さよならアミヨさん、ネット輿論に別れを告げるときがきた
アミヨには「大切なもの」がない
革命は旧来のものを "問わずに根絶やしにする" が、それによって覇権を確立したとしても、単純なロゴスとしての矛盾は残る。たとえばIT革命によって年賀状は電子メールに切り替わって滅んだが、二十年前に友人から届いた年賀はがきはファイルして保存してあるくせに、五年前の「あけおめ」メールは保存されないまま消えていったのはなぜだということになる。昔の恋人にもらって手書きのラブレターを、デジタルコピーして原本は焼き捨てていいかというと、誰もが「ちょっと待ってくれ」とそれを制止する。すると、手書きのレター用紙に乗っかっている情報を、デジタルコピーは吸い上げきれていないということになるが、IT革命はそのことについて回答できない。われわれは映像や音声や、手触りやにおい、味、といった、認識で漠然と定量化できるものだけIT化できると思っており、「ひょっとしたら認識できない情報を授受している可能性もある」ということを捨象している。たとえば書籍が電子化されると、劣化しないし場所も取らないし検索もできるしでいいことずくめだが、「書籍に手で触れるということにまったく認識できない未知の現象が潜んでいる」という可能性もゼロではない。もしそんなことがあったら、電子化された書籍情報は実は「書籍ではない」ということになってしまう。このときIT革命は半笑いの憐憫の目で眺められる恥辱に耐えなくてはならない、だが今さら革命が成り立ってしまったものが、その権勢で威圧せず低頭するということは実際にはない。
同様に、たとえば共産革命があったとして、共産革命はこれまで資本家に搾取されていたぶんがすべて労働者に還元されるのだから、労働者は豊かになるはずだという、完全無欠の旨味だけに満ちた話がそこには聞こえてくる。けれども、革命前にいた資本家は実は「倒産を避ける専門家」だったという点が見落とされている。資本家の代わりに「指導者」がそれをするとしても、指導者は倒産を避ける専門家ではない。そもそも共産主義に倒産の概念はないのだから、指導者も労働者も倒産のリスクを恐れることなくまったく「のびのび」やるだろう。だがド素人が「のびのび」やるだけで栄え続けるというほど産業と労働、生産管理と品質管理は単純なものだろうか。ひどい状況になるのでは? このように、革命はその覇権によって異論を封殺することはできるとしても、単純なロゴスとして存在する異論そのものを現象として消去できるわけではない。ロゴスをもっていそうな眼鏡をかけた大人を全員殺したとしても、それは人を殺しているだけでロゴスを殺していることにはならない。共産主義だって事実上の倒産を起こす。そうするとやはり、耐えがたい侮蔑と嘲笑の目で眺められる。
不毛革命というのも、その覇権はどうあれ、ロゴスとしての致命的な異論を内在したまま成り立っている。何のことはない、
「大切なものがある人だけ話してもらえますか」
「大切なものがない人は発言しないでください」
「われわれは大切なものの成就に向けてのみ互いに話すのですから」
このように言われるとアミヨには発言する方法がない。
ひとつのトリックを先につぶしておくと、
「地球環境を守り、恵まれない子供たちを援助し、差別をなくしていかなくては」
「アミヨさん、あなたは発言しないでください」
「どうしてですか? 地球環境を守ること、恵まれない子供たちを援助すること、差別をなくしていくことは、どれも大切なことのはずです」
「そのとおりです。が、あなたはその大切なことの中に、『大切なもの』があるということが直接わからない人です。聞きかじった、大切だと言われているもの、そのように触れ込まれているものを、あなたは振り回しているにすぎません。あなたはあなたの大切なものについて語れないのです。あなたには大切なものがないのですから。大切なものを抱えてしまい、それを抱えたまま生きていくという、その機能と現象じたいを持たず生きてきたのですから」
「わたしは有名人になりたいです。みんなを励まして元気をあげられる人になりたい」
「それはあなたの願望であって、『大切なもの』ではありません」
アミヨにマークシート問題を与え、次のような問いを課したらどうなるか。
「汚染されていない川、その清流は、資源としても自然の美としても、大切なものとして保護されなくてはならない(Yes/No)」
アミヨはYesを解答してその正答を誇るだろう。けれども、アミヨにとってたとえ目の前に置かれた清流であっても、それは直接「大切なもの」ではない。アミヨには、無念なことに、何かが「大切なもの」になるという機能と現象じたいがないのだ。その清流に、食べ残しのカップラーメンを流し捨てるべきではないということはアミヨにもわかる。しかし、その清流の前に立ちはだかり、
「こんなきれいなものに、汚水を捨てるなや」
と思わず声を大にしてしまう、思わず清流を――「大切なもの」を――守ってしまう、という現象はアミヨにはない。
「大切なもの」についての情報をどれだけ与えても、それがアミヨ当人にとって直接の「大切なもの」にはならない。
アミヨに出来ることは、カップラーメンの食べ残しを流し捨てる輩について、
「生きる価値なくない?」
と、彼らの「不毛」を拡散に向けて言うことのみ。
アミヨには「大切なもの」がないのだ。「大切なもの」という機能と現象じたいがない。アミヨには「不毛」という機能と現象じたいがある。
だから、どこまで行ってもアミヨにとって清流は存在していない。アミヨにとって存在しているのはカップラーメンの食べ残しの汚水および、それを清流に捨てる汚らしい者たちだけだ。アミヨの視界には「不毛」のみが存在する。
アミヨたちの醸成するネット世論は、どのように正義をかざしても、ついに人々を清流へ誘うことはないのだ。アミヨたちに「大切なもの」はないのだから、人々を大切なもののところへ誘うということは起こらない。
アミヨたちのどのような正義も、必ず人々を「不毛」に誘うのみ。
アミヨたちの世の中において、確かに人は、
・清流に汚水を捨てる人
・清流に汚水は捨てない人
の二種類に分かれるのかもしれない。
けれども、人がそのような視点で分類されるのみということじたいが「不毛」ということだ。
アミヨは、清流にカップラーメンの食べ残しの汚水を流し捨てる人を「拡散」することしかできない。
清流じたいを「大切なもの」として拡散することはできない。
もしそれが真に「大切なもの」であったとしたら、彼の時間は<<清流そのものに向けて費やされて>>しまい、それを「拡散する」というようなことへ費やす余力はなくなってしまう。
「大切なもの」がないからこそ、彼は「拡散の担い手」をやっていると言える。
わたしは実際の清流についても、わたしにとって大切なものといえる、場所と光景をいくつか持っている。それについて、むろん拡散しようとはわたしはまったく思わない。ただいつでもその清流のところに立ちたい・立っていたいと思う。わたしはそうした「大切なもの」についてのみ話すだろう。
アミヨには「大切なもの」がないので、「大切なもの」について話すということはできない。
アミヨに出来ることは唯一、たとえばわたしが「大切なもの」について話したところで、
「くっさwww」
とわたしのすべてを「不毛」たらしめようとはたらきかけることのみだ。
それは彼らにとって成された宿願たる革命の果実なので、彼らは今さらそれを引き取ることはできない。
彼らに出来ることは、清流にアイドル業の女を立たせ、その演出された写真につき、
「かわいい」
「エロい」
といって神経を惰弱化することだけだ。その不毛に耽るということしか彼らにはできない。
あるいは、
[カップラーメンの食べ残しを捨てるな、禁止]
というギトギトの立札を清流の真ん中におっ立てることだけが彼らに出来る。そうして清流そのものがアミヨによって不毛の光景に塗り替えられる。
彼らはこうして、どのように正義に努めて立ち回っても、すべてを「不毛」に塗り替えていくのみとなる。
「大切なもの」のすべてを "問わずに根絶やしにする" ことが彼らの拠って立つところなのだから、彼らの一挙手一投足は「大切なもの」を破壊するためにのみはたらく。
アミヨたちは今、むしろ自分自身で驚いているのだ。自分の意思によらず、もはや根差された「体質」の表れのように、自分のあらゆる振る舞いが「大切なもの」を否定・破壊することに驚いている。「大切なもの」を否定・破壊 "しよう" としているのではなく、まるで水に濡れた手で半導体製品に触れてまわることのように、それを破壊するつもりがなくても、さらには愛でようとさえしてそれに触れたときでも、触れたそれは破壊されてしまうのだ。吸血鬼の伝説に、吸血鬼がバラの花を持つとそのバラはたちまち枯れてしまうというエピソードがあるが、このとき吸血鬼はそのバラを枯らそうと思っているのではない。ただバラは枯れてしまうということだ。
「399」のことを考えよう。399 は相対的なこころによって、不毛革命以降の世の中を自分のこころに照り返す者となった。自らそのこころを獲得したわけでもなければ、自らそのこころを選んだわけでもない。けれども自分のこころはそうして、同じようにことごとくバラを枯らせるためにはたらくものになった。399 は特に自分が不毛革命の戦士になったわけではないので、革命前と革命後とで自分にどのような変化があったかに鈍感だ。399 はしばしば楽観的に、自分の手が「大切なもの」に触れられるということ、「大切なもの」を構築してゆけるということを今も信じている。そして実際に「大切なもの」を目の前にすることがあると、それに触れた途端「あれっ?」と、自分がそれを台無しに破壊するということに驚き、即座に「いやいやいや、そういうつもりじゃなくて」と、お茶を濁す自分の見苦しい声にも驚く。
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