さよならアミヨさん、ネット輿論に別れを告げるときがきた
絶対的なこころとは、また「大切なもの」とは
いまからここに、まったくわけのわからないことを書き話す。全体の構成として必要なことなのでやむをえず書き話すという具合だが、このことは本稿の把握じたいには必要なことではないので読み飛ばしてもかまわない。また、どうせ精密に理解するのはとうてい不可能というようなことを書くので、その書きようも相応して投げやりなものに留めておく。この部分を精密に書き話そうとすると、この部分が本稿の全体よりもはるかに大きくなってしまうので、手短に、「何のことやらさっぱりわからない」という前提で殴り書きする。それでもこの段は全体の構成として入れないわけにいかないところなのだ。
絶対的なこころは、絶対的な「思い」などではない。絶対的なこころとは何かというと、「魂」に百パーセント向かっているこころだということになる。こころはわれわれにとって「現在」のものだが、「魂」はどうも時間軸上で「未来」にあるようだ。それは 0.3 秒後の未来でもあるし、同時に三年後の、三十年後の、あるいはさらに果てなき未来でもある。そもそも魂には時間という尺度じたいが存在していないので、それはいかなる過去でもいかなる未来でもかまわずにはたらくものだ。さしあたりわれわれは、多く未来に向かうことを考えるはずなので、ここでは魂のはたらきを「未来に触れる」という点で捉えておく。
われわれのこころは、古い言い方でいえば気魄であって、より正しくは気魄という全身の機能の中心、そのセンターのありようを「こころ」と呼んでいる。「心」はそれじたい中心・重心の意味を持つからだ。気魄のセンターとしては単純に心臓と思ってもらってもだいたい間違っていない。
そして気魄はそのセンターから末端に向かって「出て」いるのだが、魂は反対の向き、身体の先端から中央へ「入って」きている。このとき魂の "入ってくる" 身体のセンターは横隔膜にあるらしい。魂は身体の各先端から「入って」きているのだが、特にその先端は「指先」においてはたらきが大のようだ。そして魂は時間軸上で未来にあるので、指先は「未来に触れている」ということになる。ただしこのことは、概念としてはそうであっても、全身がそこまで何の呪縛・滞りもなく解放されていて、かつ中央と末端とで膨大な出入りを起こしてもそれを余裕をもって受け止めきれて損傷しないだけ魂魄が鍛えられて育っているということが前提条件なので、まずそのような全身と精神の状態に至っていると想定することは非現実的だ。
ともあれ、現在と未来のことを考える。われわれは「現在」を押し出していってそれを未来に到達させるふうに一般的に思い込んでいるが、現在を押して進めたとき、それがどこまで行こうとも、そこまで行ったときにはすでに「現在」なのであって、未来に触れて未来に向かっていることにはならない。つまり現在たるこころを押し出したとてこころを未来に向かわせることはできない。こころを未来に向かわせるにはどうすればいいか。唯一、魂が先に未来にあるので、その魂にこころを百パーセント向かわせること、これによってこころは「直接未来に向かう」ということができる。このときこころは相対的なものでなくなり絶対的なこころとなる。なぜ絶対的なこころになるか。それは、こころが現在にありながらすでに未来に触れて百パーセント向かってしまっている以上、こころは現在のものと相対化しえないということだ。企業に内定をもらった就職活動生が、その企業に就職しようと百パーセント向かってしまったら、彼は就活生でありながらすでに就職活動のうちになく、ほかの現在の就職活動生たちと相対化しえないだろう。このとき彼の就職活動は絶対化されたということになる。それと同じように、先に未来にある魂に触れてそこにこころが百パーセント向かうとき、そのこころは「絶対的なこころ」となる。
そしてこのとき、彼のこころは当たり前に「生きて」いるのだが、ただ生きているというだけでなく、未来の魂から「命」を受けることになる。彼のこころは生きながらにして命を得るのだ。
いちおう最後まで話しきるならこうなる。では「大切なもの」とは何か。「大切なもの」とは、こころが百パーセント向かう先のもの、ということになる。こころが百パーセント立ち止まるものではなく、百パーセント "向かう" 先のものだ。その百パーセント向かう先が魂であって、魂は未来にあるのだから、その未来にある魂はそもそもどこに向かっているのだろうということになる。0.3 秒後であれ三十年後であれ、あるいはさらに果てなき未来であれ、魂はどこへ向かっているのか。
魂をどこに向かわせるかということを、現在のわれわれが決定することはできない。魂は未来にあるのだから、それは先に決まってしまっている。魂より遅れてあるわれわれのこころが、魂に先んじてその行先を決めたり選んだりすることはできない。われわれのこころより未来に先行している魂がどこに向かっているのかはわれわれは知りようがない。魂がどこに向かっているのか、現在のこころたるわれわれは「わからない」と答えるしかない。ただ、魂がどこに向かっているのかはわからないが、その魂にこころを百パーセント向かわせるとき、魂から「命」を与えられるので、その体感をそのまま言うと、魂は「大切なもの」のところへ向かっていると言わざるをえない、ということになる。「大切なもの」が何なのかはわからない。ただ、それが「大切なもの」だということだけが、現在のこころたるわれわれには感得されるということだ。
このように、どう書き話してもこのことは「ちんぷんかんぷんだ」ということになる。それでもこの段は必要だ。このことはあまりにちんぷんかんぷんが過ぎるので、深入りしなくても使えるよう、本稿での表現は「絶対的なこころ」「大切なもの」とした。本稿はネット世論に別れを告げるためのものなので、魂だの命だののことはここで詳しく知り抜く必要はない。
←前へ 次へ→