自意識過剰など存在しない
自意識過剰、などというものは、この世に存在していない。
仮に、存在していたとしても、あなたはそんな男と付き合わないのだから、注目する理由がないだろう。
哲学的になるのは、苦しんでいる人がそうなればよいのであって、今からすべてを楽しもうとしている僕や、あなたにとっては、そんなことをする理由はない。
自意識過剰って何? と問われることがあったら、
「そんなものは存在していない」
と、あなたは答えればいい。
仮に、もし、あなたが僕の目の前で、自意識過剰だったとしたら、そのときは僕は、あなたのことをまったく見ないので、何の問題もないだろう。
自意識過剰であろうが、なかろうが、注文した上カルビの値段が変わるわけではない。
自意識過剰な人が、もしいたら、自意識過剰なまま、一生を生きればいい。
そんなことを、していても、していなくても、時間はアッという間に過ぎ去っていく。
自意識過剰のどうたらなんて、どうせすぐ忘れるのだから、そうして忘れると決まっているものを、わざわざ考えたり覚えたり努力する必要はない。
自意識過剰に対する唯一の特効薬なんて、拳で本気で脇腹を殴ってやるぐらいだ。
自意識過剰が、あろうが、なかろうが、脇腹は平等に存在しているから。
拳で、本気で、脇腹を殴られる覚悟をするというのは、女にとっては、男に抱かれるということと、まったく同じの覚悟だろうと想像する。
それは、身体に向けて、好き勝手をされるということだから、同じだ。
自意識過剰の行き着くところは、どこかというと、神経が頭で破裂しそうになる、でも破裂しない、たまらなく不快で……そのことを繰り返す、というだけだ。
それはまるで、はるか彼方で起こっているどこか天空の恒星の、フレア爆発みたいなものだから、放っておいてよいし、影響はないし、そもそも口出しも手出しもできない。
手を出せる先は脇腹だけだ。
僕があなたの脇腹をブン殴ろうとするとき、あなたにできることは、あきらめて受け入れるか、逃げるか、そのどちらかだけだ。
逃げられた場合は、僕は追いかけはしない。追いかけられたら恐怖だろう。
こう言うと、常識的には、百パーセントすべての女が、逃げそうなものだが、事実はそうではなかった。
事実は、おそろしいもので、女のほうが震えながらでも「どうぞ」と、か弱い脇腹を、あざを作るために差し出すことのほうが、むしろ多かった。
それぐらい、女にとって、身体は大事だ。
女にとって、身体がちゃんとくねくね動くということは、頭に神経のフレア爆発を起こすような馬鹿げたことより、命がけで大切なの、ということだったのだろう。
あまりの痛みに、カッとなって、あなたが僕の頬を全力で平手打ちするとして、せめて僕は、それから逃げたりすることはないとだけ宣言しておきたい。
確かに、それぐらいはせめて覚悟しないと、身体がくねくね動いてくれたりはしない。
か弱い脇腹に、拳が撃ち込まれて、ウグーと苦しい悲鳴が挙がるとき、胸は痛むが、そうして身体がくねくね動き始めるとき、その悲鳴は汚らしくはない。
あなたは、そんな痛みなんかより、自分が自意識過剰から神経ヒステリの悲鳴を上げたときに、自分の頭蓋骨から汚らしい汁が出るということを、耐えがたく思うのだろう。
そこのところの覚悟が、やはり、女だな、男とは違うな、と感じられて、僕は畏怖する。
僕があなたに向けて何をするか?
僕があなたに向けて何をしているか?
そのことにあなたは心を向けている。
脇腹へ、拳が、あと何発、打ち込まれるのか。それが、必要性におけるものなのか、あるいは、すでに必要分を上回って、歓喜か、官能か、欲情のためにそうするものか、その打ち込まれる具合を、ちゃんと見ようと震えている。
僕だって、そのとき、すでに赤く血を浮かしているあなたの脇腹が、これ以上やると重傷になるかどうか、またあなたの眼差しが、どこまで僕のことを見ているか、あなたが何を感じているか、あなたの汗が官能と恐怖のそれであり、それ以上の苦しさを示すものではないかを、慎重に見ている。
だから、僕はあなたを見ながら、あなたを殴っているし、あなたは僕を見ながら、その脇腹を殴られている。
お互いをちゃんと見ながら、それをしている。
ちゃんと見ながらでないと、危険なことだし、ちゃんと見ながらでないと、傷つけてしまうからだ。
そうして、お互いのことを、本当にちゃんと見ているとき、初めて、人間は自意識過剰とか、自尊心とか、自己中心性とか、自己愛とか、そういったものから離脱できる。
ただそれだけのためにだ。
つまらない人間は、目の前の人をちゃんと見ず、自分のことばかりを見ている。
だから、人を傷つけてしまう。
そういうつまらないことだけは、僕はしたくない。
あなたもしたくないはずだ。
どうして、お互いのことを、ちゃんと見、ちゃんと感じ取らないのだろう?
すでに痛みから涙を流しているあなたの、赤い脇腹を打つのも、やがて十分に役目をはたして、いつかは終わる。
あなたが、自分のことを見るすべてをやめて、まっすぐに僕のことだけを見るようになったら、その眼差しにおいて、もう脇腹を打つのは終わる。
あなたが、自分のことを見るのをやめて、僕のことをまっすぐ見、ちゃんと僕とあなたの間で、あなたの身体がくねくね動くようになったとき、もうあなたの脇腹を痛めつける必要はなくなる。
そうしたとき、お互いに、「やっと……」という心地で、安息できるだろう。
願わくは、もしできるならば、そうしたことが、脇腹を拳で打ったりする前に、ちゃんと成り立っていてくれたらと思う。
そうしたら、もう、初めから、あなたのか弱い、もともとはちゃんと白くて綺麗な脇腹を、殴って血を浮かせたりしなくて済む。
初めから、あなたが、自分のことを見る一切をやめて、僕のことだけを見てくれたら、僕はもう、拳を用意さえしなくて済む。
まだ、脇腹に、血の味と痛みを残したまま、あなたがまた明日へ向かうとして、明日からのあなたが、なお痛みを残したまま、自分のことなど見るのをやめて、世界のことを、目の前に現れる人たちのことを、まっすぐに見るようになったら、そのときあなたはずっとうつくしいだろう。
そうしたときからが、あなたの生であって、そうしたことのほうが、あなたの利益だ、なんて言い方をするのは、ヘンかな。
いずれ、その先、今度はより洗練されてくねくねと動くようになった身体を、また僕に見せに来てください。
[自意識過剰など存在しない/了]
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