No.342 体温
まだ薄い彼女の肩に手を置いた。
肩は焼けるように熱かった。
彼女が泣いているからだ。
笑っているときもそうだった。
心が燃えているということ。
笑っているときも泣いているときも、怒っているときもよろこんでいるときも。
心が何かを受け止めて燃えている。
人間には、ただ笑っているだけ、というときもあるし、ただ泣いているだけ、というときもある。
それは単純な情緒だ。
単純な、気分というときもある。
心が燃えているときというのは違う。
何かを受け止めて、心が燃えている。
肩や腰に触れると、汗を掻いており、その熱と蒸気にびっくりする。
触れていて、正気がゆがむほど熱い。
心が燃えている人間の、体温だ。
男女が、性的に交合するときにも、それは起こる。
何かを受け止めて、心が燃えているとき、全身から蒸気のような汗が噴く。
手のひらを触れると、熱くて思わず手を引っ込めてしまいそうになるほどだ。
熱い蒸気に包まれている。
それで、切りつけるような火傷は負わない。
本当に大切なものへ向けての、よろこびや、悲しみが、怒涛となって押し寄せて、彼女の心を、堪え切れない発火点へと追い詰めてしまうのだ。
「友達ができたの」と泣いた女の子もいた。
新宿駅の構内で、涙目で、震えて、僕を見上げて、立ち尽くしていた。
「よかったな」と肩に触れると、燃えるような体温だ。
手が怯むほどだ。
こちらの胸が焼けて、こちらまで崩れ落ちてしまいそうなほどだ。
もし、ワールドカップのサッカーで、決勝点のゴールが敵陣に突き刺さったら、市民らは歓喜の雄叫びを上げるだろう。
大爆発だ。
そのとき、居並ぶ肩は、触れ合って、店内は蒸気に煙り、輝く体温で満たされるだろう。
そのことは、体温を冷やしたまま、企みによって大声を張り上げる連中とは性質を異にする。
歓喜と、盛り上げの工作は、違うものだ。
盛り上げの工作が、必ずしも悪いものではないにしても、どこまでもやはり違うものだ。
僕は体温を求めている。
燃えるような体温なしに、何かを表面上うまくやってみせたとして、そのことが自分の何になろう?
あるいは燃えるような体温の子が、何かについて、ヘタクソにしかやれなかったとして、専門家でもないわれわれにとって、何の問題があろう?
欺瞞の利かない体温のことまで、自分の見栄や、コンプレックスの隠匿に、曲げて捉えようというのか。
そんなことは誰も続けていられない。
燃える体温が交わされるとき、そこには必ず燃える眼差し、燃える声、燃える言葉と、包む人間の蒸気がある。
それ以上のことはないし、またこういった原初的なことを抜きにして、上等なふりをして何になるものか。
冷え切った体温の者を、過保護に温めてくれる赤外線じみた人間などこの世のどこにもありはしない。
燃える体温に生きるか、欺瞞の低体温を生き続けるか、そのどちらかだけだ。
頭に熱を上らせて、神経が切れかからんばかりになっている人間も、自分は熱に憑りつかれていると感じている。
それは錯覚だ。
その証拠に、頭熱に浮かされた人間の、その肩に触れようとする人間は現れない。
熱あるものに触れようとするのが人間の本能だから、触れたくもならないものは、つまり熱を帯びていないのだ。
ついては、人間の正体は、笑いでもなければ涙でもない。尊厳への怒りや勝利へのよろこびなどでもない。
正体は一貫して、その燃えるような体温だ。
僕は体温を求めている。
僕は一切のもっともらしい話を聞き流している。
地を這う一種の動物のように、僕の眼は、輪郭や造形を追うのではなく、その物体の体温と蒸気を見つめている。
目に映るのは、燃えるような体温だ。
[体温/了]
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