ムン
イラストを模すムン
「かわいい」は下方に発生する感情だ。生死軸に立つかぎりは、世界は弱肉強食で、上から下には「死ね」、下から上には「生をください」というフォースの風が吹くけれども、例外的に「かわいい」に関しては上から下へ能動的な守護・バックアップをしようという衝動が湧く。「かわいい」というのは、下から上へ、そうして保護を求めるシグナルなのだと説明した。またその現象が生死軸においては例外的なために、人は「かわいい」にかかわって自分が生命軸に所属しているような錯覚も覚える。けれどもそのとき転属する先は残念ながら「逆生命軸」なのだと、ここまでに説明してきた。われわれが生死軸に所属していながら生死軸の風に辟易しているなら、そこから脱出できるような錯覚を与える「かわいい」はわれわれのよりどころになり、われわれのヘイヴンにもなってしまうだろう。そのことは、現在のわれわれの実態によく当てはまっている。
以前、ある旅館でわたしはこのようなことを経験した。ありふれたことだが、通路を歩いていると、窓の外にヤモリがいた。ヤモリは無防備な腹側をガラス越しにこちらに見せ、愛らしい手のひらで窓に貼り付き、大きな目をくるくるさせ、電燈に寄ってくる蛾たちにしのびよっては、それらを懸命に食べていた。生きものが生きている姿、生きようとしている姿だ。わたしはそうした光景を見るのが好きで、素直にこころを奪われるところがあると認める。
その翌日の夜のこと。掃除か何かで紛れ込んだのであろう、同じ個体に違いないと思えるヤモリが、今度は建屋の内側にいた。白い壁と赤い絨毯の直交部分に、所在なげにたたずんでいた。わたしは引き続きその愛らしい姿にこころを惹かれてオヤオヤと思ったが、思うに、館内にはそこまで蛾が入り込んでこないのだから、ヤモリにとって建屋に入り込んだのは偶然かつ不本意なことではなかったろうか。もちろん建屋内にいれば、不意に鳥に襲われることがないというメリットもあるだろうが、それよりは食餌が得られずに困窮するということのほうがこのヤモリにとっては危機的なのではないかとわたしには思えた。もちろん当人にそのあたりを問いただして確かめることはできないのだけれども、わたしはそのヤモリを窓の外に出してやることにした。
窓を少し開け、そちらのほうへ追いやってやろうとするのだが、もちろんヤモリにとってはわかりようがないことなので、ヤモリは何やら大きな影が自分の頭上に迫ってくるのを察し、とりあえず前方へ数歩、素早く逃げてみるという様子。爬虫類らしいそういう挙動は何度か繰り返された。それでさすがに埒が明かないので、わたしは彼の前方を手で閉ざし、前後から挟み撃ちにする形でゆっくり彼を手中に捕えることにした。こうした生きものにとっては、人の体は温度が高すぎ、長く持っているとやけどになるという話を聞いたことがあるような気がして、なるべくいじくりまわすことはせずに、手中に捕えたそれを窓の外側、つかまりやすい網戸のところに張り付けてやった。手中に捕えられているあいだ、ヤモリは状況がわからないので、わたしの手の中で右へ左へ、とりあえず焦って動き回る様子で、その生命の感触もやはりかわいらしいものだとわたしには体験されたが、もちろんこうした爬虫類は苦手でかわいいとはまったく思えないという性癖の人もあろう。
わたしは知らず識らず、そうしてヤモリをかわいいと思い、余計なお世話で逆効果だったのかもしれないにせよ、わたしなりに彼がよりよく生きられるようにと思い、彼をふたたび餌の豊富な窓の外側へ逃がしてやった。このことについて、わたしのやりようはともかく、ヤモリの側に何かの咎があるとはまったく思えない。ヤモリは作為的に「かわいい」をわたしに見せつけようと工作したわけではなく、ただよくわからないうちに建屋内にいて、よくわからないうちにわたしに捕まり、よくわからないうちにふたたび窓の外に張り付けられただけだ。彼が「かわいい」うんぬんはわたしの側の主観であって、彼の側はあずかり知らぬことだ。
もちろんそうしてヤモリを窓の外に出してやるということは、そのぶん餌となる蛾たちが犠牲になるということだが、もしそこだけを抽出して見るなら、わたしはヤモリに生きろといい、蛾たちには死ねと言いつけたということになる。あるいは抜け目ない鳥がいつか彼を見つけて、飛び掛かってきて彼をついばんでしまうのだとすると、わたしは結果的にその鳥に生きる餌をやったことになるだろうか。そこまで含めれば、「生きもの」の全体に対してわたしが何をやったのかは一概には言えなくなる。一概には言えなくなるので、同じようなこととして、野生の動物を観察する学者は、自然環境で起こることになるべく手出しをしないということが一般的なルールになっている。野生のプレーリードッグの一家を観察していれば、彼らの子供の一匹がハゲワシにさらわれることもあるだろう。そのときに「危ない!」と言ってプレーリードッグの子を脅かして巣穴に逃げ込ませたり、「あっちにいけ!」といってハゲワシに小石を投げるようなことは、自然の仕組みに不当な干渉をするルール違反だと学者たちのあいだでは捉えられている。もちろん、そのルールを守ることだって人為的なことでしかないから、そのルールを守るのが正しいとも誰にも断言はできないけれども。
わたしはこのように考えている。これはわたしがそのように考えているというだけであって、何らの正しさも誰にも保証されていないものだけれども、ヤモリが蛾を食べて生きているなら、それはそのように生きろと命じられてのものだとわたしには思える。そして蛾がそのようにヤモリに食べられてしまうのであれば、蛾たちはそのように生きろと命じられているように思える。そのように死ねと命じられているのではなく、そのように生きろと。ヤモリに食べられてよくわからないうちに死ぬということまで含めて蛾の生なのではないかと思うのだ。そのヤモリが、やはりよくわからないままに鳥についばまれて死んでしまうのだとしたら、それもやはりヤモリはそのように生きろと命じられているように思う。このことを、弱肉強食といって殺伐とした利己的遺伝子の力学でのみ捉えようとする人も多いけれど、わたしはその殺伐ぶりのほうこそ感情が入り込んで恣意的な捉え方に崩れているように思う。プレーンに考えて、ヤモリに食べられてしまうことがあるのも蛾の生であり、鳥に食べられてしまうことがあるのもヤモリの生なのではないか。そのことに比較して、ヤモリが迷い込んだ館内で水や食餌を得られずに干からびていくのだとしたら、わたしには彼が「そのように生きろ」と命じられている気がしない。
わたしは本来の「かわいい」という現象は、そのように「蛾なのでヤモリに食べられちゃった」「ヤモリなので鳥に食べられちゃった」ということ、生をまっとうすることに向かう――そのように命じられたままであろうとする――ことに博(ひろ)く寄与しようとする、われわれの魂のはたらき、およびそのあらわれなのではないかと思っている。
まだ目も開いていないような子猫が、母猫とはぐれてニーニー鳴いていたとする。そのままではカラスに襲われてしまうかもしれない。そのような危機が迫っていることは、もちろん生まれたての子猫の側は知らない。自分の鳴き声がどのような周波数とシグナルを持っているかも子猫の側は知りようがない。このことについてわたしに起こる率直な感情をいえば、ニーニー鳴いている子猫がカラスの餌にされてついばまれるというようなことはあってほしくないのだ。カラスの餌にされてついばまれてしまうということについて、子猫は「そのように生きろ」と命じられていると思えない。カラスだって餌をさがして飛び回っているのは当然だが、そうしたカラスたちはいつもどおり街中の生ごみを見つけて拾えばいいではないか? カラスたちには申し訳ないのだが、わたしは率直にはそう思っているのだ。もちろんこれは同じ哺乳類として、鳥類に向けるそれよりも贔屓(ひいき)が掛かっていると指摘されるだろうが、それについてはわたしは堂々と「そうです」と答えよう。それでもなお、カラスが子猫をついばむというのがそれぞれに命じられたことの結果だとわたしには思えない。その子猫たちは、カラスたちの餌にならないため、人の住む町中で地域猫として生まれてきたのではないか。
わたしが思うに、これは「子猫がかわいいからカラスに襲われてはいけない」のではなく、「カラスに襲われてはいけないからかわいい」のではなかろうか。カラスに襲われて餌になってしまうということについて、子猫はおそらく「そのように生きろ」とは命じられていない。そのまま母乳も与えられず干からびて朽ちなさいとも命じられていない。そんなことになってはいけない、もっと別の「このように生きろ」と命じられているものがその子猫にはあるのだ。もしそのように命じられているということが確認可能なのであれば、その子猫に厚かましく寄ってきたカラスに対しては、人は堂々と小石を投げて追っ払っていいだろう。「それはお前の餌じゃない」と。そうすればカラスも、愚かでなければ、「これは失礼しました」と焦った様子を示し、同時にどこかホッとした様子も示して退散していくはずだ。
このように本来の「かわいい」というのは、当人が所属する軸を選びようもない無力な者であるうち、前もって特権が与えられ、一種の寵愛として「このように生きなさい」という命令が与えられてある状態なのだと思う。これに対して、「カラスに襲われたら子猫は死ねよ、自然の摂理なんだからしょうがないだろ」とわざとらしく傍観を決め込むというのは、むしろ自然の摂理とやらを言い張ることで、真の節理から目を背けようとする・させる悪意がはたらいているように思う。
「かわいい」ということはあちこちに起こる。イラストに描かれたもこもこのキャラクターでも「かわいい」と感じるし、工事現場で働く屈強なおじさんが、コンビニエンスストアで昼食のカップラーメンを選ぶとき、どれにしようか真剣に、指差してまで検討しているさまはじつにかわいいものだ。
かわいいものはよく生かさなくてはならない。われわれには知りえないこととして「このように生きろ」と命じられているのだから、それがまっとうされるように、かわいいものはよく生かされなくてはならない。イラストに描かれたもこもこのキャラクターについては、それを生かすも何も、そもそも生きものではないのだからわれわれは安心してそれを眺めていられるだろう。
ここまで来て、この「かわいい」は、本当に人為的に「作る」ことができるのだろうか? という疑問が湧く。わたしは、窓に貼り付いて無防備な腹をこちらに見せ、懸命に蛾を食べているヤモリをかわいいと描写したが、じゃあ「わたしはヤモリ人間です」と言って人が裸で窓に張り付き、目をくるくるさせて蛾を食べるようにすれば、それで「かわいい」となるのだろうか。そんな不気味な行状のものをかわいいとは言わない。なぜかわいくならないのか。それは、人は「そのように生きろ」とは命じられていないからだ。もし人がヤモリ化してそれを「かわいい」と言ってもらおうとするなら、美少女にファンシーなヤモリの着ぐるみをかぶせ、やはりファンシーな背景とBGMの前に立たせて、彼女の稚気めいてふざける表情とポージングを見せつけて、さりげなくバストと性的な腿などを浮き立たせながら、それを「かわいい」と思ってもらうしかない。
われわれは何をやっているのか。この「かわいい」にまつわる混乱を整合させるには、ひとつの矛盾を看破する必要がある。それは、かわいいというのは生のバックアップを求めるシグナルなのに、生きていないもの、イラストや記号にもその「かわいい」のシグナルは乗せられるということだ。生きものでないそれに生のバックアップ信号を乗せるということは矛盾している。
その矛盾したものが、ただ「かわいいね」というだけなら何の罪もなさそうだが、それを生きるものの「かわいい」と混同させたとき、われわれの魂によくないことが起こる。
生きていないものに「かわいい」のシグナルが乗っかっているのは "偶像" なのだ。偶像は生きていない。そこで、偶像は生のバックアップを受け取りようもないので何も起こらないが、その偶像を利用して誰かが生のバックアップをかすめ取るなら、そこには大きな罪が起こる。イラストに描かれたもこもこのキャラクターは、同じイラストで描かれたカミサマに護られればよいし、同じイラストで描かれた豊かな牧草を食べて生きればよい。イラストに描かれたもこもこのキャラクターに地上の黄金や上等なワインを奉じてやる必要はない。女性がもし美少女のイラストを模するなら、そのかわいさはイラストに描かれたかわいさであって彼女のかわいさではない。わたしが旅館で見かけたヤモリは、懸命に生きるヤモリのイラストを模したヤモリではなく、懸命に生きようとする生きもの当人のかわいさなのだ。
本来、この世界にあるものを模してイラストが描かれる。あるいは、夢に体験する世界を模してイラストが描かれる。たとえばわたしが先ほど話したところのヤモリを、話されたところのイメージからイラストに描いてみることは何も罪深いことではないだろう。またそこに、余計なお世話かもしれないがヤモリを外に逃がしてやろうとするわたしのイラストを描き添えることも可能なはず。そうして、「われわれを模したイラスト」というのは通常のこととしてありえても、その逆、「イラストを模したわれわれ」というのは元来イレギュラーなものだ。
たとえば漫画「サザエさん」や「ドラえもん」は、東京の世田谷区や練馬区の、庶民的な人々あるいは子供たちというイメージを模して描かれた漫画だが、ここから逆に、世田谷区民がサザエさんを模したり、練馬区民がドラえもんを模したりすると、その逆転はイレギュラーだ。あるいは幼児らが、大人たちのする家庭の暮らしぶりを模して「ままごと」をやるのはありふれたことだけれど、わざわざその家庭の暮らしぶりをいったんアニメーションにし、そのアニメーションを模して幼児らが「ままごと」をやるのだとしたら、その幼児らがやっていることはイレギュラーだ。その幼児らがやっているのは「ままごと」ではなくて「ままごとアニメーション・プレイ」だということになり、彼らは家庭を模しているのではなくてアニメを模していることになる。
このイレギュラーは昨今ではあまりイレギュラーでもなくなってきて、つまりそれは「コスプレ」の類としてじっさいに趣味や表現として流通している。コスチューム・プレイを省略してわれわれが「コスプレ」と言い慣れていくうち、われわれはそこに「プレイ」という奇態なことへの語が当てられていることを見落としていくように思う。ゲーム中にそれぞれのプレイヤーが中世的職業の「役割(ロール)」を担ってゲームを進める形態のことをロールプレイングゲームと呼ぶが、それと同じ「プレイ」がコスプレの中にもあるということ。じっさいにはコスチュームそのものをプレイすることはできないのだから、本当にやっていることはきっと、コスチュームにあやかってのキャラクター・プレイなのだろう。衣装に関心を寄せているような言い方はギミックにすぎず、本当のところのお楽しみはキャラクターへのなりきりプレイにあるはずだ。
ここまでいくつかの「かわいい」に言及してきた。旅館で見かけたかわいいヤモリの話、あるいは子猫がニーニー鳴いてかわいいという話、昼食のカップラーメンを真剣に選んでいるおじさんがかわいいという話、イスラトに描かれたもこもこのキャラクターがかわいいという話。これらについては、それを「かわいい」といって特に違和感はないはず。だがここで、コスプレをしてなりきりの表情をしている美少女が、その性的な露出も加わって「かわいい」ということには、なにか後ろ暗い違和感が残る。このコスプレ美少女に対する「かわいい」は、どうも旅館で見かけたヤモリの「かわいい」と性質が異なるのではないか。それについては次のように考えればよい。
前者の「かわいい」群は、そのかわいさから「イラストに描かれてもおかしくない」と感じられるのだが、後者、コスプレ美少女をイラストに描くのは何かがおかしいということだ。
なぜコスプレ美少女をイラストに描くのはおかしいのかというと、本来の仕組みから逆転しているからだ。コスプレ美少女は、もともとイラストに描かれていたものを自分で模してそのような「プレイ」の姿になっているはず。それをふたたびイラストに模すというのは循環していて不毛だ。本物の紙幣をもとにニセ札が作られて、今度はニセ札をもとにして本物の紙幣を作ろうという話にはならない。
モネが睡蓮の池を絵に描いたとして、それはおかしなことではない。けれども、こんどはモネの絵をもとにして、自宅の庭池をモネの絵画を模したものに造っていった人がいたとしたら、そのことはどのように評されるべきだろうか。モネの絵画に惹かれて、そのあこがれからこのように造園しまして、ということなら「なるほどね」という納得のみで留まるだろう。だがこの庭の主がそこから「モネプレイ」に耽るようなら、われわれは彼に対して怪訝な眼差しを向けるはずだ。
蓮池から絵画を描くことがレギュラーで、絵画から蓮池を造成することはイレギュラーだ。同じように、銀幕の中のオードリー・ヘップバーンをイラストに描くことはレギュラーだが、イラストに描かれたオードリー・ヘップバーンを自分の顔面で模すというのはイレギュラーだ。現代における「かわいい」の違和感はここにある。本来、生きているものを「メディア化」するということがレギュラーであるのに、いまはその逆転が主流で、メディアを「生きているもの化」するということが行われている。世田谷区や練馬区の人々を「サザエさん」「ドラえもん」に描こうとするのではなく、サザエさんに描かれているものを人々が模そうとし、ドラえもんに描かれているものを人々が模そうとする。じっさいそうして「サザエさんをやってみた」という動画チャンネルがあれば、それは相当量のファボを稼ぎそうだという予感をわれわれは覚える。
現代の作られた「かわいい」は、何かしらのメディアを模するというイレギュラーで作られているのだ。各種、かわいい女の子のイラストがあって、そのイラストをじっさいの女の子たちが模すことで「かわいい」が作られている。コスプレの現象になぞらえて言えば、各種のかわいい女の子「プレイ」が行われているということ。もちろんそれは女の子に限らず、いまやかわいい青年プレイや、かわいいおじいさんプレイなどもありえよう。教師の前で子供たちはかわいい児童たちプレイをするかもしれないし、教師の側も、児童たちの前で熱心でかわいい先生プレイをするかもしれない。
その他、たとえばもともと人を笑わせることに長け、人を笑わせる魂に満ち、人を笑わせることに際限のなかった人が、かつて漫才師やコント師のようなお笑い芸人になったかもしれない。それが次第に逆転してきて、いまはメディアに現れるお笑い芸人のイメージをもとに、自分たちがそれを模していくということで、若く新しいお笑い芸人が作られていくという向きがある。それはどこまでも「お笑い芸人プレイ」というなりきりプレイでしかないだろう。
またかつて、人々に潜む滑稽さを暴き立てて模し、チャップリンは喜劇映画を作ったが、それが高名になると、こんどはその喜劇映画を模して喜劇作品をでっちあげようとする向きが出てくる。するとそれは作品にはならないし、その演者もチャップリンにはならない。インスパイアというもっともらしい語で言い逃れされるとしても、その行為は構造上どこまでも二次創作にすぎず、われわれはそれにわざとらしい拍手をさせられるのを内心で不快で不本意に思っている。
あるいは、こんにちでは邦画というとその多くがアニメのいわゆる「実写化」ということが主流になったけれども、アニメ人気にほだされてそれを愉しんでいるうちには気づきにくいにせよ、もし冷静にそれについて、
「この "実写化" というのは、全員でコスプレして、全員でキャラクターのなりきりプレイをしていることと、何が違うの?」
と問われたら、われわれはその問いには答えあぐねる。
こんにちの「かわいい」を作り出すためには、まずその背後に偶像を立てねばならない。この場合の偶像とは、「かわいい」ということのメディア・イメージだ。イラストの一枚でもいいし、アニメのキャラクターでもいい、加工された女優の画像イメージでもかまわない。装飾や配色だって「かわいい」のイメージになりうる。その「かわいい」イメージというのは、直接の具体的な一個の例でなくてもかまわない。
それじたい生きているわけではないそのメディア・イメージは、生きてはいないのだから偶像だ。この偶像を崇拝して、その偶像の「かわいい」を模すること。それで、自分が「かわいい」という評を得ていくようになる。それが現代で言われるところの「かわいいは作れる」という技術だ。その「かわいい」の性質によって、生のバックアップを要請するということ、その恩恵を受けていくということまで含めてが、現代の「かわいい」の技術体系だと言っていいだろう。
その成り立ちの背後に偶像崇拝があることから、現代の「かわいい」はすべてアイドル由来・アイドル的と言ってよい( idol は「偶像」を意味する)。
われわれはかわいいイラストを観たとき、少なくともそれに「死ね」とは思わないのだ。イラストにもこもこのキャラクターが描かれていたとして、そのような作為的なデザインを過剰に見せつけてくることにしばしば閉口することはあっても、その罪のないキャラクターじたいに「死ね」とは思わない。「死ね」も何も、イラストに描かれたキャラクターは地上に生きておらず、死ぬとしたらそのメディアの中で死が描かれるだけだ。それだってかわいそうなものだから、何も死ななくていいだろうとわれわれは庇護的になる。もこもこに描かれたかわいいキャラクターが、鉄の斧で裁断される絵面などわれわれは見たくない。
現代においてわれわれは生死軸に所属し、その「死ね」だのいうダウンフォースに辟易している。のみならず、若く実力もじゅうぶんには具えない若年者においては、じっさいに生きていくことへの不安、生そのものへのおびやかしに苦しめられるというところがあるだろう。そこで少なくとも「死ね」とは言われないかわいいイラストは、まるで自分の上位の存在と思える。
「このイラストみたいになりたい」
自分もこのイラストに描かれたもののようにかわいいものになれたら、「死ね」というダウンフォースは向けられなくなるのではないか。誰もがわたしに向けて「生きろ」という風を向けてくれるのではないか。
そのようにして、偶像にひざまずき、
「わたしもかわいくなりたい」
と、その崇拝を示し、恩恵に浴するを求めるということが起こっている。
現代、すでに何もかもについて、生きているわれわれを起点にして「どうするか」と考え出すというようなスタイルではなくなっている。先に脳内にこびりついたものとして、イメージ、イラスト、キャラ、その偶像群が佇立しており、適宜にその偶像の「なりきりプレイ」をするということが万事についての主流になっている。それはもはや生き方と呼べるようなものではなく、生き方を失ったわれわれの実情としか言えない。
イメージ、イラスト、キャラ、偶像だけが「死ね」とは言われず、だから自分もそれを模していくしかないという状態だ。両親は親というなりきりプレイ、その子は子供というなりきりプレイ、教師は教師というなりきりプレイ、児童は児童というなりきりプレイ、社会人は社会人というなりきりプレイ、お笑い芸人はお笑い芸人というなりきりプレイ、文化人は文化人というなりきりプレイ、恋人は恋人というなりきりプレイ、芸術家は芸術家というなりきりプレイをする。その一点張りになっていよう。それがあくまでおふざけのプレイに留まるならわれわれに咎はなかろうが、われわれはそれでじっさいに生きようとしているし、それをなるべく「かわいい」ものにして、なるべく多く生のバックアップを乞おうとしている。そのことに咎があることはわれわれの魂が直接後ろ暗さにおいて知っていよう。
現代のすべてを見分けるのはつまるところ背後に偶像を崇拝した「プレイでしょ」という視点に尽きる。その中でも特に、「かわいい」という偶像を背後においたなりきりの「かわいいプレイ」が強い勢力を誇っている。
←前へ 次へ→