さよならアミヨさん、ネット輿論に別れを告げるときがきた
ネット世論はプラットフォームに依存している
無作為にひとつの Youtube 動画を観たとき、そのコメント欄には「がんばってください」「とてもいいお話が聞けました」「これからも楽しみにしています」「かっこいい!」と絶賛のコメントが並んでいることが少なからずある。だがその動画を「5ちゃんねる」などのスレッドに話題として投下すれば、スレッドに投降される書き込みは絶賛のそれではなくなる。具体的には文面が汚れるのでなるべく避けたいが、その動画に表示されているものすべてを基本的に侮辱する書き込みで満ちるはずだ。こうなると無作為に想定する「アミヨさん」の正体がわからなくなる。Youtubeのアミヨさんは絶賛しているのに、5ちゃんねると「まとめサイト」のアミヨさんはそれを口汚く侮辱しているということになる。
同じ動画をツイッターに拡散したときも、ツイッター上のアミヨさんは別の傾向を見せる。半笑いのネタに溶かし込んだりすることが多くなる。これが、別のSNSなら別のSNSのテイストに変化する。フェイスブックやインスタグラムならいわゆる「意識高い系」のほうへアミヨさんは傾くだろう。さらにいえば、5ちゃんねるの内部でさえ、それぞれの「板」の「住民」たちによってそのアミヨさんの傾向は大きく変化する。
これではまったくわけがわからない。たとえば、誰か教育現場に立つ人による、教育論の言説があったとして、その言説に対して「アミヨ」の賛否と評価は、
Youtube アミヨ ◎
5ちゃんねるアミヨ ×
ツイッターアミヨ △
フェイスブックアミヨ ◯
というように分かれてしまう。
このように、アミヨは主体的なものとして存在してはおらず、それぞれのプラットフォームに依存するものとしてしか存在していない。
つまり、おうおうにして、Youtubeにおいてすばらしいものが5ちゃんねるにおいては「ゴミ」であり、5ちゃんねるにおいてすばらしいものはインスタグラムにおいては「最低」ということになる。
あるいは、強引にネット世論というものを肯定しようとしても、それは Youtube 世論やら5ちゃんねる世論やらツイッター世論やらにそれぞれ分離して捉えねばならないということだ。まるで、公民館で投票するものとホテル会場で投票するものが変わってしまうというように。これではもう、人々が何をどう考えているかということの土台にある「主体性」という大前提じたいが成り立っていない。
問題点は先送りにするとして、さしあたりわれわれが知らねばならないことは、先の段で述べた 400 人に一人が、プラットフォームごとで「言うことがまったく違う」ということだ。するとこれらはもう、コメント欄や書き込みじたいは残っているものの、人々の「言うこと」じたいはどこにも残っていないということになる。そしてそのとおり、ネット世論を醸成・構築する一人となったその 400人に一人の少数派は、その日の気分であちこちに自分の「言うこと」を書き残しただろうけれど、それがどのようなものであったか、どのような意図であったか、いちいち把握も記憶も統合もしていない。
そのときの自分の一声を、自分のひとつのシーン、ひとつの決断、ひとつの思い出、一つの選択として、己に刻んでいる者などいるわけがないのだ。これがおおよそネット世論の正体であって、つまりネット世論はそれぞれのプラットフォームと題材から「刺激」を受けた者が、その刺激に応じてそのとき限りの思い付きをそこに吐き出していくのみであって、その集積物をわれわれが尊重して「世論」などと扱うことはやはりできない。<<プラットフォームの刺激が人々に物を言わせているのであって、物を言う人々が集まってプラットフォームを出現させているのではない>>。<<各プラットフォームが人々を醸成したのであって、人々が各プラットフォームを醸成したのではない>>。
だからこそ Youtuber であり、ツイッタラーであり、「ねらー」なのだ。その主体性はプラットフォームの側にあって当人の側にはない。アミヨはそれぞれのプラットフォームの産物であって、プラットフォームなしにアミヨが主体として独立に存在しているわけではない。
大音量で音楽を流すナイト・クラブに人々を集めたら、人々はそれぞれ大声を上げたり、踊り狂ったりするかもしれないが、それはナイト・クラブの刺激の産物であって、彼らは単体で誰もいない砂浜に立っているときに踊り狂ったりはしない。それと同じように、すべてのアミヨはプラットフォームが除去されればその世論と一緒にまるごと消えてしまう。
われわれは十数年前まで、このことに強い違和感をもって、一種の警戒心をはたらかせていた。特に自分にとって誰というのでもない、プラットフォームの空気・ムードに押しつぶされてすべてが支配されていくということのいかがわしさに強い抵抗と否定を覚えていたのだ。ネットで大流行の◯◯というのを、世論やメインカルチャーの座に据えるのは直観的に "不自然" だと。ネットで大流行というのも、正確にはそれぞれのプラットフォームで大流行というのにすぎないし、それを絶賛するコメントというのも、400 人に一人しか発していないのに、それを権威と認めて首座に置くのは不自然なことだと。
この警戒心を、アミヨさんはどのように突破してゆき、自分の権勢を広げていったのだろうか。
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