さよならアミヨさん、ネット輿論に別れを告げるときがきた
不毛革命
「革命」というのがどういうものか、あなたはどのように学校で習っただろうか。学校ではおそらくこのことを本質に及んでまでは教えない。それは、とうてい穏健なムードの中で教えきれるものではないからだ。もし「革命」ということの本質を生徒に教えれば、明晰な生徒は教師にただちにこう問うだろう、
「つまり先生、革命というのは、僕たち生徒があなたがた教師をことごとく殺害することですか?」
このことについて教師は、そうです、と肯うよりないのだ。革命の是非はともかくとして、革命というのはただそのことを指している。だからこそ学校では革命の単純な意味は教えられない。
革命というのは、学校でイメージさせられるややこしいことではまったくなく、極めてシンプルに、これまでのものを "根絶やし" にするということだ。代表的にいうと、あなたがその手に凶器をもって、あなたの両親を殺害するということだ。これは極論を言っているのではなく、たとえば毛沢東はその革命論を明確に暴力革命において、ここで言うように両親をこそ殺せとアジテートしたことは歴史においてよく知られていることだ。
なぜ革命において、あなたは両親を殺すのか。このことの答えもシンプルで、「殺せば両親がいなくなるから」だ。もちろんあなた個人がそれをしても革命は成されないが、人々が一斉にそのようにすれば革命が為される。それが正しいかどうかというようなことはさておき、人々が一斉にそのようにやりだし、その数が膨張していくようでは、それを差し止める実効的な力がない。
のみならず、周囲に学校があれば学校を破壊し、神社があれば神社を破壊する。仏壇があれば仏壇を破壊するし、教会があれば教会を破壊する。なぜ破壊するかというと、「破壊すればそれはなくなるから」だ。破壊してしまえばそれはもう更地になり、なくなったそれについて考える必要はなくなる。すべてをゼロから考えることができる。革命とはそのように、これまでにあったものを「変形」するのではなく、更地にしてしまって、そこに新しい理念を植えてみようとする、実効的な行動を指す語だ。フランス革命はフランスに民主主義をもたらしたものを指すのではなく、ただ王族をギロチンに掛けたことじたいをフランス革命と呼ぶ。古いものが残っているうちは革命ではないし、古いものの一切がなくなればそれじたいが「革命」だ。暴徒たちがルイ十六世をギロチンに掛け、その後何事もなかったように帰宅したとしても、それは革命と言いうる。新しい理念や制度がもたられさることは革命以後のことであって、革命そのものには新しい理念も制度もない。
IT革命によって mp3 が普及すると、カセットテープは "根絶やし" にされた。製品としては残っているが、それは歴史的遺物として残っているにすぎない。都心部に自動車が普及すると荷役としての馬は根絶やしにされた。デジタルカメラが普及してフィルムカメラは根絶やしにされた、残っているのはほとんど骨董品しかない。ことの是非の以前に、人の営為にはそうして "根絶やしにする" というプロセスがしばしばありうるということだ。古いもの・抵抗するものを根絶やしにすればいやおうなく新しいものが席巻するのだから、そうするべきじゃないかということ、また「そうするしかないじゃないか」ということ、それが「革命」という発想だ。いかなる国でもこうした発想を持つ勢力がどこかに潜伏して膨張してはいないかと、公安や秘密警察が目を光らせている。
アミヨは「大切なもの」を根絶やしにしていった。かつて、資本をもたない人々が資本を持つ人々を根絶やしにしていった革命があったように、「大切なもの」という現象を持たない人が、「大切なもの」という現象を持つ人々を根絶やしにしていく革命が起こった。このことはやはり「不毛革命」と呼ばれるべきだ。
資本をもたざる労働者階級が、資本によって労働力を搾取する資本家に嫉妬し、さらには恨むとき、そこに起こる革命の動力をルサンチマンと呼ぶことがある。それと同じように、「大切なもの」という現象を与えられなかった人は、それを与えられてある人々にルサンチマンを向け、この不毛革命を成し遂げた。この革命以後にある現代において、たとえば「陽キャ」は不毛でなくてはならず、「陰キャ」も不毛でなくてはならない。金持ちがうらやましい生活をしていたとしても、そのうらまやしい生活は不毛でなくてはならず、お金のない人がきつい生活をしていたとしても、その同情すべき暮らしは不毛でなくてはならない。女は男の 不毛な"オナホ" でなくてはならず、男は女の不毛な "ATM" でなくてはならない。目標を達成しようとする人は人間性のないサイコパスでなくてはならない。旧時代から愛され続けている人は不毛なオワコンの老害でなくてはならない。うまく友人を得られない若者は、自分と向き合うときというような「大切なもの」を持つものであってはならず、不毛な「ぼっち」でなくてはならない。うまく友人を得られる若者は、語り明かすというような「大切なもの」を持つものであってはならず、不毛な「コミュ力」の者でなくてはならない。そしてすべての浮き沈みには、「何ら大切なもの」はなく、すべてはどうしようもない考えるだけ不毛な「親ガチャ」でなくてはならない。
このようにして、「大切なもの」の一切が根絶やしにされることで不毛革命が成されたのだが、そのことを認めつつもわたしは、その革命に与しなかったことを明言しておきたい。そう言い立てたとて無力さが涙ぐましくみじめなことに過ぎないとしても、なおわたしはこの革命に与しなかったことを言い張り続けよう。また、その革命以降としての現代のすべてについても、わたしはけっきょく肯定しない者だと正直に告白しておこう。これはわたしが年齢的に、新しい時代を生きられぬ老いぼれというだけのことなのかもしれないし、そのように受け取られたとしてそのことを否定する意欲を今さらわたしは持ちえない。ただわたし自身思うのは、この革命以降の現代は「新しい時代ではない」ということなのだ。今になって、過去の革命がひょっとしたら一種「血迷っただけ」ということもあるのかもしれないと思える以上、この不毛革命も、ひょっとしたら後にはただ「血迷っただけ」ということに再定義されるのかもしれないのだから、わたしはこの現代が新しい時代ではなく血迷っている真っ最中にあるにすぎないという一縷の望みに賭けてみることにするのだ。わたしはなおも、「大切なもの」こそが「不毛」を根絶やしにするのではないかという古い可能性に依拠し続けよう。
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