レベルアップの構造と、八つの注意点
まず冒頭に、まったく関係ない話をすると、僕は、何でもない話をしていて、ふと気づくといつの間にか、隣にいた女の子が温まっていて、すっかりその気になってくれていて、「あ、口説く手間が省けた、じゃあ行っちゃおうか」となって、一番手軽に(という言い方はひどいが)ハッピーエンドになるというのが、一番好きだ。
なんというか、ラクなのもあるし、それよりも、それはとてもナチュラルなことに思えて、好きなのだった。
口説くぞ! と思って口説くというやり方は、やるけれど、あまり好きではない。
口説いたら落ちるのは当たり前に決まっている。
というのはもちろんウソだが、女の子も口説かれてばかりでは飽きるだろうから、何かもっと別の話を聞いていて、それでいつの間にか「あれ?」となって、温まってしまっている、どうしましょう、もちろんやってしまいましょう、というのが、女の子にとっても一番ハッピーでいいのではないだろうか。
ある女の子が、「おしゃれになりたい」というので、それについて僕は少し話したが、そのときに話したことが一番わかりやすいと思うので、そのときに話したことを、そのままここにも書き話す。
大事なのは「レベルの差」なんだ、ということを話した。
そのことはもちろん、「ハイレベルのもの、一流のものに、たくさん触れてみようね」ということも含まれている。
が、ハイレベルのものに触れて「ではがんばりましょう」ということで、全てがすんなりいったら、こんなにラクな話もない。
なかなか、そうはいかないから厄介なのだ。
僕がそのとき話したのは、「レベルの差」こそが一番大事だということだった。
「方法」なんか探してもしょうがないし、「経験」ということも、もっともらしく聞こえるだけで、本当は言い訳にならない。
方法なんか誰でも同じで、経験なんてやたらに増やしてもしょうがない。
方法も同じなら経験も似たようなもので、違うのはただ「レベル差」なんだ、と話した。
同じことを同じ方法でやっているのだが、ただレベル差があるから、まったく違うレベルのことが起きる。
ただそれだけなんだ、ということだった。
大事なのは「ハイレベルになること」ではなく、まず「レベル差」なのだと話した。
「レベル差」をはっきり見ることだ。
わかりやすく言うとこうなる。
――あなたは、十人で集合写真を撮ったとき、「このコが明らかに一番オシャレだよね、かわいい」と、はっきり認めさせるという自信があるだろうか?
こう考えると、どんな物事も、実はとても難しいじゃないか、ということが明らかになる。
もう、全てを投げ出して、酒を飲んで寝てしまいたくなるほどだ。
レベルの差というのは、生々しくて、なかなかイヤになるものがある。
たとえば、「中学のときは、なかなか成績がよかったのよ、わたし」という人は、今ここにも少なからずいると思う。
が、「成績はクラスでトップでしたね」という人は、そんなにたくさんいないはずだ。
ここが、レベルの問題、ということになってくる。
これはとってもイヤな話なのだ。
つまり、中学校で期末テストがあったとしてだ。
そのテストで、良い点を獲るとか、良い成績を出すとかいうことは、そんなに難しくないのだ。
ところがそのテストで、クラスで一位になる、というのは、単に良い成績を獲るということの、何倍も難しくなってしまう。
クラスで一位になるということは、単に良い成績を出すということの、五倍難しいと考えていい。
なぜか?
それは簡単に数字で説明がつく。
「良い成績」と言える人は、クラス内にだいたい五人ぐらいはいるからだ。
その五人の中で、トップを獲らなければ、クラスで一位にはなれない。
だから、「クラスで一位になる」ということは、単に「良い成績を獲る」ということの、五倍難しい。
そして、学年で一位になろうとすると、今度はまた、クラスで一位になることの五倍難しい。
これも当たり前だ。
だいたい、クラスは一組から五組ぐらいまであるからだ。
これがレベルの差であって、実は単に「良い成績」というのと、「学年でトップ」というのとでは、計算上、その難しさに二十五倍の格差があるということなのだ。
これはとっても憂鬱な話で、とってもイヤな話なのだが、逃げられるようなことではないので、舌を出しながらでも頑張って受け止めるしかない。
みんな、頑張ろう。
誰だって、同じ生きるなら、何か抜群の男、何か抜群の女として、生きたいと思っているに違いない。
その「抜群」というのは、群を抜いている、という意味だ。
そして、その「群」というやつ。
この「群」というのが、レベル、ということだ。
レベルアップする、ということは、群を抜く、ということだ。
もう一度、十人で集合写真を撮ったとする。
その中で、一人だけ、
「このコ、群を抜いているよね。群を抜いてかわいい」
「周りのコとは、比べ物にならないよ」
というような存在になるということ。
つまり、周囲の群とは、同レベルにない、ということ。
それがレベルの差、ということだ。
なかなかキツイ話なのだが、このことは、ごまかしようがないのでしょうがない。
同レベルでは、群を抜いていないので、「抜群」ではない。
群を抜く、ということの、なんと難しいことだろう?
レベルアップというのはそういうことなのだ。
レベルアップというのは、よく聞くし、「レベルアップしたい」とは誰しも思うのだが、レベルアップというのは、実はひとつひとつ、それぐらいキツくて難しいものなのだった。
なぜ、レベルアップするということ、「群を抜く」ということは、そんなにも難しいのか?
それは、決して忘れてはならないこと、
「周りも努力する」
からだ。
仮に周りの全員が、チンパンジーかゴリラであって、おしゃれは一切しないし、勉強も一切しない、ウホウホ、という状態なら、その中から群を抜くことは難しくない。
ちょこっと努力すれば、すぐに頭角を現し、群を抜くことができるだろう。
が、現実にはそうではなく、周りのみんなだって、少なからず努力をする。
だからこそ、その中で頭角を現し、群を抜くということは難しいのだ。
周りのみんなも努力するということ。
その、周りのみんなが当たり前にする努力のことを、
「並大抵の努力」
という。
並の人が、たいていこれぐらいの努力をします、ということだから、それを「並大抵」というのだ。
この、並大抵の努力をする群の中から、群を抜いて頭角を現そうとすると、それはやはり、「並大抵の努力では足りない」ということになる。
このあたり、日本語はよくできているのだ。
「抜群の女になるには、並大抵の努力では足りないよ」
と言われたら、日本語の中にちゃんとそのことが全部書き込まれている。
仮に、世界中の人口が七十億だったとして、その七十億のうち、70人の、いわゆるスーパー・モデルがいたとする。
すると、このスーパー・モデルというのは、単純な倍率として、一億人に一人の「おしゃれ」ということになる。
それはとても華やかなもので、女の子にとっては憧れの的だ。
が、そのことを見て、気分を高揚させても、それだけでは何にもならない。
なぜなら、自分の方はというと、十人で撮った集合写真の中でも群を抜く自信がない、という状態だからだ。
十人に一人、ということにも、まだまだなれないという状態にある。
こういうことは、考えるのもイヤなものだが、事実なのでどうしようもない。
十人に一人、ということにもなれていない、というのが現在の自分がいる「レベル」だ。
その自分と、スーパー・モデルを見比べたとき。
「やっぱり、プロポーションが違うなあ」とか、「やっぱ違う、自信に満ち溢れているもの」とか、「歩き方が違う」とか、そういうことを見ていっても、実はあまり意味がない。
真っ先に見て、受け止めなくてはならないのは、そのレベル差のことなのだ。
スーパー・モデルのレベルと自分のレベルを、レベル差において比較したとき、計算上、冗談みたいに聞こえるが、そのレベル差は一千万倍以上あるということになってしまう。
だって、相手は、一億人に一人のレベルなのだ。
十人に一人というレベルにさえ到達していない自分と、本来は比べること自体がおかしい。
あるいは、たとえばこう考えてみよう。
ここに、百メートルを16秒で走る少年がいたとする。
その少年と、世界最速の短距離走者とで、どれだけの差があるか?
「えーっと、6.5秒ぐらいかな?」
という、そっちの計算をしていてはいけない。
「仮に、二人に一人は16秒で走れるとしたら、向こうは七十億人に一人のレベルだから、レベル差は三十五億倍だなあ」
と、そっちの計算をしなくてはならない。
百メートル走なんて、典型的にそういうものだ。
言葉どおり、全員でスタートして、「群を抜いて」ゴールする人、それが優秀な短距離走者なのだから。
非常に厳しい、憂鬱なところの話だが、このことは誰だって、ごまかさずに受け止めていかなくてはならない。
なぜ、ごまかさずに受け止めないといけないかというと……
この「レベル差」をごまかしていると、当たり前だが、いつまでたっても「レベルアップ」ができないからだ。
自分のレベルと、目指すべきところのレベルの、レベル差から目を背けていると、レベルそのものから目を背けてしまうので、レベルアップができなくなる。
すると、努力しているつもりで、実はレベルアップする可能性のない、閉じた努力に耽っているという状態に、いつの間にかなってしまう。
それでは努力するだけ損だ。
どれだけ努力してもレベルアップしないなんて、それでは努力の無駄遣いだ。
努力をすると、何かしら向上した感じがするし、あるいは改善した感じがする。
けれども、「改善しました」と言いながら、実は同じレベル内のまま、改善、したのかな?
というような程度の、あいまいな改善ごっこしかしていなかったということは、けっこうよくあることだ。
そんなことに、自分から向かうべきではなくて、自分から何かを努力するなら努力するで、はっきりとレベル差を認識し、「今自分のいる、群を抜くんだ」「レベルアップするんだ」ということへ、堂々と向かわないといけない。
もっとえげつなく言うと、今肩を並べている誰かと、「比べ物にならない」というところに、数年後には到達してみせようということ。
これは、えげつなく聞こえるけれど、堂々とそういうつもりでいていいのだ。
なぜなら、向こうだって堂々と、「群を抜いてみせる」「レベルアップしてみせる」と思って努力をしているはずだから。
そうして友人同士、いつの間にか、揃ってレベルアップしていたら、それが何よりだ。
レベル差ということには、色んな考え方がある。
たとえばあなたが女性だったとして、あなたの目の前に百人の男性がいたとしよう。
あなたはその百人全員に対して、「別に誰とだって恋人になっていい」と思うだろうか。
そんなことはきっとないと思う。
男性が百人いたとしても、自分の恋人ということになると、急に選定が厳しくなって、その中から、候補は五人ぐらい、あるいは二人か三人ぐらいかな、ということにもなるのではないだろうか。
あるいはもっと単純に、百人の男性のうち、恋人にしたいのは一人だけしかいないかもしれない。
ということはだ。
もし僕が、あなたの恋人になりたいと思ったとき、どういうふうに努力すればいいか。
服装を整えたり、髪型を整えたり、あなたに花束を贈ったりとか、そういうことも、もちろん決して悪くない。
でもそうじゃなくて、根本的に必要なことは、僕がその「百人に一人」になることじゃないか。
そうでなければ、あれこれ小手先を工夫したって、あなたは結局僕のことを恋人に選んではくれない。
僕が小手先の小細工ばかりをして、あなたの恋人になりたいと望んだとしたら、あなたはそのとき内心で、
(ごめんなさい、でもあなたはわたしにとって、恋人とか、そういうレベルの人じゃないのよ)
と思っているだろう。
レベル差というのはそういうものだ。
だからこそ、そのレベル差そのものをはっきり見て、その上で努力するなら努力しないといけない。
レベル差ということをはっきり見ず、目を背けていると、レベルアップしないどころか、知らないうちにレベルはどんどん下がっていたということにもなりうる。
レベル差を見ないでいると、レベルが停滞するのではなく、レベルは下がっていくのだ。
なぜか?
それはたとえばこう考えればわかる。
十歳のとき、算数ができなかった。それはまだわかるし、そういう人も少なくない。
二十歳のとき、算数ができなかった。それはちょっとまずいというか、かなりのおバカさんだね、という扱いになる。
三十歳のとき、算数ができなかった。こうなると、これはもう、「この人って今までどうやって生きてきたの?」というレベルになる。
先に言ったように、自分だけでなく、周りのみんなも努力しているのだ。
「並大抵」の努力だが、それだって決して少ない努力量じゃない。
周りのみんなも、少なからず努力しているから、時間の経過と共に、全体の平均レベルは当然に上昇している。
それで、その上昇に取り残されると、相対的に自分はレベルダウンしたことになるのだ。
だからうかうかしていられない。
みんな一日に二十四時間を与えられていて、与えられている時間は平等だ。
取り残されず、レベルダウンせず、ちゃんと努力している人は、この二十四時間をちゃんと目いっぱい努力しながら生きている。
それについていくことだって、決して楽なことじゃない、大変なことだ。
そこからさらに群を抜いて、レベルアップしていくなんて、まさしく並大抵のことじゃない。
一日に二十四時間があったとして、その中でレベルアップしていく人、「群を抜いていく人」というのは、どういうふうにしているのだろう?
一日が二十四時間だというのは、誰にとっても同じだ。この数字は増やしようがない。
けれどもきっと、群を抜いてレベルアップしていく人というのは、この二十四時間の中身を、三倍にも四倍にも濃くして生きている。人の三倍動きまわって、人の三倍耳を澄ませ、人の三倍物事を見て、人の三倍何かを感じ取っている。そうして二十四時間を生きている。
気を抜かず、集中力を切らず、すぐにくたびれたがる自分を甘やかさない。
「レベルアップ」というのはそういうものだ。
だからレベルアップする人は、普段の生活から何か身体に纏っている気配が違う。
***
ここからもうひとつ、さらにイヤな話になるけれど、厳しい話が続いてしまう。
これはしょうがないことなのだ。
レベルアップということは、一般に思われているような簡単なことではなく、それ自体がとてつもなく厳しいものだからだ。
厳しい話だから、このことは、飲みこんで消化するには、しばらく時間が掛かるかもしれない。
けれどちゃんと落ち着いて聞いてもらえれば、これはおかしい話でも何でもない、考えてみれば誰にだって当たり前の話であるはずだ。
まず、
「向上心と、自尊心は、まったく違うものなんだ」
ということを頭に入れておくのがいい。
自尊心はむしろ、向上心に対して逆向きにはたらく、と思っておいてもよいぐらいだ。
「自尊心の高い人」は、自尊心が高ければ高いほど、なぜか自己を向上させられなくなる。
なんとなく、そういう人がいることに、誰だって心当たりがあるはずだ。
「あの人、プライドが高いから、きっとうまくいかないし、成長できないんだろうな」
と、他人事なら、なんとなくそういう気がすると直観で感じることがあるはずだ。
あるいはこう考えてみてもいい。
「向上しない人、向上しようとしない人は、自尊心がないから、プライドを傷つけられて怒ったりとか、そういうことはゼロなのかな」
そう考えたとき、「そんなことはないな」ということがわかるはずだ。
むしろ向上しない人のほうこそ、実は内面でプライドが高く、プライドを傷つけられるとすごく怒る、傷つく、不機嫌になる、ということがあるはずだ。
ではなぜ、自尊心が高いと、自己は向上できなくなるのだろう。
このことの理由が、さっきから話している、レベル差というところにある。
向上心とか、自分を向上させることというのは、言わずもがな「レベルアップする」ということだ。
そして先ほど話したように、自分をレベルアップさせるには、まずレベル差そのものをはっきり見ないといけない、ということだった。
ここでだ。
自尊心の高い人は、そのことがまずできないのだ。
自尊心が高い人は、自分が低いレベルにいるということを、心理的にどうしても受け入れられないという状態にある。
だから、自分の低いレベルを見て、目指すところの高いレベルを見上げ、その差を引き受けるということが心理的にできないのだ。
自尊心の高い人にとっては、自分が「平凡」であるということは、耐えがたい恐怖だし、耐えがたい不服なので、どうしてもそのことに目を背けてしまう。
何の努力するにしても、まず自分の今いるレベルについて、
「十人に一人、というレベルでもない」
「十人並み」
「どこにでもいる、平凡なレベルの人」
ということが、どうしても受け入れられない。
これは自尊心の高くない人にとってはよくわからないことだ。
自尊心の高くない、むしろ自尊心の低い人にとっては、
「? そりゃまあ、自分はフツーの奴だから、フツーのレベルでよかった、よし頑張るぞ、って思うけれど……」
という感じで、「?」としか思えないのだけれど、自尊心の高い人にとってはそうはいかない。
自尊心の高い人は、「自分はまだ平凡なんだ」ということを、何とか苦心して受け入れようとするのだが、どうしてもそれを受け入れ切ることができない。
自分のレベルについて、平凡なんだ、十人に一人というレベルでさえまだないんだということを、「理解」はできても「受け入れる」ということができない。
どれだけ受け入れたつもりでいても、内心にはどうしても「不服」という感触が残っている。
自尊心というのはそういうものだ。
自尊心の高い人は、何であれ、「自分は絶対に、平凡であるはずがない」「平凡だなんて許せない」「自分は絶対に前もって他人より優れているはずだ」と思い込んでいる。
そうして、何であれ自分は「平凡」ではないんだ、優越しているんだ、と思い込むことを、長い間自分のアイデンティティにしているので、その優越感を取り払ってしまっては、もう自分を保てなくなる。
「平凡」というのは本来、何も悪いことではないのだけれど……
そもそも、良くもなければ別に悪くもないということを「平凡」と言うのだった。
けれども、自尊心の高い人にとっては、「平凡」は心理的にほとんど禁句のようになっている。
自尊心の高くない人に、「平凡」と言うと、
「そりゃあ」
と当たり前のように聞こえている。
そして、
「とはいえ、何もかも平凡のままでは、楽しく生きていけないからね。
こんなおれでも何かしてやるよ、まあ見てろよ、楽しみにしてなって」
と、不遜というのも、こういう形でたくましく出てくる。
自尊心の高い人に、「平凡」と言ったら、もうその時点でだめだ。
それをどう受け取るかということの前に、まず真っ先に「傷つく」ということが起こってしまう。
このことによくよく注意して、自尊心が高いと自分で思われる人は、自分のことをよく観察しないといけない。
典型的に、「このことに気をつけて」と、注意しておくべきことがある。
それは、
「努力をするのに、心理的に大げさになる」
ということだ。
このことは、本当にタチが悪いから、気をつけないといけない。
「努力をするのに、心理的に大げさになる」ということ。
なぜそんなことになるかというと、こうだ。
自尊心の低い人にとっては、レベル差に向き合うことは、「当たり前」のことだが、自尊心の高い人にとっては、レベル差に向き合うことは、心理的に脅かされる「大ごと」だからだ。
誰だって、平凡なレベルから始まって、レベルアップを目指すのだけれど、自尊心の高い人にとっては、自分が「平凡なレベル」ということ自体が「大ごと」なのだ。
だから、ただ単にレベルアップへの努力をする、ということが淡々とできず、努力を一つするというだけで、心理的に「大げさ」になってしまう。
たとえばこんなことがあったとしよう。
あなたが、歌を上手になりたいと思い、そういうスクールに通ったとする。
それで、スクールに行ってみたところ、先生に、
「うーん、ずいぶん声が小さいわね」
と言われたとする。
そのとき、自尊心の低い人なら、
「はあ、やっぱりこれは、向いていないですかね。やる気はすごくあるつもりなんですが」
と、きょとんとした感じになる。
ところが自尊心の高い人だと、
「うーん、その、今日は特に調子が悪いのもあって」
「あと、家の教育方針で、大きい声を出すなとか、よく言われて育ったんで」
「その、正しい発声を習う前から、大きい声を出して、変なクセをつけたくないなと思っていて」
と何かと騒がしい感じになる。
自尊心の高い人にとっては、何であれ自分のレベルのことを、平凡あるいはそれ以下と言われることは、心理的に大ピンチで、ひどいストレスになるのだ。
その後、自尊心の高い人は、気持ちの向きようになっては、大きい声を出すように、躍起になって練習をするかもしれない。
そのことはよく「コンプレックスをバネにして」とか、「見返してやろう、という気持ちで」とか言われる。
ところがだ。
この躍起になった努力は、残念ながらまず報われず、実を結ばない。
躍起になって練習すると、何か改善したような感じにはなるのだが、よくよく見ると、なぜかレベルアップはしていない。
なぜレベルアップしないか?
それは先に言ったように、レベルアップというのは、まず「レベル差をはっきり見て」、そのレベル差を引き受けた上にのみ成り立つことだからだ。
自尊心の低い人の場合、「声が小さい」と言われたら、「なるほど、確かに」としか思わない。
そして「いっちょ、やってみますか」ということで、気軽に、習ったとおり大きく声を出す発声方法を練習する。
このとき、「気軽に」というところがポイントだ。
自尊心の低い人にとって、レベル差を引き受けてレベルアップのための努力をするということは、何も心理的に大きなことではないので、大げさにはならない。
これが、自尊心の高い人の場合はそうはいかない。
「ずいぶん声が小さいわね」と、レベルの低さを言われたことによって、心理的に脅かされ慌てて、強引に自分をそのレベルを高いところに持ち込もうとする。
そうして心理的に脅かされ、慌てているから、努力は心理的に大げさになり、それによってすでに身体はガチガチに力が入ってしまっている。
心理的な大ピンチの中、大慌てで駆り立てられてそれをやっているものだから、身体がガチガチになり頭はカッカしてしまうのだ。
そして、頭はカッカしているので、正しい判断や発想は頭に出てこないし、身体はガチガチなので、身につけるべき新しい声の出し方も身についてくれない。
このようにして、正しく向き合っていない努力をすると、この場合、正しく大きな声が出るようにはならず、「やかましい声」が出るようになってしまう。
頭がカッカして、身体がガチガチになって、それでも躍起になって大きな声を出そうとしたら、それは「やかましい声」が出てしまうだろう。
大きく響く声ではなく、ただ「やかましい声」なら、それは誰だってやけくそになれば出るものなので、元々の「大きい声を出す」ということに向けてレベルアップはしていないということになる。
こうして、自尊心の高い人というのは、努力が空回りしレベルアップに向かえないのだ。
誰よりも切実に向上を求めているのに、向上は与えられない。
このことについて注意しておくべきことは、次のように、簡単にまとめられる。
1.努力をするとき、心理的に大げさになっていないか
本来、心理的に大げさな努力をするというのは、もっとハイレベルな人がやることだ。
声が小さいのを大きくする、というような、最も低レベルのことを努力するのに、心理的に大げさになるのはいかにもおかしい。
どうして淡々と、落ち着いて、集中して、やれないのか。
冷静に見てみると、取り組みはまだ低レベルなものであって、大げさになるべきような大層なことは何一つやっていない。
そうして、心の力が、実は努力ではなく自尊心のピンチやその保護に向かっているとき、力が逸れているので、努力は実を結ばない。
だからこそ、心理的な「大げさ」によって、頭がカッカしていないか、身体がガチガチではないか、ということに気を配らなくてはならない。
頭がカッカすること、および身体がガチガチになるということは、自分のレベル、「十人並み」を受け入れるまで除去されない。
覚えておくべきことは、「平凡」は「悪い」ということではないということだ。
多くの人が、ちゃんと「平凡」で生きているのに、自分だけ「平凡はイヤ」と横暴なわがままを言うべきではない。
誰でも「平凡」というスタートラインからスタートする。自分だけスタートラインを格上げしてほしいというのはひどく不正の精神だ。
「心理的なサイズ」が、「努力とレベルのサイズ」に合っていないとき、それは「大げさ」となる。
そのときは、サイズが食い違っている以上、空回りし、努力は実を結ばない。
とても大きな努力をするという思いはあるのだが、むしろその思い入れの「大きな努力」こそ、サイズ違いだから空回りする。
平凡な人間は、大きな努力などまだできないから平凡な人間なのだ。
どうして、自分ごとき凡人が、「大きな努力」などというものを、本当にやれるはずがあるだろうか?
どこでそんなことを勝手に思い込んだのか。
自分ごときのする努力など、小さくてみじめであって当たり前だ。
努力に向かうこと、および、「努力をした」というそのことにも、過大な評価を与えないことだ。
努力はもともとみじめなものだ。
自分の努力について、後にも先にも大げさな評価を与えてはいけない。
2.努力に高揚していないか
「努力」というのは本来つまらないものだ。
つまらないからこそ、努力はおっくうで、そのつまらないことに没頭できる人こそ、根性があって、集中力があると言われる。
努力はあくまでつまらないからこそ努力であり、楽しくなったり、高揚したりすればそれは努力ではない。
もし努力が楽しいものだったらそんなものは誰だって出来てしまう。誰だって出来てしまうことで、どうやって「群を抜く」ことができるだろう?
高揚するというやり方で努力のみじめさや厳しさから逃げてはいけない。
高揚というのも「大げさ」の一つに入る。
「努力する自分」ということへの過大評価がある。
周りのみんなも努力しているのに。
努力するのは人間として当たり前のことであって、自負にして誇るほどのことではないし、たかが「努力」ごときで高揚するのはおかしいことだ。
ただし、「三昧」といって、努力に完全に没頭したとき、自意識の全てを忘れて「一つのことが全てになった」という歓喜はある。
しかしこの歓喜は落ち着いたものだから、高揚したり興奮したりするやり方は歓喜のそれとは別のものだ。
自尊心の高い人はしばしば、「ハイレベル願望」によって高揚し、その高揚をモチベーションにする、というやり方を、習慣化したクセにしている。
ハイレベルなことを思い描いたり、それについて吹聴したりしているとき、自分の現在所属している低いレベルのことを忘れることができ、そこから最も完全に目を背けることができて、自尊心が満悦する。
けれどもこのとき、肝心の「レベル差」の認知からは最も遠ざかっているから、その高揚から得たモチベーションでは努力は実を結ばない。
ハイレベル願望によって気持ちが浮き立つほど、自分の現在いる低レベルからは足が浮いており、足が浮いている以上、その努力は現在のレベル向上に噛み合っていない。
どんな豪邸を建てるつもりでも、その「建設作業」そのものは、見たくもないような汗まみれの苦役に満ちている。
苦役に満ちていない建設ならそれは手抜き工事であり、手抜き工事なら豪邸は後に倒壊するだけだ。
そうして、向き合うほど「高揚」など遠のき、苦役の果てしなさに青ざめてしまうようなもの、それこそが本当の「努力」だ。
ただし努力は決して完全無欠の憂鬱などではなく、「三昧」に到達したときには特別の救済が得られる。
3.他人の努力を忘れていないか
レベルアップしようとするとき、具体的には、自分よりもレベルの高い誰かを目の前にして、学んだり、教わったり、習ったりすることが多い。
そのとき、自尊心の高い人は、心理的に脅かされるのもあり、「努力しよう」と躍起になるばかりで、目の前の人がしてきたであろう努力のことをすっかり忘れる。
レベルアップに必要なことは、自尊心に囚われず、大げさにならず、つまらなくておっくうに思える努力に没頭し、落ち着いて清潔な集中力の状態に、長い間入り込み続けることだ。
そして、目の前の誰かから、何かを教わって習おうとするとき、その目の前の人こそ、「そうした努力を突破してきた実物の人なのだ」ということを忘れてはならない。
自尊心の高い人は、自分が努力をするという高揚感ばかりで一杯になり、目の前にいるせっかくの「努力そのもの」の見本を忘れる。
自尊心の高い人は往々にして、自分のささやかな努力には最重要の尊重を向け、目の前の誰かの努力についてはわずかの尊重の心も向けないから、そのことに気をつけねばならない。
目の前にある「努力そのもの」の実物さえ見落としているような状態では、自分の努力など到底おぼつかない。
他人の努力を忘れたとき、結局は、自分も努力ができなくなる。なぜなら、努力するという思いがいくらあっても、「何を努力すればいいか?」ということが結局わからないからだ。
目の前に、大きくよく響く声を出す人があったとき、その人は、大きくよく響く声と共に、「努力の成果」をそこに出していると言える。
学ぶ者は、その目の前にある、努力を突破してきた身体から、「努力の結果、身体がこう動くようになり」「そしてこういう声が出ているのだ」ということを知る。
この、「努力そのもの」の実物をよくよく感じ取っておかねば、いざ自分が努力しようとするとき、努力しようとする「思い」しか持っておらず、努力すべき「それ」を記憶に残していない。
「思いだけ持って帰る」というのは自尊心の高い人がやりがちな、自分の気持ちが全てだと思っている、具体性のない混乱のやり方だ。
人が誰かから何かを学ぶとき、その「努力そのもの」を受け取った程度以上には、決して努力が進行することはありえない。
それはまるで、厨房を見ずに料理だけ食べて帰ってきて、「料理を習ってきた」と言い張るようなものだからだ。
厨房を見ていない以上、どんなフライパンをどう使って料理を作ったか、その人は見てきていない。
だからいざ自分が台所に立って努力しようとしたとき、「何を努力すればいいか?」がわからない。
より厳しく言えば、自尊心の高い人には、常に「自分のことしか見ていない」という特徴がある。
いわゆる自意識過剰や、自己愛、自己中心性というのも同じようなもので、それらの全ては「自分のことしか見ていない」ということに尽きる。
自分のことしか見ていないので、努力しようという「自分の思い」だけがよく見えており、それだけが全てになってしまう。
「努力そのもの」の見本が何をどのようにしていたのかはまるで見ていないので、具体的に努力といってもその方法がわからなくなる。
レベルアップのためには、「レベル差」がはっきり見えていなくてはならない。
自分のことしか見ていない、という状態では、レベル差を感じ取るべき対象が存在していない。
目の前にある「努力そのもの」をこそよく見て、そこで自分とのレベル差をはっきり見ない限り、レベルアップはできないだろう。
レベル差の対象が、せめて「目に焼き付く」という程度でないと、どうしてそれを模倣することができるだろう?
自分の思いが自分に焼き付くことは心を大げさにするだけでまったく実用的でない。
4.方法に疑問が混入していないか
低いレベルから、レベルアップを果たすために、努力するのだが、その努力はもちろん一朝一夕に実を結ぶものではない。
努力を続けてもしばらくは現在の低いレベルに居続けるしかないのだが、自尊心の高い人は、そもそも自分の現在の低レベルを受け入れられていないので、心のどこかで、「自分のこのようなレベルは不当であり」、「ちょっとした方法を知ればすぐに本来のレベルに到達できるはずだ」と信じているところがある。
しかし実際には、少々の努力をしてもレベルアップは果たされないので、そうなると今度は、「この努力の方法が間違っているのでは?」と疑問を持ち始める。
そして当然、「正しい努力の方法を教えてもらいたい」という発想が起こり、その後は「正しい方法」を探し求める放浪者になってしまう。
「正しい方法」というのは、一番初めのそれが「正しい方法」だったので、そこから逃げ回ってもますます迷子になるだけだ。
自尊心の高い人は、「正しい方法を知りさえすれば、自分はちょっとした努力やコツでサッとレベルアップができる」と信じている。
この誤解が、当人を方法についての放浪者にしてしまう。
「ちょっとした努力で、サッとレベルアップできる、コツや、正しい方法があるはずだ。
自分は今、不当に低いレベルにあるだけで、それを本来のレベルに上昇させるだけなのだから、そんなことはちょっとしたことで済まされるはずだ」。
そう信じている人は、今やっていることの努力にまったく集中できていないので、努力は努力にならず、ごく短時間の「試しに、やってみた」にしかならない。
そのような浮ついた努力はむろん、実を結ぶことがない。
自尊心の高い人は往々にして、そうして気持ちをハイレベルのことへ「浮気」させて努力しているから、努力が現在のレベルに向き合わない。
「他にもっと正しい方法があるのではないだろうか?」と、疑問を持ちながら努力をするとき、その努力は努力にならない。
努力というのは常に、目の前の「これ」だ、と当たり前に確信されているときにしか実を結ばない。
だからこそ、自尊心の高い人は常に、「自分はそもそも、目の前の『これ』を、ちゃんと疑問なくやる気があるのだろうか?」ということに注意せねばならない。
確かに、教える人によっては、「正しい方法」と、「そうでない方法」が、実際にあるものだが、そうでない方法がやがて「正しくない方法だ」と知られるのも、そのことに十分向き合ってから後のことなのだ。
目の前の「これ」を疑問なくやってみるまで、それが正しいか否かの判断さえ持つことはできない。
あくまで見つめなければならないのは「レベルの差」であり、期待されるような「方法の差」はそもそも存在しない。
5.努力が日々、「身体」に積み重なっているか
豪邸を建設するのに、数年間、汗まみれの苦役である基礎工事を、毎日休まずに続けたら、数年後、その労苦は、すっかり身に馴染むようにして、身体に積み重なっているだろう。
今さら土ぼこりをかぶっても、眉一つひそめないようになっている。
どれほど背中が頑丈になったか? どれほど大きな声が出せるようになったか。両手両足、胴体を貫く芯、身体の隅々まで、労苦は染みわたって自己を鍛えているはずだ。
また、柱を垂直に立てるのに、「垂直」ということにどれだけ厳しくなったか。
溶接をするのに、どれだけ手先が精密に動くようになり、集中力は途切れなくなったか。
チームワークに声を掛け合うということにどれだけたくましくなったか。
すべてのことは頭から抜けて、今は隅々まで身体に染みわたっている。
努力というものは、必ず、「日々休みなく」、「身体に積み重なる」という形で成される。
決して頭に積み重なるものではないし、知識に積み重なるものでもない。
「経験」というあいまいなものへ積み重なるものでもないし、間違っても「ノウハウ」というような軽薄なものへ積み重なるものでもない。
積み重なる先は常に明確に「身体」だ。
ふと気づいたとき、頭の中にいろいろ思いは巡るけれども、胴体に染みわたって残る努力の痕跡がないという場合は、それは何の努力にもなっていない。
努力の結果、努力は「身体」に積み重なっておらねばならず、努力への「思い」が積み重なることに意味はない。
いわば、努力する者は、
「あなたの努力は、今、身体のどこへ積み重なっていますか」
という問いに、
「ここと、ここです」
と、具体的に、自分の身体を指差して、実感を持って、回答できなくてはならないという義務を負っている。
たとえ、知識を知能の中へ組み込むという、学問へ努力するのだって、その努力は必ず胴体に蓄積する。
学問への努力は、デスクへ向き合う胴体の気力、および、重い学術書を支える肘の力や、ペンを走らせ続ける手の力によって形成される。
学問への努力によって鍛えられた人間は、朝方にデスクに向かい、十時間後、夕方に部屋を覗いても、なおまったく緩まぬ姿勢で学問を続けている。
その姿が努力の成果だ。
いわゆる「勉強が苦手」という人も、その大半は、頭が悪いのではなく身体が弱いに過ぎない。
そして自尊心が高すぎて、自分の低レベルに向き合えない、身体が逃げてしまう、ということが、彼を「勉強が苦手」にしているだけだ。
自尊心の高い人は、自分の「思い」ばかりに注目してしまう。
だからこそ常に、昨日から今日にかけて、自分の「身体」には今、努力がどう蓄積しているか?
ということに、よくよく気をつけねばならない。
身体に蓄積しているはずのものが、今日から明日にかけて、色々思いつめたはずなのに、「空っぽではないか?」ということに気をつけねばならない。
努力はそのように、身体に蓄積するものなので、努力は、人のその外見上の姿まで変える。
誰でも知っているように、身体に努力を染みわたらせてきた者のたくましさと、頭に思いを巡らせるだけで身体に努力が積み重なっていない者の虚弱さとでは、それぞれの「佇まい/たたずまい」自体が見るからに違う。
いわば、「佇まいからして、レベルが違う」。
どれだけ努力的なことを思っても、そのことによって佇まいは変わらない。
佇まいが変わるのは、身体に蓄積して染みわたったものによってのみだ。
ここまでに話されている「レベルアップ」というのは、全て「身体のレベルアップ」のことを指している。
身体に努力が蓄積していかねば、身体はレベルアップしないだろう。
人間の声や、笑うことや、あるいは人に訴えかけることも、本当は全て胴体、身体のほうに依拠している。
6.損傷に高揚していないか
レベルアップに必要なことは、「レベル差」をはっきり見ることだ。
すでに「努力そのもの」の姿として、ハイレベルを為し遂げている誰かを目の当たりにすること。
一方、自分自身はというと、「十人並みだ」ということを改めて目の当たりにすること。
そこにあるレベル差を引き受けることから、レベルアップの手続きは始まる。
だが、自尊心の高い人にとっては、そうして自分が「十人並み」でしかないということを認めるのは、心理的に非常に耐えがたいものだ。
この耐えがたさによって、人はやけっぱちになったり、自分を傷つけたり、他人を傷つけたりという、蛮行に走ることがある。
そうした損傷の行為や「やけっぱち」も、高揚の一つとして、傷ついた自尊心の慰めにはたらくので、自尊心の高い人は、しばしばその損傷と高揚に中毒をし始める。
この中毒には依存性があり、何の利益もないとわかっていながら、いったん依存を起こしてしまうと、その「やけっぱち」や自傷他傷を繰り返すようになることがある。
身体に蓄積させねばならないのは、「努力」であって、「ダメージ」ではない。
自尊心の高い人が、努力へ向き合おうとすると、しばしば自尊心の耐えがたい苦しさから、身体に努力ではなく損傷を蓄積させることへ傾くことがある。
だからこのことに気をつけなくてはならない。
努力というのはどこまでもつまらないものだ。
だからこそ、努力は、高揚してするものでもなければ、大げさに悲愴になってするものでもない。
身体に努力を蓄積させるということ、労苦や、汗、ヘトヘトになるということを積み重ねることは、身体をギスギスにしたり傷めたりするということではない。
そこを落ち着いて考え、大げさにしないことだ。
十人並みの人間が、しなくてはならない「努力」とは、どう考えてもありふれたものに過ぎないはずで、間違っても必要なのは「自分を傷つけること」であるはずがない。
損傷に慰めを得るという、しばしば見かける激しさは、激しいといってもただ悲愴なだけで、アプローチとして科学的ではない。
十人並みが、それにふさわしい努力をするとき、その努力者は明るく笑っていて何もおかしくない。
暗くふさぎ込むほうが不自然で、大げさなことではないか。
7.努力が自尊心に向かっていないか
レベルの高い者が、何も「偉い」ということではない。
「偉い」ということではないが、もし自分自身、そのレベルアップを志すのだとしたら、それはそのレベルの高みを「尊ぶ」心があるからこそ、そのレベルアップを志しているのだ、と言えるだろう。
このとき、その「尊ぶ」という心において、
・自分を超えて、ハイレベルを尊ぶのか
・それともやはり、自分を尊ぶこと(自尊心)が上位なのか
という比較の問題が出てくる。
このとき、その為されるべきレベルの高さより、自尊心のほうが結局、尊ぶべき、重要なものなのだということになれば、そもそものところ、レベルアップを志す動機の原動力が損なわれてしまう。
自己をレベルアップさせようとするとき、その手続き上、まず自分の「低さ」を見なくてはならないのだ。
つまり、「目的を果たすためには、いったん自尊心を地に落とさねばならない」ということになる。
ここでそもそもの目的が自尊心そのものであったとしたら、この手続きは目的に向けて矛盾してしまう。
自尊心の高い人は、自尊心を地に落としたくないからこそ、努力をしようと発想している。
これはまるで、「溺れるのが怖い」という動機で水泳教室に来た者が、「まず溺れなさい」という指導を受けるようなもので、「いや、それが怖いから、水泳を習いたいんです」と反論するという、不毛な循環に陥ってしまう。
この不毛な循環構造から脱却する、これという方法などありえないが、たとえ脱却の方法がなかったとしても、構造を知ることは、人の心を落ち着かせる作用がある。
ここではこのことを、「レベルアップの構造」ということで理解しておき、心を落ち着かせることにあてがっていい。
自尊心の高い人にとっては、「驚くべきことに」ということがある。
驚くべきことに、世の中には、自尊心の保護と強化を目的とせず、何かまったく別の目的をもって、レベルアップを志す人もいるようなのだ。
エッ!?
その人にとっては、そのレベルの高い何か、そのものが、尊ぶべきものに感じられているらしい。
それで、さらに驚くべきことには、そういう人にとっては、高いレベルの何かを目の当たりにし、比べて自分の低いレベルを思い知らされるということが、むしろ「嬉々として感じられる」ということのようなのだ。
そのように、まるで別種の人間が、世の中には本当にいるらしい……
「嬉々として感じられる」。これはまったく、驚くべきことであるはずだ。
自尊心の高い人にとっては、レベル差に直面させられるということは、耐えがたい苦しさであるはずなのに、別のある人にとっては、それ自体が「嬉々として」、よろこばしいことに感じられるのだという。
まるで、自分のレベルの低さがはっきり見え、高いものとのレベル差がはっきり見えること、それ自体が「うれしい」というのだ。
そうして、ある種の人にとっては、「レベル差」をはっきり見るということ、それ自体がよろこびだというのだから、俄然そういった人のほうが、レベルアップの方向へ努力することには有利になる。
何しろ、レベル差に向き合おう、というような覚悟をいちいちしなくても、嬉々としてそのことを眺めるのだから、手が掛からないし、いっそ手出しのしようもない。
自尊心の高い人は、何を慌てることもなく、むしろ構造を知って心を落ち着けるために、このことを正しく理解すればいい。
「レベルアップの構造」があって、その構造の中、レベルアップに有利な者と不利な者があるが、その有利と不利は、こうして自尊心の差によって分かたれている。
努力の目的は、何も、自尊心の向上のためとは、限らなかった。
自尊心の低い者は、のほほんとしてまるで向上心がないかのように見えるが、そうではなく、自尊心の低い者の中にも、向上心を持つ者はいるのだった。
のほほんとして見えてるのは、ただ単に、彼にとっては何一つも心理的に大げさに映らないということでしかなかったのだ。
低いレベルをよろこぶ者、レベル差をよろこぶ者は、そうしてのほほんとしながら、自分のレベルの低さを大いによろこびながら、レベルアップを実現していってしまう。
8.努力が「パワーアップ」に向かっていないか
自尊心の高い人は、レベル差を引き受けられないということに加えて、自分の「ミス」や「失敗」をとても嫌がるという性質がある。
それは当然、自尊心が高ければ、自分のそうした不出来を見たくはないだろう。
特に、ミスや失敗、あるいは不出来が、人前に露見してしまい、笑われたり、バカにされたり、低い扱いを受けたりするということが、自尊心の高い人にとっては耐えがたいことになる。
これによって、自尊心の高い人の努力というのは、どうしても、「ミスや失敗、不出来が発生しえない努力の方向」へ偏ってしまう。
その結果、自尊心の高い人の努力というのは、何につけ「パワーアップ」という方向へ偏りがちだ。
パワーアップのための努力というのは、筋力トレーニングをはじめとして、その努力自体に「ミス」とか「失敗」とか「不出来」とかいうことが付きまとわない。
こうして、しばしば自尊心の高い人は、ひたすら自己の「パワーアップ」という努力に励みがちなるが、言わずもがな、パワーアップとレベルアップは別物なので、さんざん努力した結果、レベルアップのほうには実を結ばなかったということは実によくある。
典型的なのは、たとえば、歌を上手くなろうとするとき、その努力が、腹直筋の強化にばかり向かう、というようなことだ。
あるいは、声帯周りの筋肉や、長く息を吐くトレーニングなど、それ自体にはミスも失敗もありえない、「パワーアップ」に耽る努力ばかりをする。
けれども、たとえば「キックボクサーなら誰でも歌が上手い」ということはまったくないので、腹直筋を徹底的に強化しても、そんなことでは歌を唄うことへのレベルアップにつながらないのは明白だ。
そんなことは、本当は誰だってわかっているのだが、自尊心の高い人にとっては、しばしば努力というとその「パワーアップ」のみになってしまう。
自尊心の高い人の中には、「何だって努力します」と言いながら、漠然と、その努力の概念を、ミスも失敗もない「パワーアップ」にのみ向けているということがよくある。
そうした歪曲を企むことは、本来のレベルアップに向けて努力するということに対して、実はまるで誠実ではない。
自尊心の高い人は、このことに気をつけなくてはならない。
努力をし、レベルアップをするというのは、ミスと失敗を繰り返し、不出来を人に笑われて、悔しい思いやみじめな思いをしながら、それでも自分の低いレベルから目を逸らさずに、ミスと失敗に何度も自分で向き合って、なお努力を続けるということだ。
ミスや失敗をすることは、それ自体がレベルアップの過程だし、そのとき自分の不出来を「嫌味なく」笑ってくれる人がいたとしたら、その人はむしろ自分に対してフェアでいてくれる友人なのだと、その存在をありがたく思わねばならない。
努力ということの実際は、ほとんどがこのミスと失敗と不出来の自己確認、その果てしない繰り返しで形成される。
だからこそ努力というのは厳しい。特に、自尊心に対して厳しいのだ。
努力とはそうして、ミスや失敗、不出来の無様を繰り返して、人に笑われて、みじめな思いをする、ということの繰り返しだ。
それでいてなお、そのみじめさの中で、自分とはまるで違う、うらやましいような人のことを、曲げずに見上げていなくてはならない。
それが「レベル差をはっきりと見る」ということだからだ。
レベルの高い人は、目の前にいて、決して自分のような、ミスや失敗や不出来をやらない。
自尊心の高い人にとっては、そうして生々しく目の前で「レベル差」をはっきり見せられたとき、すさまじい「思い」が湧くものだが、その「思い」を大げさにして、すさまじい「思い」に逃げ込んではならない。
レベル差があるのは元々わかりきっていたことではないか。
全ての解答はそのとき目の前にあるのだから、そのときこそ目を背けてはならない。
レベルアップのために、「レベル差をはっきり見る」というのはそういうことだ。
9.覚醒
最後に逸脱した項目を付け加えるのは、これがもはや注意点でも何でもないからだ。
真に、自尊心から離脱して、「レベル差」をまざまざと見たとき、実は、努力ということをすっ飛ばして、いきなりその瞬間に、レベルアップが起こることがある。
少なくとも、レベルアップに完全な目途がつく程度、上のレベルに足が掛かってしまう、ということがある。
これを僕は、便宜上、「覚醒」と呼んでいる。
完全に自尊心から離脱して、「レベル差」をまざまざと見て、歓喜にぶっ倒れそうになったとき、すでに「努力」などしないでも、もう上のレベルへ自己が上昇しているということがある。
そのとき、「ぶっ倒れそうになる」のは、瞬間的に、一気に、身体にハイレベルのものが積み重なったからだ。
人間はおそらく、自尊心や自意識から完全に離脱できたとき、そうして目の前に示されたハイレベルのものを、一挙に獲得するという能力を、ある程度とはいえ、持っている。
少なくとも、その「覚醒」の原理でレベルアップが起こるとき、そのレベルアップは例外的に急速だ。
ぶっ倒れそうになった瞬間の前後で、すでに人格は別のレベルに到達している。
そうしたことが、ごくまれにだが、実際のあるのだと、あくまで補項として付け足しておく。
***
と、いうわけで、レベルアップということを、本当に考えると、これぐらいキツくて憂鬱なものになるのだ。
さあ、酒でも飲んで、イヤなことは全部忘れて、寝ようか、という気持ちになってくる。
僕なんかまったくそうして不貞寝ばかりして生きてきた。
そして、今になって僕などは、年長者から若年のあなたに向けるものとして、「僕のようになってはいけないよ」と、心から言いたいのだった。
レベルアップというのは、そういうものだけれど、何もレベルアップが偉いわけではないし、レベルの高い人が偉いということでもない。
レベルの高い人のほうが値打ちがある、ということでもない。
僕が言うと、まるで言い訳みたいに聞こえるが……
たとえばあなたが、家で猫を飼っていたとする。
その猫は、何も上等でない、ごくふつうの、猫ちゃんかもしれない。
が、それが「ごくふつう」であれ、「平凡な猫」であれ、それはかけがえのない、世界で一匹だけの、大切な猫ちゃんのはずだ。
他の猫がどうとか、関係ない、大切なのは「このコ」なの、というふうに。
どれだけ上等な、ハイレベルの猫ちゃんを、無料で差し上げますと言われたって、「そんなの要りません」と、誰だって心から言えるはずだ。
それが、大切、ということであり、愛している、ということだ。
愛するとか、愛されるとかいうことに、レベルの差なんて関係ない。
レベルの差なんて、関係ないが、なお一方で、われわれは、自分のレベルを引き受けて、色んなことのレベル差をはっきり見て、レベルアップに向かわねばならないのだろう。
レベルアップなんか、できなくてもいいのだ。
ただ、レベルアップということから、目を背けてはだめだ。
レベルアップということから目を背けて、自尊心を保持することは、愛されるということそのものを、台無しにしてしまうから。
「十人並み」ということが悲しくて、「せめて十人に一人の何かになろう」と、レベルアップに向けて努力したとする。
その結果、すごく努力した割には、「三人に一人」ぐらいにしかなれなかったとしても、本当にレベルアップに向けて努力したなら、「わたし、努力したの」と、そのときは必ず胸を張って言える。
そうしたら、頑張ったね、と愛してもらえる。
レベルが高いとか低いとかは関係ない。
だから、できたらレベルアップということを正しく見て、レベルアップへの努力に向かおう。
ハイレベル願望に高揚するような、不誠実な努力ではなく、レベル差をはっきりと見つめ続けた、本当の努力で、レベルアップを目指そう。
その結果、レベルがどこまで上がったかというのは、問題ではない。
レベルとして、「あそこまで到達したかった」という思いが残ることに、気持ちの上で、問題はあるかもしれないけれど、少なくとも、愛されるということにおいては、何の問題もない。
そうして、本当に努力した人のことを、決して誰も笑わないし、バカにはしないものだ。
もし、バカにするような人があったら、そのときは誰かが代わりに、大切なあなたのことを守ってくれるだろう。
たぶん、自分がどのレベルにまで到達できたか、という、「結果」のことは、本人の責任ではないのだ。
本人が、本当の努力をしたなら、その人は必ず、その人らしいどこかにまで、到達したのだから、それで十分、それがその人の栄光のゴールなのだ。
でも、レベルの差をはっきりと見ず、目を逸らして、本当の努力をしなかったとしたら、それは本人の責任だ。
本人に責任がある場合は、愛されたいというのは、ちょっと虫が好すぎるんだろうな。
[レベルアップの構造と、八つの注意点/了]
←前へ 次へ→