さよならアミヨさん、ネット輿論に別れを告げるときがきた
アミヨは「拡散の担い手」
会社員、特に営業の者が、朝といえば新聞を読んで出かけるのは、営業先や来客に対して交わす会話の話題がたいてい新聞の一面記事だからだ、そういうお約束が会社員にはある(といっても、そのやり口もすでに古すぎ、今はなくなってしまっているかもしれないけれども)。
かつてニュースは、世情を示すという向きも何割かはあったが、それ以上に情報として必要なことだったからこそ、それは報道された。たとえばA社が新規事業を発表した。B社はリストラクチャリングを発表した。C社は円安で価格管理に苦戦しており、D社はE社との事業合併を発表した。日々の天気予報だって必要な情報だし、高速道路◯◯線が事故で大規模な渋滞というのも必要な情報だ。小麦の価格変動や、米の不作、魚の不漁や豊漁も必要な情報だ。社会生産に関わって生きていくのにこれらの情報を知らないでは済まされない。
一方、アイドルグループの◯◯が、関係者からパワハラを受けて、そのことを告発したというようなことは、世情を示すひとつの「事件」ではあったとしても、それじたいは直接「必要」な情報ではない。食品メーカーの誰々が性差別に関わって不当な発言をしたというようなことも、たとえなげかわしい内容のものであったとしても、それじたい「必要」な情報ではない。
かつてニュースというのは、何であれ「必要」な情報ということが第一に優先された。現代においてはそのニュースの定義じたいが変わってしまい、騒がれやすいもの・それによって拡散されやすいものがニュースの第一になった。もちろん報道といってもNHK以外はスポンサーを抱えているものだから、商売として視聴率の獲得を第一義に支配されなくてはならないという由は誰にでもわかるとして、それでもそのことが露骨に支配的になった。
たとえば学習塾の経営陣が、現場レベルの従業員に、ひどいパワハラ、ひどい恫喝をしたとする。そのことには被害者がいるのだから、録音など証拠が取れたなら不幸中の幸い、裁判によって正当な処分が下るべきだろう。
だが今、その録音の音源があるとすると、その録音の音源に対して猟奇的な関心から、その音源をたっぷり報道して視聴者に聞かせるのがまるでニュースというような様相になっている。一方で、◯◯市で二名が殺害される殺人事件があったとして、それが怨恨によるものだったとして、そのニュースは三十秒ほどで済まされていく。学習塾の経営者の音源は一分間流され、その経営者の経歴や、その著書と発言、若いころの写真まで報道される。これは猟奇的な関心から視聴者を「惹きつける」という意図に過ぎず、すでに必要な情報を報せるという報道の第一義からはるかに逸脱してしまっている。
ここであなたが、その恫喝音源を聞かされたとして、あなたはどう思うだろうか。もちろんまずはその汚らしい声にウワッと嫌悪が走るだろう。そして、「パワハラというのは本当に最低だな」と思うかもしれない。けれどもだからといって、そこからそのパワハラに関わって言説をツイートしようとはしないだろうし、その言説を誰かと交換して確かめ合おうなどと考えない。単純な話、あなたはきっとそこまで暇ではないからだ。ましてそこから、その恫喝がどのような事情から発生したものか、それぞれが加害者と被害者であるとどこまで断定してよいか、そして今後その両者にどのような処分が下されていくか、そのことまで追跡していたら、簡単に一時間や二時間は経ってしまう。おそらくあなたの日々に、そんなことに費やしている時間は有り余ってはいないはずだ。
つまり単純な話、かなり無念なことと言わざるをえないと思うが、「必要な情報」というのではなくただ関心を惹く材料が豊かな事件を、ただ拡散してもらうためだけに報道し、またそれを拡散するだけ不毛な時間を有り余らせている人たちが、このことの主たる担い手になっているということだ。ふつうわれわれは必要な情報を授受するだけでそれなりに手一杯なところ、そうではない人たちも存在しており、現代の話題のすべてはそうした人たちによって間接的に担われているということ。身も蓋もない言い方をするならば、視聴率が欲しいメディアが、不毛な時間を有り余らせている人々を「使役」しているというのが現代の状況だ。かつてそうした不毛な人々には "使い道" がなかった。それが今は違う、今はそうした人々を「拡散の担い手」として使役することができてしまう。誰かがそのようにデザインしたわけではないだろうが、結果的にそのような状況が露骨に形成されてしまって、われわれの直接よく知っているこの現代の形が出来上がっている。
ウェブ上にさまざまなプラットフォームが出現したとして、そのプラットフォームごとに言うことの異なるアミヨさんは、やはりまったくアテにならない存在だ。にも関わらず、それが世の中に幅を利かせていったのはどういう由縁だったか。それはアミヨさんたちが、「拡散しますよ」という担い手を買って出るということだった。
実際、テレビ局が持つ Youtube 上のニュースチャンネルを見ると、たとえばチャンネル登録者数が 250 万人に対し、「人気のアップロード動画」では、再生数が 500 万 〜 2500 万に及んでいるものがある。これらの動画は、拡散によって「バズった」とみなしてよいだろう。報道だってこのように「バズらせたい」と望む――それを通してチャンネル登録者数を増やしたいと望む――からには、そのバズの担い手に向けたアプローチが必要になってくるということだ。
アミヨは自分たちの言説によってその権勢を広げていったのではない。もし真正面から言説だけで権勢を得ていこうとするならば、出版社を設立して雑誌を発行したり、政党を結成して出馬したりということになるはずだが、アミヨたちにそうした動きはまったくない。
アミヨは「拡散の担い手」としてその権勢を広げていった。実際、どのニュースをリツイートし、どの事件でスレッドを建てるか、どのスレッドに「勢い」を与えるかは、完全に彼らのお気持ちひとつなのだから、バズに関しては彼らの好みに迎合していくよりなく、彼らはその権力を確かに手中にしていると言える。<<かつては使い道がなかった、不毛な時間を有り余らせている人々に、今は集団的にひとつの権力が具わった>>ということだ。
アミヨは言説の方向性をもってその世論めいたものを醸成しているのではない。拡散の規模じたいがアミヨの情勢する世論めいたものだ。<<言説の内容や思想があるわけではなく、ただ拡散の規模だけがある>>。それぞれをどの程度の規模で拡散させるかは、彼らの意図で決定できるわけではないが、彼らの気持ちひとつで決定していく。
では彼らが、どのような気持ちでその「拡散」を担っているかということが、ネット世論そのものの方向性を決定することになる。アミヨの気持ちに反するものは拡散規模を得ないし、アミヨの気持ちに即するものは拡散規模を得る。アミヨに言説の思想があるわけではない。アミヨにあるものは無念ながら「不毛」な時間だ。
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