さよならアミヨさん、ネット輿論に別れを告げるときがきた
整理2
理解の一助のため、ここで次のことを整理しよう。ここまでの話に登場人物は三者あり、
A.絶対的なこころの者
B.相対的なこころの者
C.アミヨ
となっている。この三者は同時に、
A.「大切なもの」に属する者
B.「399」の者
C.「不毛」に属する者
という三者だということを改めて明示しよう。
仮にあなたがBの者だった場合、あなたはAとCに挟まれているという状態にある。そして革命前、Aが権勢を得ているときは、BたるあなたはAに属していた。そして革命後、Cが勝ったことで、BたるあなたはCに属することになった。まるで、Bに属するあなたは「民」であって、その国主がAになればAに属する民、国主がCになればCに属する民となるかのごとくだ。
「大切なもの」と「不毛」とが、相克して戦争するというのはそれぞれ対立する概念のものだからわかりやすい。だがこれが「絶対的なこころの者」と「アミヨ」の相克だと捉えると、われわれはそのことを明視しづらくなる。
そこでC.アミヨを、「大切なもの」に引き当てて次のように書き換えると、話はわかりやすくなる。
A.絶対的にこころがある者
B.(省略)
C.絶対的にこころが無い者
何かしらの理由によって、C.は「こころ」というその機能と現象そのものを与えられなかった。その理由が何だったのかは、わたしの側から差出口するものではないし、それこそ言い出せば「不毛」なことなので、本稿ではそのことを追究はしない。ただ、もし人工知能が破壊工作としてネット世論を作り出しているのだとすると、それは冗談話のオチのように、「そりゃあ絶対的に、こころが無いわけだよ」ということで整合はする。
こころが「ある」のか「無い」のかという、最も単純化した分類で示すなら、ABCは次のとおりになる。
A.ある
B.ある
C.無い
あなたが 399 、「民」のごときBだったとして、現在あなたの国主はCだが、その国主について「Cのこころはどうなっているだろう」ということの問題ではないのだ。Bたるあなたにはこころがあるが、Cたるアミヨにはこころがない。だから国主Cがあなたの相対的なこころに照り返したとして、そこには何も映っておらず真っ暗なのだ。Cの "思し召し" (おぼしめし)はいつでも苛烈にあるが、それがあなたのこころに映りこんだとき、あなたのこころは真っ暗になる。それはそうだろう、仮に人工知能の思し召しをスクリーンに映し出せば、その思し召しはたわいない人より苛烈だろうが、その人工知能の「こころ」をスクリーンに映し出せば、スクリーンには何も映らず真っ暗になる。
こうして、苛烈で際限のない、大量の思し召しに対し、「こころ」はそれじたい存在していないという状態、このことを体験と感覚から一語で言うと「不毛」なのだ。大量の思し召しを大量の「苗」と捉えたとして、その苗をどこに植えるか、植えるべき地そのものがなく、すべては穴に吸い込まれていくだけ。大量の苗はそれだけを見るとあたかも実り多き沃野を志向しているように見えるが、それを植えて実らせるべきこころなどどこにもないのだ。
わたしはあなたが、たとえささやかな苗でもこころに植えて、ささやかにでもこころに何かを実らせようとすること、その営為と収穫には「大切なもの」があると思う。大小やレベルの高低に関わらず、そこには「大切なもの」があると思うのだ。
アミヨはその「大切なもの」がありうるということじたいを憎んでいる。
あなたを四方から監視し、支配しているネット世論というものが、本当にはどういうものか、あなたにも視え始めただろうか。不毛の「かわいい」「エロい」であなたを慰めて懐柔しているネット世論が、本当にはあなたをどうしようと企んでいるか、あなたにも視え始めただろうか。
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