ムン
余談1 アニメ「推しの子」が流行している
二〇二三年七月現在、わたしは流行しているアニメ「推しの子」の第一話を観た。第一話だけ長く一時間半ほどあり、アニメ映画のような仕上がりになっている。わたしはそうしたアニメ作品そのものに対してはさすがに自分が門外漢という感想しか持たなかったが、「かわいい」ということおよびこの現在時点での「アイドル」という現象に対して、現代人がある意味では素直な恐怖を悲鳴じみて表明しているところがあるというように思えて、わたしはこのタイミングで当作を観たことに奇遇の感を覚えた。もちろん、わたしの側の一方的な思い入れによる感慨にすぎないにせよ。
「推しの子」の作中で、主人公格のアイドルの女性は、そのアイドルたるの「かわいい」がニセモノ・作り物にすぎないということを内心のつぶやきとして述懐する。そしてそのことが、
「ニセモノかもしれないけれど、いつか本物になればいいなって」
と泣き落としするような展開になり、そこからはいわゆるメンタル的な怨憎劇の方向を見せていくのだが、そこの展開じたいは陳腐かもしれないにせよ、それ以前に主役側のアイドルに自分のことをニセモノ・作り物にすぎないと述懐させたという一点については、現代のアイドル文化に対して一石を投じようとするものだとわたしは居住まいを正すことになった。
ただ一方で、もし当作をアイドル文化に対する斬新な切り込みのものとするのであれば、その描写は片手落ちで、肝腎なところが抜け落ちている、あるいは肝腎なところから逃避していると言わざるをえない。もちろんこのマンガ・アニメ作品はそのような強硬なモチーフを意図して作られたものではないだろうからわたしの指摘も空転しているだろうけれども、当作では舞台上の露骨なアイドルパフォーマンスの者が、プライベートの自室でもその露骨なアイドルパフォーマンスを続けてしまっているというところが気にかかる。これはじっさいにはないことだ。彼女は、舞台上ではどのようなアイドルにでも「なりきり」を示すにせよ、生きている人の実像としてはそのようなものではありえない。睡眠不足で体調を崩すこともあるだろうし、スマートフォンで業務連絡のテキストを送信するときはただの社会人の調子にもなろう。忙しくなれば疲労もしてくるし部屋の中も散らかっていく。ストレス発散のためにはやけ食いのひとつもしたくなるけれど、その中で体型維持のために食欲と戦わなくてはならない。どれだけ疲れていても、肌荒れしてはいけないので寝る前にスキンケアをしなくてはならない。翌日は朝八時から撮影があり、朝っぱらからでも飛び跳ねて強烈な笑顔と声を出力しなくてはならない。だから日常的にはイライラしていることが多くあるだろう。彼女らは人前やカメラの前で決してそういうところを見せないが、それを見せないというのは彼女らがそのときプライベートではないからにすぎない。アイドルだって排泄はする。アニメ作品で少女をトイレに行かせるというのは作中のイメージを汚染しかねない危険な描写で、ほとんど唯一の例として、宮崎駿監督が「魔女の宅急便」で主人公の少女キキをトイレに行かせるという描写をしたことがあった。この描写は勇敢な描写で、それ以上に慎重な描写だった。
「推しの子」ではプライベートの描写をごまかしていたが、もし本作のほのめかした「アイドルの裏側」を真正面から表現の意図とするならば、本来は何より、「人は "さびしさ" から逃れられない」ということが描写されるべきだったろう。人はさびしさから逃れられないので、性行為、自慰、変態行為などをその逃げ口としてむさぼるし、悪趣味なマンガや動画をむさぼるということもする。匿名あるいは「裏垢」を使ってどぎつい悪口をSNSやその他のウェブサイトに書きこむこともあるだろう。そんなことは不健全だとわかっていても、いくらかでもさびしさを慰めないでは眠れないのだ。すでに円熟した芸の極みにあるという達人のような人ならともかく、とにかく派手さで仕事をするという若年の女性が、夜中の二時までステージの光と音響を浴びて、それから帰宅して三十分でぐっすり眠るということは不可能だ。一度でも精神的に調子を崩せば、食事も睡眠もまともに摂れなくなる。そうなる前に、何かしらでさびしさを慰めるしかなく、しかもその慰めるというのも次第に「飽きて」くるから、そのたびに悪趣味の度合いや、どぎつさの程度を増していかざるをえない。
本来はそこまで描写していよいよ「アイドルの裏側」という表現の意図が達成されるものと思う。もちろん当作のファンの人から見れば、そのようなことが描写されたらそれはもう別の作品であって、そんなものは現在のような人気作にはならなかっただろうけれども。
舞台上のアイドル、あるいは映像の中のアイドルを見て、その溌剌とした印象を知る人は多い一方、じっさいには衣装を脱いだ彼女らの身体と肌が、おそろしく疲れており、異様に重々しく、その肌質や目の色もどこか蝋人形のようだということを、直接知る人はあまり多くないように思う。「推しの子」も単純には、そこまで生々しい彼女らの具体の実情を知った上でアイドルを裏面ごと描写しているというものではないように思う。アイドルのような稼業をする以上は、スポンサーや、極端な太客というべきファンや、テレビに出演するならそのプロデューサー等、あるいは自分の事務所のプロデューサー等に向けてもそうだが、性接待とまでは言わなくても、酒の席に呼ばれてのセクハラを含んだ接待というものはありがちだろうし、その中でやはり強烈な、極点を超えた「我慢」をして、彼女らは素人のそれとは異なる「かわいい」を発現させていくのでもあろうが、我慢によって「必ずそのぶんの報酬はいただきます」という憤怒の業火は燃えさかっているのだから、それが平たくいって彼女らの心身を内部からボロボロにしているものだ。わたしが見てきた限りでは、そうした職業の女性たちは、実物としては「艶やか」ではないことがどうしても多い。胴体も四肢も、触れたときの感触が石のように重く冷たく、その表面がまるで薬物中毒者のようにゴムめいた質感になることもある。平たくいって実物の彼女らは、一般の目の前に置くとその質感が「不気味」なものでさえあるのだが、それに衣装を着せて照明を当て、カメラを回して音楽をかけると、彼女らはプロとしてそこで「化ける」ということをするのだ。しばしば、いかにも「無理やり」であっても。
「推しの子」ではその肌質・体質に及ぶような不気味さの描写の一切を、典型的な現代アニメの「キャラ」「ネタ」でごまかすことで潜り抜けている。潜り抜けてしまっている。このことが、アイドル文化の裏側を描写するふうの創作物として自己矛盾しているように思う。アイドル文化の裏側を描くなら、本当に描いてしまえばいいのにと、門外漢であるわたしなどは思った。言わずもがな、じっさいの業界人は作中のような「ネタ」の軽快さでは存在していない。もし業界が作中で描写されるような「ネタっぽい」ものなら、アイドル業界は裏表とも平和なものでありえように。
もし、内心にこっそりアイドル志望を抱えている女性が「推しの子」を観たとしたら、その志望がしぼむというよりは、むしろ膨らむということのほうが多いのではなかろうかと思う。それだと当作は結果的に、アイドル文化の裏側を暴いたふりをしながら、じっさいにはより業界のファンタジーを後押ししたとみなすべきだろう。
わたしは「推しの子」の第一話を見てそのような感想を持ったが、それで、ひとりの視聴者として何か不快に思うところがあったかと問われたら、それは不思議に「まったくなかった」と言いたい。話の組み立てが、いわゆるネタバレになるからおおむねは伏せるとして、観た人は知っているとおり、斬新というよりは荒唐無稽の、そもそもが「ネタ」の言いようをストーリー構造の根幹に据えたものだ。一種のバカ話のような構造で、そこにシリアスな風味を強引に持ち込んでいるので、全体の描写は当然ちぐはぐになっている。そしてそのちぐはぐ具合が、失敗というのではなくもとよりそのつもりなのだろうと受け取られるので、観ている側としては不快さはなかった。シリアスに描写したら都合が悪いところがありすぎるし、かといってコメディにしてしまっても話は進まないのだろう。だから全体がちぐはぐで、画面のすべてから、そのちぐはぐうんぬんなどについては、
「もう正直どうでもいいでしょ? そんなこと」
と言い放っている声が聞こえてくる。わたしはそれにすんなり賛同させられたここちがして、わりと従順にその――前もってちぐはぐな――ストーリーテリングについていくことができた。これがもし、かつての「新世紀エヴァンゲリオン」のようなものなら、いまさらコメディにするわけにはいかないので、ストーリー構造のちぐはぐさには「おいおい」とつっこみどころが出てきてしまうが、「推しの子」は初めからそのつっこみどころを放置したまま、勢いだけでストーリーテリングのリードをしている。「そんなわけないだろ!」というつっこみように対して前もって「そうですよ!」と言い放って話を進めているのだ。<<「そんなことより、かわいい女の子と、おいしい男キャラ、この組み合わせに敵はないでしょ? そしてそれ以外に何も要らないでしょ?」>>と遠くを見遣りながら。その点は、時代として新しい段階に至ったと思わされる作品で、わたしは素直にそのことを「ついに向こう側にまで至ったらしい」と友人に報告した。
もう一度たしかめておきたい。ついに完成したらしい「向こう側」の新しいストーリーテリングのモットーは、いまこのときに強力な説得力を持っている。
「そんなことより、かわいい女の子と、おいしい男キャラ、この組み合わせに敵はないでしょ? そしてそれ以外に何も要らないでしょ?」
冒頭に説明したとおり、わたしは十年前に「メンヘラ文化」の台頭が危惧されるという話を書いた。それでけっきょく、「推しの子」もモチーフとしてはその「メンヘラまがい」を動力にしないとストーリーの構築ができなかったわけだが、そのストーリー構築とまったく無関係あるいはストーリー構築を損傷までする具合で、「かわいい」の大暴れが描かれており、それについての素直な痴愚と恐怖が当作からは悲鳴のように響きわたっているとわたしには思える。ひいてはここに余談として、「推しの子」が流行する現代を背景にして、じっさいにどのように恐怖すべき「かわいい」が成り立ってゆき、それに対する悲鳴が上がるようになるのかを、わたしとしても描写していきたいと思った。その描写がきっと直接的に、「いま何がどうなっているのか」ということの理解を助けるだろう。
「推しの子」で、アイドルの「かわいい」なんてニセモノだと語られているのに、なぜ当人も周辺も、そのニセモノ・作り物の「かわいい」の周囲で浮かれて踊り狂っているのだろう? そこから悲鳴は聞こえてくるが、彼らが「助けてくれ」と悲鳴をあげているのか、それともすでにそうではない悲鳴をあげているのか、その悲鳴の内容まではわれわれにはわからない。
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