ムン
余談2 じつは何もかも「わからない」と感じている人がいる
仮にあなたが、何もかもについて「よくわからない」と感じていたとする。あなたはまだ若く、幼さもある、思春期というような年齢だとしよう。あなたは学校で読書感想文を書かされ、歴史の問題で「大化の改新」という穴埋め問題を解答させられる。それが正解だというのはわかる、わかるというよりは覚えているだけだが、その覚えている正解が何のことなのかよくわからないと感じている。数学でXとYの一次方程式を出されたら、とにかく足すか引くかして変数のひとつを消し、出てきた数字を「代入」すればいいのだとして、ふたつの直線の交点を求める。交点の座標がそれで正解だというのはわかるが、なぜ交点の座標なのか、なぜそれを解答するのかということじたいがよくわからない。ホームルームの道徳じみた授業の中で、どのようなことを発言すればいいのかはだいたいわかるが、なぜそれを言えば良しと評価されるのかはよくわからないし、評価されたところでどうなるのかよくわからない。あなたは読書感想文を「めんどくさ」と思いながら書くが、そのことに別種の不快とストレスを覚えている。率直に言って、古臭い小説じみて書かれている文章に「感想」というのは特になかった。感想といえば「はあ、そうですか」としか思わなかった。テレビで見るかっこいい◯◯くんのことについてなら感想は山ほどあるのだが、中野重治とかいう知らない人が文章でぶつくさ言っていたとして、「話はなんとなくわかるけど、感想なんか特にないよ」というのが正直なところ。それでもとりあえずそれっぽいものは書く。そのことにあなたは不快とストレスを覚えていて、苦しんでいるのだが、そのことにも慣れ切ってしまい、その苦しみをいつも我慢しているということをあなた自身で忘れてしまった。
あなたは将来のことについて考えるように言われて、考えたけれども「よくわからない」というのが正直なところだった。将来、なりたいものはないかと言われると、「なれるものならセレブみたいなものになりたい」と思ったが、そうはいってもそんなものになれるとは思わないし、なり方がわからない。そして本当にセレブになりたいのかと "マジ" で訊かれても、そこまで言われると「よくわからない」としか答えられない。花屋になるのとパン屋さんになるのと、どちらがいいかと限定的に訊かれたなら、「パン屋さんのほうになりたい」とは答えうるのだが、「本当に?」と訊かれると「うーん、たぶん」というぐらいで、それ以上訊かれると本当のところは「よくわからない」。恋愛については、それなりに願望があって、恋愛は「したい、です」と思っている。けれども、誰とどういうことがしたいかと訊かれると、「ディズニーランドとかに行って、その後、おしゃれなホテルのレストランで食事して」と、どこかで刷り込まれたらしいイメージしか出てこない。それについても「本当にそうしたいの?」とわざわざ訊かれると、やはり「うーん、いや、どうだろ、よくわからない」とあなたは言う。バリバリにキャリアを積んだ丸の内OLにあこがれがあるが、そうなりたいのかと訊かれると「うーん? どうなんだろ、よくわかりません」となる。学者になるのはどうだろうか、あるいはミュージシャンやアーティストはどうか。スイスの山奥のようなところで暮らすとか、フィジーのような透明な海のそばで暮らすとか。パイロットになるとか医者になるとか、職人になるとか美容師になるとか、学校の先生になるとか警察官になるとか。すべてのことについて、「どうだろう、よくわからないです」となる。
そこから苦し紛れにあなたの本心を言おうとすると、
「なんというか、ずっと部屋で寝ていたいです。たまに友達と遊んで。ゲームしたり、映画を観たり、好きなアニメとかずっと見ていたいです。あと、ケーキをずっと食べていたい。それでも太らないというのがいいです。季節はずっと五月ぐらいの気温がいいです」
というのが本心だとして出てくる。
先日、社会科より理科のほうがどちらかというと好きだと言いはしたが、やれイオンだの運動方程式だの言われると、急に気が変わって、「先日は理科のほうが好きだと言いましたけど、ちょっとよくわからないです」と言い出す。これはあなたがふざけてそう言っているのではなく、真剣に、本気の本心でまったくこのとおりなのだ。
「よくわかりません」
活躍しているスポーツ選手がすごいというのはわかります。わかる? いや、うーん。本当はよくわかっていないかもです。戦争はいけない、というのはわかります。わかる? いや、うーん、とにかく自分が巻き込まれるのはいやです。それでも戦争になったらどうするかといって、それはよくわからないです。人を思いやる気持ちが大事というのはわかります。わかる? いや、うーん、それが大事というのはわかりますが、何をどうしたら人を思いやっていることになるのかがよくわかっていないです。◯◯くんがかっこいいのはわかります! あ、でもどうだろ、先日◯◯くんがドラマに出ていて、がんばっていたんですが、なーんかイメージと違うなっていうのがあって、ちょっとよくわからなくなっています。△△くんのほうがかっこいいと言われたら、あっそうかもって思うところがあります。よくわかりません。
よくわかりませんが、前向きに頑張っていこうと思います。前向きに? 前向きってどういうのが前向きかよくわかりませんが、前向きにいこうと思います。前向き……?
あなたはそうして、何もかも「よくわからない」中を生きていたとする。たまに何かに強めに「その気」になって、「ガンガンやっていこうよ!」と思えるときもあれば、「なんかいろいろ無理。あはは」とダルいのが当たり前と思えるときもある。こんなに何もかもやる気になれないのはおかしい! と泣きそうに思える日もあれば、その翌日には「いや、そうでもないのかな。別にフツーじゃん」と笑いながらお菓子をつまんでいる日もある。
あなたはなんとなく、ショート動画で流行っているダンスの動きを真似してみた。鏡の前で、「どんなのになるかな?」とやってみた。すると案の定、そこには不明の動きをする、奇怪な、よくわからないものが立っていた。立って動いていた。指でピースサインなどを作ってみると、別に悪くはないけれど、特に何の意味もない、「何これ」というようなものがそこには立っていた。あなたは自分の存在そのものに首をかしげている。
何なのかな、こいつ。
別に自分のことがきらいではないし、自己嫌悪も卑下もするつもりもないけれど、とにかく何もかもについて「よくわからない」。自分自身がそこに立っているということじたいが一番「よくわからない」ものだった。そのよくわからないものが、指先でピースサインを作ってみるのは、あなた自身にとって最も首をかしげたくなる姿のものだった。
あなたはこのようなとき、自分自身に対して「意味がない」ということばしか持っていないが、正しくことばを当てはめるならこのときあなたには「祝福がない」ということになる。祝福を受けているピースサインは意味があるが、祝福を受けていないピースサインは意味がない。
女性誌に載っている女性のそれっぽい表情を真似してみるが、それだって祝福がないので「意味ねー」と無様なものになる。美少女アイドルの真似をしてにっこりやわらかい笑顔みたいなものをやってみるが、それもやはり祝福がなくて「意味ねー」と無様なものだ。
季節がやや過ぎて、あなたは学校の制服を夏服に変えた。鏡の前で夏服姿の自分を見てあなたは、
「あ、やっぱりけっこう、胸が大きくなった」
というのを発見した。
そしてふと、ふたたびピースサインをしてみた。
あ、これはけっこういけるかもしれない、とあなたは思った。
「これは、制服の力だな、制服の力ってすげえな」
とあなたは思った。
あなたは制服のスカートを、腹の側へ折り込んでいって、ややためらわれるほど、性的な露出があるだろうと思えるところまでスカートを短くした。
そして同じようにピースサインをしてみた。
「うん、やっぱりいける。うちの制服、かわいいのでよかった」
あなたは文化祭に関わって、友人から誘いを受けた。文化祭の演し物として仮装のたぐいをやるらしい。
友人が、
「あたし、このキャラやりたいから、あなたその相方の、こっちのやつやってよ」
と、友人は雑誌のキャラクターを指差した。あなたは三角帽子をかぶった若い魔女のような役で、友人はタキシードを着た殺し屋のような役らしい。
あなたはラメ入りの紫色の三角帽子をかぶり、頬に赤いタトゥーのようなラインを入れる。カラーコンタクトまでするのは抵抗があったので拒絶したけれど。
ぎざぎざに切り込みの入った衣装は、一部の肌をきわどく露出して、クラスメートたちを照れくさそうに「おお」と言わせた。
「先生は、中に襦袢(じゅばん)着なさいって言っていたけど、本番はぶっちゃけ無しでいいよね。襦袢とか、言い方が笑える」
と友人はあなたをけしかける。
文化祭の本番では、文化祭全体のムードもあり、演し物の仮装でするパレードは来客によく注目され、あなたは写真撮影の的になった。いちおう鏡の前で練習してきた、ステッキの構え方などを披露すると、そうしたものを撮影しなれているらしい、ずんぐりした風貌の男が高価そうな一眼レフを構えてあなたを撮影した。ちょっとその男の気配は気色悪くも感じたけれど、その男に釣られて周囲の人たちも遠慮なくあなたを撮影する向きになっている。だからあなたは、
「まあいいか」
と思って、思いがけず調子が乗ってきたポージングのいくつかを続けた。
家族に連れられた小さな男の子が、あなたとあなたの衣装を見上げてポカーンとしている、あなたが手を振ると、少年はますますポカーンとするようだった。
あなたがキャラクターの装いに合わせてにっこりほほえみ、ピースサインをして見せると、少年はドキッとしたらしく、母親の陰にパッと隠れて、その向こうから恥ずかしそうにあなたを見ていた。
あなたは愉快になり、
「いいなあ、少年は純真だな」
と、なんとなくのけぞった。
文化祭の日は音楽室も開放されていた。あなたは仮装の姿のまま、一緒にいた級友たちに、
「そういえばいちおう、わたしピアノ弾けるんだよ。バイエル修了ぐらいまでだけど」
そうしてひさしぶりに、たどたどしくではあるがピアノを弾いてみた。すると周囲は、
「うわ、なんかその恰好でピアノ弾かれると、すごい萌えるな」
「正直、その足もとエロくね?」
「◯◯ちゃんさ、そうしてメイクしたらすごい映(ば)えるんだから、ふだんから自分磨きしないとぜったい損だよ。努力したらたぶんめっちゃかわいくなるって」
あなたに前向きなアドバイスをしてくる同級生の男は、その視線がこちらのざっくりした衣装の胸元をちらちら覗き込んでしまっており、あなたはそのことに苦笑した。
あなたは、
(こういうのは、わたしイケるのか)
としみじみ学習して知ったという気がした。
(なんでもやってみるもんだな笑)
あなたはそれから以降、私服もこだわるようになっていった。高いものは買えないけれど、試着をとっかえひっかえしていくうち、
「あ」
あなたは服のラインが自分の脚を長く細く見せ、バランスによってさらにバストが恰好よく見えるということを発見した。
「そっか、わたしはここがダボついている服着たらだめなんだ、ここはこのへんからタイトになっていないとだめなんだな」
「あと、青系のパステルカラーは思ったよりだめだ、わたしの顔色がなんか暗く見える」
「このスカート、生足でここまでやると、ちょっとエロすぎるか。でもなあ、エロくしておくと、バイト先で楽できるしなあ、思い切ってこれで行っちゃうか。別に襲われるわけでもなし」
あなたは同級生の男からお出かけに誘われた。デートのつもりなのかどうか、向こうがはっきり言いださないのがもどかしかったし、あなたにとって好みの男というわけでもなかったけれど、好奇心や楽しみが勝るのであなたは誘いを受けることにした。
誘ってきた男と街中を歩いているとき、交差点のLEDヴィジョンにスポーツ選手の号外が出て、あなたはそれを見上げ、
「この◯◯って人すごいよね。こうやって、海外に出て活躍できる人とかめっちゃ尊敬する」
と言った。
「そうなんだ」
「うん。なんていうか、やっぱり人を元気にしてくれるよね。活躍とかしてくれると。なんかさ、戦争のニュースとかばっかり流れていると、やっぱ戦争とかはだめだなって思うじゃん。聞いてて元気なくなるし」
「そうだね」
「人がお互いに思いやりを持てたら、戦争とかなくなるのにね。そう思わない?」
「その通りだね」
「あ、見て。△△くん映った! 彼、新曲でセンターやっているんだけど、途中のフリがめっちゃカッコいいんだよね。見たことある?」
「いや、ないな」
「ぜひ見てよ、すっごいカッコいいから。△△くん、輝いていて、チョー元気もらえるから。それでいて△△くん、バラエティとかに出ると、トークもできるし、カッコいいくせにおいしいキャラしててさ。それ見ていると、なんかね、もう、わたしもガンガンやっていこう! って気にさせられるの」
「へえ、そうなんだ」
「わたしやっぱり、そうやって、人に元気あげられるような人になりたいな。そのために、もっと自分磨きとか、努力しようと思ってんの。最近いちおう、筋トレとかも初めていたり。お金ないからジム通いまではできないけど」
「アイドルとかなれんじゃない?」
「アイドル? いやあ、それはさすがに無理っしょ。プロの人たちはもっとはるか上の存在で、わたしなんかがやっても、きっともっとしょうもないものになっちゃうよ。いいとこ、ちょっとだけ人気のあるインフルエンサーどまりじゃない。いやそれもじっさいには難しいか」
「そうかなあ、けっこういい線いけるかもとかって思うけどな。おれじっさい◯◯ちゃんから元気もらってるし」
「またまた、おだてるの上手だねえ。でもやっぱり、ワンチャンそういう舞台に立って、一時期だけでもいいから、有名人とかセレブみたいな暮らしをしてみたいって、あこがれはあるよね。妄想だけど」
あなたはそのまま、その男といい仲にはならなかったけれど、向こうはあなたのことを好いているようで、あなたとしては気分は悪くなかった。わたしなんかにありがたいことだと思う一方、内心ですでに「ごめんなさい」という言いようも準備している。
(お付き合いとかはさすがに無理だけど、とりあえず、わたしはこういうのはイケるらしい。それなりにというかふつうにドキドキはしたわ)
あなたはそう学習してこころよく思った。
(彼がもうちょっとおいしいキャラしていたらまだよかったんだけどなあ……彼、ヘンなところで真面目なんだよな。それにしても、なんだろうこの感じ。足許ふわっふわする)
(そっか、わたしわかった。恋愛とはまた別だけど、こうして誰かに「推し」にしてもらえるって、すごく満たされることなんだ。すごい自信になる)
(わたしけっこう肉食なんだな、意外)
帰り道、あなたは複数の男に声をかけられた。うさんくさい男が一名、まともそうな男が二名だった。まともそうなうちのひとりは背の高い外国の男だったので、会釈だけで通り過ぎたけれど、内心では「おっ」と思った。
あなたは自分のことを、なんだかんだイケているらしいと思い、
「いっぺん、もっと都心のほうまで出るか。そんで、有名なところで髪切ってもらおう」
と思った。
「髪の色どうしようかな……あとやっぱわたし、こっちの角度からのほうがかわいく見えるんだよな」
あなたはこうして「自信」を得たのだが、かつてのあなたはいったいどこへ消え去ったのだろう。何もかもについて「よくわからない」と言っていたあなたは。
あなたは「かわいい」を得て、周囲から認められるようになった、あるいは単純にはちやほやされるようになった。
個人的な「推し」になれるまでになった。
あなたは「祝福」を得たのだろうか?
それはわからないし、誰にもわかりようのないことだけれど、少なくともあなたの体感としては、自分のするピースサインが「意味ない」無様なものとは感じられていない。
現実問題、二〇二三年の七月現在、「かわいい女の子とおいしいキャラの男」の組み合わせが "最強" になっている。先の段に紹介したアニメ「推しの子」でもまさにそのようになっており、その組み合わせが最強ということだけで、どのようなちぐはぐなストーリーテリングも力ずくで押し通れるということが事実になっている。
あなたもその "最強" の組み合わせの一角に入るなら、あなたのすべての言いようは、どれだけちぐはぐでも力ずくで押し通るだろう。
ここであなたにもう一度、読書感想文が課されるとしたら。読書感想文なんて課題はそもそもが悪しき習慣のように思うので、単にその読書からの話でも聞かせてもらうことにしよう。かつてあなたは「感想なんか特にないよ」と弱々しく言っていたけれど、いまはどうだろう。「かわいい」を手に入れたあとのあなたは、「感想なんか特にない」と、まったく同じことを言うだろう。ただし精悍に言うのであって、弱々しく迷うようには言わないだろう。
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