さよならアミヨさん、ネット輿論に別れを告げるときがきた
絶対的なこころと相対的なこころ
魂、という言い方をいったん控えるならば、「こころ」が問題になる。「大切なもの」をこころが捉える・こころが信じるとして、「大切なもの」の側が消えてなくなれば、そのこころはどうなるか。当然、こころはその「大切なもの」を失う。結果、399 人は、アミヨと同じく「大切なもの」をその現象ごと失い、不毛にのみ依拠する者たちとならざるを得なかった。これを巻き込まれた者の不幸と呼ぶべきか、受動的だったものとして妥当と捉えるかは悩ましいところだ。とはいえ、そのどちらであったとしても現在の状況は変わらないのだから、そのどちらだと決定することも必要ないとわたしは思う。
いやいや、こころは「大切なもの」を信じたのだから、それを失うことはない、と言うだろうか。このことは一面としては真実なのだが、別の一面としては残念ながらそうではないと言わざるを得ない。不毛革命によって世の中に「大切なもの」は根絶やしにされてしまったのだから、根絶やしにされて消失してしまったそれをなおも捉え続け・信じ続けるというそのこころは「絶対的なこころ」となる。相対的なこころはそうはいかない。相対的なこころは、
「大切なものが、あったときには、それを捉えて、それを信じていたけれど、大切なものがなくなってしまった今は、それを失うしかないよ、なくなってしまったものを信じるなんてどうやってやるんだよ」
ということになる。
「大切なもの」うんぬんについて、それを絶対的なこころで捉え・信じ・掴んでいた人は別だ、今もなお「大切なもの」をそのこころが捉えているかもしれないけれど、この絶対的なこころに及んだ人というのはかなりのていど特殊な人で、ちょっとわれわれの一般的な範疇にない。たとえるならば、戦争中は誰しもやむを得ず戦うだろうけれど、戦争が終わってもなおそのこころが戦い続けるという人はちょっと特殊だ。戦場の只中で平和なこころを持ち続ける人が特殊であるのと同様に、戦争が終わってからもなおそのこころが戦い続ける人は特殊だ。それは「絶対的なこころ」と呼ぶべきで、「相対的なこころ」とは区別されるべきだ。そしてわれわれの大半は相対的なこころしか持っていない。だからこそ、数年前に流行したものを今年にはすっかり興味を失っているし、今はまったく興味がないものでも二か月後に流行し始めると「どれどれ」と関心が向いてしまう。激しい恋愛感情で交際した二人が、三か月後にはお互いにウンザリして嫌悪しあって別れるというようなことがいくらでもありふれるわれわれにおいて、安易に「絶対的なこころがあります」と言い張れば客観的には失笑を禁じ得ないだろう。
いかなる革命も、実際にその手に武器を持ち、火矢と石つぶてを直接放ったという人は全体のうち極少数派だろう。けれども革命以降は、やはりほぼすべての人がその革命以降の子として生きざるを得ない。この不毛革命についても、ほとんどの人は直接ネット世論を醸成するアミヨの当事者ではなかっただろうけれど、けっきょくは革命が成し遂げられた以降の不毛連邦の最高議会に恭順する者とならざるを得ない。古い世代は誰でも記憶のどこかに「かつては "大切なもの" があったような気がする」というおぼろげな感触を残しているだろうけれど、それをもって彼らか大切なものの「残党」ということにはならない。「残党」はこのとき、革命以降の世の中において "掃討" の対象なのだから。
かつて「大切なもの」があったときは、その「大切なもの」を背後において、エネルギーの有り余る者が、歌を唄ったり映画を撮ったり漫才をしたりしていた。そして誰でも知るように、現代のそれは旧時代のそれとは違う。現代においては、明らかにそれが不毛だという前提でやけっぱちな歌声が発され、不毛だという前提で映画が投げやりに撮られ、不毛だと明らかにわかるキャラクターで漫才師がコンクールに出ている。そしてそれらが不毛だという前提だからこそ、アミヨたちはそれを快く拡散してくれるという構図だ。相対的なこころは、それらが拡散され佳いものと扱われて称揚されるなら、その称揚に追随するしかない。絶対的にはまったく面白くないことが明らかな映画でも、現代を生きる相対的なこころはそれを「よかったよね」「マジ名作」「映画史を塗り替えた」と称揚しなくてはならない。
革命の当事者たるアミヨは、数的割合として極少数派なのだから、ほとんどの人はむしろこの「399」に該当するだろう。直接のアミヨは極少数派だが、絶対的なこころを持つ「大切なもの」の残党はもっと少ない。そして構造上、革命が成り立ったからには、有り余る不毛な時間を持っているアミヨこそが現代のわれわれの「リーダー」だ。実際、ネット世論がわれわれを lead しているではないか。かつてアニメを観てコスプレを発想するのは有り余る不毛な時間を持つ人だったが、それが今は 399 人に浸透している。アイドルに萌えるのも今は「推し」を持つものとして 399 人に浸透している。ポリティカルコレクトネスにせよその他の◯◯イズムにしても、有り余る不毛な時間を持つ人がリーダーとなり、そのリーダーがもたらすものがわれわれに浸透していくという構図になる。ある種の革命になぞらえて言うなら、そのアミヨというリーダーがわれわれの直接の「指導者」なのだから致し方ない。アミヨはおそらく誰も「陽キャ」ではないしそういうキャラクターになれないが、アミヨが陽キャを定義しているのであって、陽キャがアミヨを定義しているのではない。
相対的なこころを持つ者は、かつては「大切なもの」を直接持つ者を指導者と見て彼に追随するしかなかったが、革命以降の現代では、「不毛」を直接持つ者を指導者と見て彼に追随するしかない。昼間、太陽の光を照り返していた池は、夜になって日が沈んで月が出ると、いやおうなく月の光を照り返すしかないのだ。
わたしがここで「大切なものがあるだろ」と言っても、あなたは容易に「はい」とわたしの言うことに同調することはできない。アミヨが「現実みろよw」と草を生やしたら、あなたは容易に「はいw」と同調することができる。あなたの指導者はアミヨだ。
あなたの指導者はそのようにアミヨであっていいのだろうか。もしこのことに危機感を覚える人は、なぜ自分の指導者がアミヨになっているのかを冷静に考えるべきだ。なぜアミヨがあなたの指導者なのか、それはアミヨが革命を成して覇権を為したからだ。「大切なもの」がことごとく根絶やしにされたからだ。「大切なもの」が根絶やしにされてしまったから、あなたの相対的なこころは「大切なもの」をひとつも照り返すことができない。
逆に、もし「不毛」が根絶やしにされて「大切なもの」が覇権を為したらあなたは必ずそちらに容易に同調するだろう。あなたの相対的なこころは「不毛」を照り返しようがない。
これでは、あなたのこころが相対的なままでは、あなたのこころはいつまでも「本意」ではありえないのではないのか。
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