彼は同僚の従業員を負傷させてしまったとする。
「何をやっていたんだ! この手順だけは守れって、さんざん言ったし、ここにもそうデカデカと書いてあるだろうが!」
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 頭がパニックになってしまって。今後このようなことがないように気をつけます」
彼にとっては業務や自分の良心や、同僚の健康や安全など、何ら「大切なもの」ではないので、彼としては傷つくものがない。彼はどれだけ反省しているふりをしようとも、彼の内で傷つくものはないので、彼の反省というのは反省の「気分」ということに留まる。
「うわー、われながら、やっちゃったな」
彼は何ら大切なものを差し出していないのだから、彼がやっていることは一種の「真面目プレイ」でしかない。真面目ふうのキャラクターを押し出して遊んでいるということだ。もちろん彼は、それがふざけたことだとは知らず、彼はそうしたキャラクターを押し出しているかぎりは本当に自分は真面目で真剣にやっているのだと思い込んでいる。なぜそのような思い違いが起こるかというと、彼はこれまでに、他の人に大切なものがあると知らないできているからだ。あるいは他の人に大切なものがあるという可能性を否定してここまできているからだ。
ムンはおうおうにして、このように自分を「怖いもの知らず」と思い込む。またじっさい表面的には怖いもの知らずそのものとして振る舞う。あるいはキャラクター的には控えめで臆病でも、その内側はエッと驚かされるほど怖いもの知らずで、その極端な例は内部がどこか壊れているんじゃないかと周囲に疑わせるものがある。それは疑いというよりただの判断なのかもしれないが。
たとえば、人に嫌われるのが怖いと言っておきながら、唐突に女性に「あの、セックスさせてください」と言い出すような人は実在する。ほとんど知り合いとも言えないような女性に対してだ。彼は人に嫌われるのが怖いので、こころを閉ざし、女性に好意をもってアプローチすることなどできようがないのだが、彼は他人が「大切なもの」を持っているという前提がないので、彼が少し勇気を振り絞ったときには、彼にとって最大の利益と率直な望みを言う。その女性にとって、それが大切な人に向ける大切な愛の営為だということが根本的にわからない。そしてもちろんそのように申し出られた女性はエッと怯えながら、「イヤです、イヤに決まっています」と拒否する。それで彼は「そうですか、それってなぜですか? あなたと、ふつうのセックスがしたいだけです。みんなやっているんですよね」と食い下がり、「ちょっとマジでキモいんだけど」と嫌悪を明らかにして追い払うと、「わかりました」と去っていく。彼はそれによって傷つくわけではないし、彼の内部ではむしろ「勇気を出して女性を口説いてみた」というエピソードになっている。
そうしたことがあまり極端な形で出てこないのは、われわれが漠然と「空気を読む」ということをしているからだ。それでもほころびが出て、やはりその大切なもののあるなしと、それによる見当違いな「怖いもの知らず」は出現する。冗談でなくじっさいにあるのだ。
このばあい、公人は具体例に挙げられてもやむをえないと覚悟しているべきだと思うが、じっさいに二〇二一年に名古屋市長が、オリンピックで金メダルを受賞した女子選手の表敬訪問を受け、何を思ったか、その市長はメダルの獲得選手がそうするごとく、自分で受賞したわけではないその金メダルを手に取って、その口でガブリと噛んで見せたのだ。金メダルに齧りつくパフォーマンスじたい、そもそもよくわからない不明の趣きがあるように思うけれども、あろうことかその競技にもオリンピックにも無関係の市長が、その他人の栄光たる金メダルをその口腔で食んだ。わけのわからない、これは金メダルに対する凌辱のような行為で、市長は大きなバッシングを受けた。その凌辱されようがあまりにもおぞましく、選手の心中が痛ましいということで、その噛まれた金メダルは特例として協会から「再発行」されることになった。再発行といっても本来、彼女がチームメイトらと共に首にかけられた金メダルは、世界でひとつ、史上でひとつのはずだったのに。
市長はこの凌辱について、もちろんお詫びをし、「最大の愛情表現のつもりだった」と弁明した。そこから先は当事者でないわたしが口出しするところではないが、あくまでわたし自身の思うところを述べるとするなら、そもそもそこで「愛情表現」をしようとすることじたいがおかしいと思える。自分の愛妻や愛犬に対しては愛情表現をしてもよいかもしれないが、若い女性の金メダリストは市長の愛を口腔を通じて受けることを求めていない。もしその金メダリストがクリスチャンで、光り輝くイエス・キリストが降臨し、その救世主が祝福を与えるものとして金メダルにキスをしたということなら、彼女はその栄光をよろこんだ可能性もあるが、われわれの誰もオリンピックの金メダルに金メダルであること以上の祝福を与えようがない。少なくともわたしはそう考えている。金メダルや金メダリストに「愛情表現」を向けることで祝福を与えることができるのだという発想それじたいがわたしには怖いもの知らずに思えるのだが、それはともかくとして、じっさいにそういう例はあるということだ。そうした性根のことは、ふだんわれわれが「空気を読む」ということでカバーしているので露見しづらい。
人は大切なものがあるからこそ傷つく。ところがムンは、この傷つくという現象と場所を知らない。ムンは傷つくという分岐路に立つことがなく、もう長いこと、自動的に「我慢・吾我の驕慢」というルートへ入るということが続いている。ムンは傷つきようがないのでいつも、
「どんなことでも割とへっちゃらです」
と思っている。物事にびくびくしているような弱い者と自分は違うのだと思っている。ふだんはキャラクターとして気弱で臆病な感じかもしれないけれど、それはあくまでキャラクターであって、「基本的に怖がりではないです」と思っている。「どうしたらいいかよくわからない、という状況が多いだけで、何かが怖いとか、怖がっているということではないです」。
ムンにおける「大切なもの」はどうなっているのだろうか。ムンは傷つくという分岐路には立たないで、自動的に我慢のルートへ吸い込まれていくのだから、ムンの「大切なもの」はどこにも捧げられずに守られていく。ムンの「大切なもの」は、彼の内にずっと抱えられ続けるものとしてのみ存在している。彼の内にずっと抱えられ続けるもの、つまり、ムンにとって唯一かつ最大の大切なものは自己愛のみだ。自己愛はどこにも捧げられないので、けっきょくのところムンは傷つかない。だからムンは自分を「何かが怖い、とは思ったことないですね」というふうに恐いもの知らずだと思い込む。
ムンは本当は、自分がちょっとしたことで傷つくのにも耐えられない。ささいなことでわずかに傷つくということも耐えられずに、そのささいなことに対しても爆発的なムンで対抗するのがムンだ。自分を怖いもの知らずだと思い込むムンは、「いざ本気で怒ったらわたしのほうが怖いから」と思っている。そのことじたいも吾我の驕慢スコアとなって加点でムンを励ましているのだ。
ムンの怖いもの知らずはけっきょくのところ、
「自己愛を抱えて何にも捧げずに死んでいきます」
ということに落ち着く。破天荒な行動や、無鉄砲な振る舞いが散見され、あたかも彼を恐いもの知らずに見せかけるけれども、じっさいはわずかでも傷つくのが怖くて、その怖い思いをするぐらいなら「ヒステリーを起こして行方不明になるほうがマシです」と、じっさいには堂々たる逃げの口上が多い。
「怖いもの知らずで、何かを恐いとは思わない、怖がるということをしたことがないというのなら、人の前で、ちょっとは落ち着いて、力まずに、表情を作らず、そっぽを向かず、何かまともなことを話してみなさい。自分の愛や夢について。また、希望や光り輝くものについて」
そのような単純なことを要求されると、ムンは途端に強い音圧のムンを発する。全身を力ませて、力んでいることを自覚すると、そのことを取り消そうとして、次は「やけくそ」という態度に出る。そこから、どこかから借りてきただけの発想を、まるで自分の発見したことのように話す。その声の調子と顔つきは、余裕のあるふりをしながら、明らかに人を威圧しようという内心が浮き出ている。まともなことを話そうとしてもヒステリーで話は散逸、そうすると慌ててハハッと失笑したふうにして、人に対し根拠のないマウント気分を取って自分の安全を守ろうとする。さらに、そうした小細工のすべてが通じないと見るや、こんどは泣き落としや、パニックに陥って苦しむ「かわいそうなわたし」という立場に転じようとする。
「ガタガタじゃないか。まともなことをまともな調子で簡単に話すことさえできないのか。こちらをまともに見ることもしないし、ちぐはぐな表情と言いようをいくつも投げつけてきてごまかす。その上なおも自分の見栄だけ空気を読んでもらおうと、作為と甘えを仕掛けてきているじゃないか」
そうまで言われたらその人はそこから走って逃げだそうとする。比喩ではなく、本当に走って逃げだすということがあるのだ。そして、そうした遁走にさえ、やはりムンという音は鳴っていて、総じて芝居がかっているという事実から逃れられない。
「こんなの耐えられないです!」
「怖いものはないんじゃなかったのか」
「わたしに死ねっていうことですか!」
この場合、よくよく視認してもらうとわかることだが、わたしからこの人に何かを言いつけているわけではない。この人が自らを恐いもの知らずだというので、そのとおりかどうか、その人自身にその場で点検してもらっただけだ。
わたしは人は傷つくものだと思う。そして、傷つくことが怖くない、自分は怖いもの知らずだと思っている人がいたとしたら、その人はただのあさはかな思い込み屋すぎないと思っている。人は傷つくものだ。だからじっさいには、ここで示したようなひどいことはやらないし、やるべきでないと考えている。ただ、どこまでも当人が「怖いもの知らず」を言い張る場合は、話がどこまでも合わないので、そのように自分で点検してもらうよりないという場合がある。
その場合でも、
「傷つくよね、怖いよね」
ということに同意してもらえたら、それ以上の話はわたしからはない。
もちろんそのような点検をけしかけたからには、わたし自身は、まったく同じ場所に立ってまったく同じことをしろと要請されたとき、必ずそれを請け負おう。自分で立てない場所に他人を立たせてふんぞり返るというほどまでにはわたしもさすがに愚かではない。わたしはいまこのときも、人の前で、ちょっとは落ち着いて、力まずに、表情を作らず、そっぽを向かず、何かまともなことを話そうとしている。自分の愛や夢について、また、希望や光り輝くものについて。
わたしはわたしなりに、そこに立ち続けてきたつもりだから、この場所がどれだけ傷つく場所かを人より知っているつもりなのだ。ここに、命や世界が降ってきてくれなければ、わたしはまったく守られずに、かといって吾我の驕慢に耽る気にもなれなくて、そこにはただのズタズタに打ちのめされてふさぎこむ者が残っただろう。
わたしは恐いもの知らずではない。むしろわたしは、この傷つく場所がどれだけ「おっかない」ものかを直接知っている者のつもりだ。
そしてわたしが知っていることは、そこで見苦しくチャカムンさえしなければ、そのおっかないものはむしろ「生きろ」とわれわれに言っているということだ。
怖いもの知らずなんてとんでもない。勇敢で破天荒なふりをして、じっさいには、わずかな傷口にわずかな塩水が染みるということにさえ、割れそうなほど高くムンの音を立て、我慢スコアで手当てをほどこしているのがわれわれだ。肝腎な場所、正々堂々たる場所に立たされたとき、本当にはひどいボンクラぶりを露見させるしかないというみじめなわれわれ。その場所で「おっかないもの」にひとり向き合わされる。その「おっかないもの」は、性懲りもなく言い逃れしようとするあなたの醜ささえ、満座の前で暴露する。
それでも、その「おっかないもの」は、われわれに死ねと言っているのではない。おっかないものは、われわれに生きろと言っている。だからわれわれは、おっかないものを恐れはしても、それを遠ざけたりする必要はないし、そこから走って逃げだすという必要もない。怯える必要も本当はないし、泣きついて媚びるという必要もない。そんな、役に立たないことは何一つしなくていい。
むしろその「おっかないもの」に対しては、"寄る" というのが本来のあるべきやりようだ。われわれは、生きる励ましを得るために、そのおっかない場所と声にみずから "寄る" 。
ムンは恐いもの知らずなどではまったくない。ただおっかないものに "寄る" という、本来の勇気を持てずに生きてきた、そのことをいつまでも自白しているだけだ。
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