さよならアミヨさん、ネット輿論に別れを告げるときがきた
「不毛」と「大切なもの」
アミヨには不毛な時間があり、大切なものがない。もし大切なものがあったとすると、彼らの時間と労力はその大切なものに向けて費やされてしまうはずで、「拡散の担い手」をやっている余力はなくなるはずだ。アミヨの多くはそれぞれ何かを「それなりに」をやっているには違いないが、ひたむきにそれじたいが満ちるという本質的に「大切なもの」を持ってはいない。それでは彼らの気持ちはどの方向へ向かうか。彼らの気持ちは、大切なものの否定に向かい、すべての人が不毛であれ、という望みに向かう。
たとえば近年、悪質な「煽り運転」の事件が、その映像と音声と共に報道され、その映像と音声が猟奇性において拡散されていった。その拡散規模は典型的なネット世論を醸成し、その結果、煽り運転は法律において厳罰化されることになった。
むろん煽り運転の厳罰化について、わたしが異議を唱えるものではない。わたしは煽り運転をしたがるような気質の者ではないし、煽り運転のおぞましい粗暴さと不穏に過剰な情状酌量を覚える心当たりはわたしの内にない。
ただ、煽り運転が今こうして誰でも知っているネット世論の典型になった理由の最大は、単にその煽り運転が「不毛」という一点による。つまり、「不毛だからバズった」ということだ。映像も音声もおぞましく猟奇性を刺激するもので、それらの総体がまるごと「不毛」だ。だからこそバズった。さらに、ここに煽り運転の厳罰化という結果がもたらされると、アミヨさんの気持ちにおいてはそれがどのように受け取られるかというと、「煽り運転という不毛なことをした者は、厳罰を食らって財産や立場を失い、ますます人生を不毛にする」という文脈で受け取られる。そのことが、「不毛」を拠点とするアミヨさんにとっては思わずニンマリする満悦の心地を催させるのだ。この満悦の心地は一般に、アミヨさん側において「勝利」あるいは「大勝利」などと揶揄されて捉えられる。
わかりやすさのために典型的な「事件」をサンプルにしたけれども、これは事件ではないただの "物事" のすべてに引き当てられる。たとえば教育をテーマにおいたとして、教育現場において最低限の体罰は是か非か、というようなことがしばしば考えられる。このことについてアミヨは、
「体罰を発想する奴じたいに体罰をくれてやるべき、そしたら自分の言っていることがどういうことかわかるだろ」
「体罰したけりゃ、体罰したあとでその教師が暴行罪で逮捕されればいいじゃん。その覚悟がないなら体罰はすべきじゃないんじゃね」
「まーた昭和脳の老害が出しゃばってんのか」
「教育する能力がないから体罰に頼ろうとするんだろ、プロ失格」
という口ぶりを示す。これらのアミヨの言いようにわれわれはすでに慣れ切っているので、このことにいまさら驚くべき点はない。
では一方で、
「体罰は一切必要なし! 褒めて伸ばす教育がすべてを決める」
というようなキャッチフレーズがあると、とりあえずは、
「けっきょくそれに尽きる」
とはいったん応えるものの、直後には、
「でも口で言ってもどうしてもわからん奴っているけれどね」
「褒めるところがまったくない子はどうすればいいんですかね」
「褒めるのはけっこうだけど、それで子の側が伸びなきゃいけない義理はないでしょ。そういう期待の押し付けはマジでうざい」
「褒められて伸びるようになるのは一定の年齢になってからだよ、躾(しつけ)のレベルは体で教えるしかない。褒めて伸ばすとか言っている奴はたいてい無責任で自分がトラブルを負いたくないだけ」
と言い出す。
このように、けっきょくどんな言説が示されようとも、それに対して「マウント」を取るのが第一のことであって、そのやりとりの向こうに何らの思想も描いてはいないということ、このこともすでに現代のわれわれにとって飽きるほど知られていることなので、やはり驚くべき点はない。
本稿がここで提出するのは、このマウント主義について、そのマウントは単に類人猿的な本能から生じているのみならず、<<「不毛」をもって「大切なもの」をマウントする>>ということが本意にあるものだということだ。もちろんその当事者たるアミヨたちは、いちいちそのように精密に自覚しているわけではない。彼らはただ底に沈殿して湧きだし続ける衝動に従っているのみだが、その沈殿しているものこそが、この「不毛」と「大切なもの」に関わる "うらみ" のようなものだということになる。
アミヨたちが主張し、また活動しているその方向性は、たとえばこのように教育うんぬんをテーマにしたとき、その教育ということに<<大切なものはない>>ということを成り立たせんためだ。彼らにとって、教育うんぬんに関わってそこに「大切なものがある」という前提自体が許せず、容れられぬものだ。だから彼らの活動とそのネット世論はすべて、そこにある「大切なもの」が否定される方向にのみはたらく。
アミヨたちは「不毛」を拠点に生じている者たちであり、「大切なもの」を何一つ与えられずに来たものたちだ。
だから、他の一切のことは実はどうでもよく、すべてのものを「不毛」にする、「大切なもの」の一切を否定する、ということを真の目的にしている。
たとえばテーマを教育から国防に移してみよう。
「国を守るために死ぬ兵士とかバカでしょ。自分が死んだらおしまいじゃん」
「国を守るために死ねない兵士とかバカでしょ。死ぬことも含めての仕事じゃん」
アミヨたちは両方を言う。
だからアミヨたちの言説には思想がない。
アミヨたちはただ、国防というテーマにおいても、そこに「大切なもの」はないという一方向にはたらき続けるのみだ。
他の一般的な仕事に対してもそうだし、学門に対してもそう、恋あいに対してもそうだし、文化・芸術に対してもそう。スポーツ選手は「そのスポーツのことしか知らないバカだから未来がない」し、同時に、「そのスポーツのことだけに打ち込めなかったタレントまがいのスポーツ選手は全部ゴミ」でもある。演技力がないのに映画に出ているアイドルはゴミで、一方、演技力とかどうでもいいことで業界に居座っている老害は全部ゴミだ。学門は生きる上で何の役にも立たない無価値なもので、一方、まともに学門を修めていない人は根本的に知性がゴミだ。仕事に熱心で職務をやりきろうとする人は気の毒な社畜であって、自分の仕事をやりきろうという熱意がない奴は仕事を辞めたほうがいいゴミだ。好きな人と結婚したってどうせ数年でお互いうんざりしだすからバカだし、好きでない人と結婚したらけっきょく地獄でしかないからバカだ、そして結婚しなければけっきょく負け組だし、結婚したらそれじたいが墓場で負け組だ。言説それじたいに思想や方向性はまったくなく、ただマウントを取るだけ、しかもそのマウントは、「不毛」をもって「大切なもの」のすべてを否定しきりたいという動機からのみ生じている。
マウントの果てに、「自分はお前らより上位だ」「なぜなら自分のほうが、お前らより大切なものを持っているからだ」と、アミヨたちは言いたいのではない。アミヨたちはその「大切なもの」という概念そのものを否定したいのだ。なぜなら自分にはその現象じたいが与えられなかったから。彼らにとって青春は幻想であり、また、青春時代を満喫できなかった人はけっきょく生涯を通して負け組でしかない。
アミヨのメカニズムはこの一点、「大切なもの」の否定、「不毛」の隆盛、これのみに掛かっている。
このことは社会現象でありながら、それ以上にあなた自身に降りかかってくる直接の災難でもある。なぜならば、「アミヨ」は、必ず三秒後にでもあなたに突っかかってくるからだ。あなたが「大切なもの」を抱えて進もうとすれば、その三センチメートル先にはもう彼らが大群で待ち受けている。
あなたの「大切なもの」を、概念ごと完全に破壊・否定するのがアミヨたちの意思だ。
このことは、すでに成された革命であって、名付けるとすれば必然、これは「不毛革命」ということになる。
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