運気を上げる方法
経験上、「自分から」、何かをしようとしない人間は、猛烈に運気を下げていくのだとわかる。
どんな馬鹿げたことでも、「自分から」、何かをしようとする人間は、不思議に、運気を掴んでいくものだ。
最もわかりやすいものには、たとえば年賀状などがある。
年賀状という、しきたりのことはどうでもいいが、多くの人は、「もし送られてきたら、ちゃんと返信はします」と思っている。
それで、社交上は、問題ないのかもしれないが、このやり方は、どうやら運気を猛烈に下げる。
運気を、猛烈に下げることが、別に悪いわけではないが、本当は、そうと知っていたら、そんな運気を下げることは、別にやりたくはないのだろう。
一番いいのは、自分から何かをして、相手から見返りを求めない、相手のことは放っておく、というやり方だ。
それが一番、運気を上昇させる。
相手からの、反応や、見返りを求めると、運気上昇の作用はグッと下がってしまうので、とにかく自分から何かをして、見返りを求めないというのが、どうやら一番いいようだ。
そのことが、なんとなくわかるから、僕は今もこうして、一方的に、自分から誰かに向けて、書き話すようなことをしている。
こんなこと、何の見返りもないし、見返りがないからこそ、安心というか、一番おいしいのだと知ってやっている。
自分からそうして、見返りなしに、人に向けて何かをする女は、そういうことをしない女より、何十倍も運気がよくなる。
実際、知り合った人には心を込めた手書きの年賀状を送り、返信なんかまるで期待していないという明るい女がいたら、そういう女は運気を非常によくしているだろう。
同じ、彼氏がいるのでも、自分から彼に手書きのラブレターを送ったりとか、自分から手をつないだり、自分からキスをしたり、自分から彼のことをちゃんとイカせてあげたりして、別にそのことに見返りも求めないという女だったら、その女の運気はとてもいいはずだ。
それが、「尽くす」というようなことだと、陰気で、それはまたちょっと違う。
見返りとは何の関係もない、ただ自発的な、自分からの、「こうしてやった」ということなのだ。そのことによって運気が上昇する。
そのほかにも、運気を上昇させるためのコツは、いくつかあって……
たとえば、「戸締りをきちんとする」ということは、運気の上昇にとてもいいし、「時間を守る」ということも、運気の上昇にとてもいい。
戸締りをだらしなくすると、防犯上も危険だし、運気の上でのマイナスもひどいものだ。
時間を守るというのは、守らなくていいような時間を守る、というのがコツだ。
試しに、もし、「この人は運気が落ちているな」と感じられる人がいたら、その人をどこかの待ち合わせに呼び出してみたらいい。
必ずその人は、時間どおりには来ない。
必ず、二、三分でも、遅刻してくるはずだ。
個人的な待ち合わせに、そんな程度の遅刻は、マナーとしては何の問題でもないが、問題はただ、そうすることが運気をひどく下げてしまうというところにある。
このことは、自分ひとりについてでも起こる。
朝八時に出よう、と思ったら、なんとかして、八時ちょうどに出ないと、運気が下がってしまう。
すでに運気が下がり切った人は、ありとあらゆる行動について、予定時刻から数分遅れたタイミングで行動しているはずだ。
運気が下がっている人は、だいたいそうして、運気を低めるほうへ、身体が馴染んでしまう。
僕だって、時間をキチキチ守るような、極端にパンクチュアルなのは苦手だが、それでもどこかで「これはまずい」と感じたときは、とにかく自分で決めた時間どおりに、必ず動くようにしている。
どこかで切り替えないと、運気がひたすら下がっていくからだ。
ここで話している、運気というようなものは、オカルトの世迷言なので、まったくアテにしなくていい。
ただどうやら、ここで僕が運気と呼んで話していることは、あるていど科学的な説明も可能なようだ。
それはつまり、運気が下がるというのは、「自分の行動をコントロールできていない」ということを、どうやら指すみたいだからだ。
人間の身体には、どうやらある程度、良いものに自然に気づき、探し当てる、という能力があり、同時に、悪いものに自然に気づき、避ける、という能力があるように思える。
それぐらいの能力は、動物なのだから、あって不思議ではない。
だが、この能力は、自分が自分によってコントロールされていないときは、発揮されないのだ。
それで、コントロールされていないときは、自然に、自分が物事の良いほうへ寄らず、気づけば悪いことのほうへばかり寄っている、という結果が積み重なってくる。
そのことを、おおざっぱに捉えるのに、運気が悪い、と呼んでいるに過ぎない。
どういうことかというと、たとえば、「戸締りはちゃんとしなきゃ」と、誰だって思ってはいるのだ。
この、「思っている」ということを、自分で裏切る形で、戸締りのだらしなさは発生する。
このとき、脳みそのレベルでは、ある種の学習が起こっている。
それは、「自分の行動は、自分の思ったように行われないのだ」ということの学習だ。
時間を守らない、ということも同じだ。朝八時に出発し、朝九時に待ち合わせ、という、時間を決めてあるのに、それを守らないとなると、やはり、
「自分の行動は、自分の思ったように行われない」
ということが脳みそに学習される。
これによって、認知と行動という、人間の脳のメカニズムが、甘くふやけてしまい、人格の構造が、ガタガタになってしまう。
たとえば、
「よーし、がんばるぞ」
と思ったとき、その裏側で、自動的に、
(いいえ、わたしはそう思ったけれど、思ったようには、がんばりません)
という発想が起こるように、学習されてしまっている。
これは考えてみると、怖いことであり、つまり、
・思っていることを、やらないし、
・思っていないことを、やる、
という仕組みに、人格が変形していっているのだ。
こうなると、ふとしたときに、意識にまで上がってこない、脳のシグナルが、
「これはいいぞ」
と言っているときに、それを取りにいかないということが起こる。
同じく、脳のシグナルが、
「これはまずいぞ」
と言っているときに、そこから逃げない、ということが起こってしまう。
それで、結果的に、「運気が悪い」というような状態になってしまうのだった。
別に、それでかまわないという人は、かまわないが、僕などは利己主義者なので、自分が損をすることはたいへんイヤだなあと思う。
そして、運気を下げる最大のパターンは、「自分から」は何もしない、というタイプだ。
このタイプは、時代的に、とても流行っているように思える。
なぜこのタイプが、最大に運気を下げるかというと、それこそだ。
それこそ、その「思っていることを、やらない」「思っていないことを、やる」ということの、代表例みたいなものだからだ。
人間、当たり前だが、日々暮らしているうちに、色んなことを思っているものだ。
たとえば、おばあさんが、手荷物を地面にぶちまけてしまったら、
「あ、いけない、拾うのを手伝おうかな」
と思ったりする。
あるいは、駅前でやっている募金活動なんかにも、
「たまには、寄付ぐらいしようかな」
と思ったりもする。
「最近、あの人どうしているかな、メールしてみようかな」と思ったりもするし、路上で誰かが歌っているのを聴けば、「いい歌だったな、拍手しようかな」と思ったりすることもある。
しかし、多くの人は、周りが拍手をすれば拍手をするが、自分からは、拍手をしようとしない。
自分から、「拍手したいと思ったので」という動機で、拍手をすることがない。
そうすると、脳みそは、
「ははーん、こいつは、自分で思ったことで行動するのではなく、ひたすら、周囲のムードに合わせて行動するだけなんだな」
ということを学習してしまう。
そうなると、もう、「自分から」というメカニズムが人格上で失われていって、「自分から」は何もできない人間になってしまう。
別にそれでもかまわないのだが、そうして人格から自発性を除去されてしまうと、よいものを見つけてもそちらに寄っていくことができないし、悪いものが寄ってきてもそこから逃げることができなくなる。
そして、よいものが向こうからわざわざ寄ってきてくれるということは少なく、だいたい、向こうから寄ってくるものは何かしら悪い意図をもって寄ってくるものだ。
そして、なぜかわからないが、中にはそうした運気の悪くなっている人間を見つけて、そこにつけこむのを得意としている人間もいるのであり、つけこまれて、そうこうしているうちに、運気の悪い生き方が出来上がっていってしまう。
今、この時代のムードの中で、「自分から」ということを、明らかにやっている人は、かなり少ないはずだ。
「自分から」、古めかしく手書きの年賀状を送るようにしたとしても、そのことは表面上、何のメリットも与えてくれないが、その代わり、運気をかなり底上げしてくれている。
「自分から、やろうと思ったから、そうしたの。おかしい?」ということ、それ自体が運気を上げてくれている。
そうして運気を上げていくと、ふとしたとき、ふとしたところに飛び込んで、ふと目の前の誰かの肩を叩きたくなり、「ねえねえ」と肩を叩くと、すごくいい人で、知らぬ間に、すごくいい仲になっちゃった、ということが起こる。
運気が下がっていると、いつまでもどこかポカーンとして、立ち尽くしており、そんなときに後ろから誰かに「ねえねえ」と肩を叩かれて、悪いことになってしまうものだ。
運気を上げたい人は、なるべく見返りのない「自分から」ということを、どんどんやり、戸締りを励行し、時間を守る行動様式に切り替えるのがいい。
だいいち、「自分から」ということができず、「思っていることを、やらない」「思っていないことを、やる」というような人は、もう目つきや顔つきからして違うものだ。人格がゆるんで、不明瞭な、違和感のある顔になっている。
挨拶をするとき、「おはようございます」と、言われたら、「おはようございます」と、挨拶を返すものだが、このとき、運気がよくなっているのは、先に挨拶を仕掛けてきた側だけだ。
もちろん、挨拶といっても、「こういうふうにしなさい」と、決められているものを、そのままやったってだめだ。
それは結局、自分では思っていないことを、慣習的に「やらされている」に過ぎない。
どういうふうに挨拶をするかなんて、人それぞれ、自分が考えて、自分で「こうする」と思って、決めるものだ。
人間なのだから。
この、人間として、「こうする」というのを決めて、そのとおりにするという、当たり前のことをやっていくだけで、人間の人格本来のメカニズムが恢復し、結果、運気がよくなってくる。
男が女を口説くときでもそうだ。
「あまり、好き勝手に口説いたら、相手に迷惑になることもあるだろうし、やめておこう」
というふうに考え、結果的に、「自分から」は動こうとしない人は、良識的で「いい人」と思われるようにはなるが、実際には、運気をどんどん下げていってしまっている。
それよりは、
「いや、ただ、目の前にいたし、綺麗だから、つい口説こうかなと……キャラメル食べる?」
というような、アホみたいなやつの方が、「自分から」動いているし、「思ったことを、やる」ということに殉じているので、運気がよくなる。
運気の悪い人は、物事を、人から習うのが好きだ。
どうしたらいいか、どうするのか、その方法やマナーといったものを、習って、そのとおりにしようとする。
つまり、「自分から」、何かをするということを避けたがる。
そうすることによって、やはりますます運気を悪くしていく。
運気を悪くする人は、決まって、「思っていることを、やらないし」「思っていないことを、やる」のだが、これをさらに言うと、たとえば作り笑顔をしている人なんかも、そのたびに運気を悪くしている。
作り笑顔というのは、笑いたくもないのに、笑い顔をするということだからだ。
まさしく、「思っていないこと」をやっている。
作り笑顔も、クセになると、自動的にやるようになるし、そうしてクセになると人当たりがよくなって、生きていく上では便利に見えるのだが、実際にはその代償に、運気を下げていってしまっている。
逆に、ぶっきらぼうでも、たとえば「あの鳥は何だ?」と思い、立ち止まったり、踏み込んだりする人は運気がよくなる。さらにはそのとき、同じ鳥を見上げているおじさんを見つけて、「あの鳥は、何です? なんていう鳥?」と厚かましく訊くようなやつだと、そういうやつはとても運気をよくしている。
そんなわけなので、運気を上げる方法というのは、実にシンプルに、次のようにまとめられる。
・戸締りをきちんとする
・時間を守るようにする
・「自分から」ということを途切れさせない
これだけで運気がよい生き方ができるようになるし、また、運気がよくなってくると、人の生き方や考え方なんていくらでも変わってしまうものだ。
運気がよくて、幸運が舞い込んでくるばっかりの中、どうやったって人は暗くならないし、陰気にもならない。
運気というのも、その字のとおり「気」の一つだから、性格的に、それを「気難しく」してしまってはいけない。
気難しくすると、当然、運気のほうもこじれる。
ふつう、運気の悪い人で、すっきりして素直な人だ、という例はまずないものだ。
ごくまれに、運気がひどく悪い人で、すっきりして素直なのに……という人も、ないではないが、そういう人は、戸締りとか時間を守ることとかに、ひどい穴が開いているような暮らし方をしているものだ。
そういう人は、本当に運気を悪くしているので、近づかないように。
中には、驚くべきハイペースで、災難を引き込んでしまう人もいるのだ。
あ、あともう一つ、重要なものを足し忘れていた。
・連絡をこまめにする
連絡をこまめにする人も、運気を大きく上昇させる。たとえば、
「宅急便、届きました。ありがとう」
というメールをしたり、
「明日、予定どおり、正午に着けると思います」
というメールをしたりだ。
こういう人は運気をよくする。
これは、言い換えてみると、「仕事ができる人」に近似しているところがとてもある。
「仕事のできる彼」の、生活様式は、
・戸締りをきちんとする
・時間をきちんと守る
・「自分から」ということを途切れさせない
・連絡をこまめにする
ということであって、まったくおかしくない。
逆に、運気を悪くする人のことを考えてみる。運気を悪くする人は、ちょうど正反対に存在するわけだから、
「鍵かけてなかったわ。まあでも大丈夫っしょ」
「なんか買い物しすぎた笑、あと二時間したらいくー」
「結局どうしたらいいの? わたしでやれることあったらやりますけど。そんときは指示ください」
「今日って昼からだっけ? とりあえずそっち向かってます」
こういう人は、いかにも運気を悪くしていそうだし、いかにも、まともな仕事なんかできなさそうだ。
そして、いざ恋あいだとか、お付き合いするとか、単純にデートをするだけだって、運気の悪い人とはデートなんかしたくないし、まともな仕事ができなさそうな人とは、デートしたってきっとまともにお話しすることがない。
誰にだって、生活様式というのがあるから、その生活様式を、運気のよくなるほうへシフトすれば、運気はよくなるし、その結果きっと、仕事をする上でも有用な人間になれるのじゃないか。
だから、そうしたらいいよ、とは、僕は言わない。
何をするにしても、「自分から」ということでないと、運気は上がらないからだ。運気を良くする人は、何にだって「自分から」動いている。
[運気を上げる方法/了]
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