ムン
身体と「かわいい」について
身体は「しんたい」とも読むし「からだ」とも読む。身と体はほとんど同じ意味のように思われているし、国語の試験ではそのように解答するべきだが、実際の使用を見てみるとやはり字が異なるぶんだけ意味も異なる。魚の切り身のことを切り体とは言わないし、体育のことを身育とは言わない。体調のことを身調とは言わないし、身勝手なことを体勝手とも言わない、解体作業のことを解身作業とも言わない。
体、もともとは「體」の字は、「生きもの、あるいはそれになぞらえるべき有機的なつながりのもの」の象を指している。たとえば「ディズニーランドの全体図」というときに「体」の字が当てはめられているが、アドベンチャーランドとトゥモローランドを分離してしまってはディズニーランドにならないので、それらの有機的なつながりが一体になっているということを指して「全体」という言いようが当てはまっている。
われわれの踵から頭頂部までの長さを「身長」と言うが、動物全般では尻から頭頂までの長さを「体長」と言う。それはわれわれが霊長類ヒトとして起立した特別な存在だと信じようとする思想から生じていて、つまり他の動物はより生々しく「生きもの」だから、その長さを言うには身長ではなく体長の字を当てはめるべきだと感じられている。われわれだって他の生きものと同様、体で生きていることは事実ではあるにせよ、文化を持たない獣のごとくにただ有機的なタンパク質・臓器の連携で生を為しているものとは考えたくないというわけだ。
霊長類ヒトの体長をわざわざ身長というように、「身」のほうは、肉に具わるか宿るかしている、霊なるものを捉えてそれを「身」と呼んでいる。よって、身分や身内などの、物理的な観測ができないものに関わっても「身」という字を当てはめている。一尾の魚ははじめ「全体」をもっているが、それをただバラバラにしたならばその作業は「解体」だろう。けれどもわれわれはその解体しただけの生々しいものを自分たちの食事にはしたくない。「解体した魚肉を摂食している」のではない。われわれの食事に供するものは霊なるものであってほしいから、料理として捌いたそれは魚の「切り身」となるわけだ。
「身」はそのように霊魂を信じてのものだから表現の定義がしづらい。その定義のしづらさはつまり、身というのはその意味じたいが「具体的」の反対にあるからだと言いうるわけだ。身の程を知れとか人の身になって考えろとか、「身」ということにかかわっては常に "具体性に反する" のがとうぜんの仕組み。
体は生きものの象であるから、それが死んだときに「死体」と呼ぶのは当然かつわかりやすいこと。これが「身」ということになると、身は霊魂と肉のものだから、それじたいに死はなくなる。よって死体のそれを「死身」とは呼ばない。代わりに死なない者を仮想するならその者のことを「不死身」とは言いうる。われわれは病院に行って「体の調子が悪いのです」とは相談しうるが、「身の調子が悪いのです」とは相談できない。身の調子が悪いのなら、神社に行って先祖供養でもすればどうかねといなされてしまうだろう。
女性のカラダがかわいいというとき、このカラダにはやはり「体」が当てはまる。女性の身がかわいいという描写はいかにも聞き慣れず無理があるだろう。「体」についてはこのとおりだが、ではここで言う「かわいい」とはどういうことだろうか。体は「生きもの」で、それが「かわいい」ということにはどのようなつながりがあるか。
「かわいい」といえば、たとえば典型的に子猫の象とその無邪気な挙動が当てはまる。ニーニー鳴く声や、母猫の乳房に吸いつこうとするときのひたむきさ、何に対しても好奇心から真ん丸な瞳を向け、無限に遊び続けるかと思いきやどこででも突然眠るというありさま。これらのすべてを見て多くの人は無性に「かわいい」と感じるのだが、このことは、まだ生きものとしてか弱い子猫が、生きるために強者のバックアップを必要としていて、そのバックアップを要請するシグナルとして発していると捉えてよい。じっさい腹を空かせているらしい野良の子猫に道端でニーニーと鳴きつかれたら、その子猫が生きようとするシグナル、生きるために庇護・バックアップをくださいと要請するシグナルをそうそうは無視できないという人が多いだろう。そのシグナルに強く反応する仕組みは、われわれの生きものとしての体にいわゆる本能として具えられている。
「かわいい」とはこのように、生きものとして強者にバックアップを乞う発信とその受信のことを言う。だから、あくまでその「かわいい」が成功している場合に限るけれども、「かわいい」と感じられるものに対して人は「死ね」という声を向けない。自分がかわいくないという劣等感の者から嫉妬として「死ね」を向ける場合はあるが、その場合はあくまで「こんなのぜんぜんかわいくない、死ね」という文脈になっているはずだ。「かわいい」と感じられているのであればそれに「死ね」という声は向けない。「かわいい」とそれが感じられるということは、どうかそれが健やかに生きるようにと願ってやまない協力的な状態になっているはず。いつまでも元気で、どこかうっかりしているおじいちゃんは、周りの者にとって「かわいい」と感じられる可能性があるが、病床についてすでに生命維持装置がつながれている昏睡状態のおじいちゃんを見て「かわいい」と感じる可能性は低い。「かわいい」というのはさしあたって "生へ上昇しようとしているように見える" 者に関わって受発信される本能へのシグナルだ。このことの本質的な説明はさらにむつかしくなるが、その説明が可能になるのは今回の話のずっと後のほうになる。
現代は生死軸の時代だ。誰の足許にも死があり、生きることに向かうことが上昇だと共有されている。この中で、「かわいい」は生きることに強者のバックアップを要請できるシグナルだから、「かわいい」ができる人は生死軸で上昇するのに大きな有利さを覚えているはず。もっと「かわいい」になれればもっと生に向けて上昇することができるし、あるいは自分が生きていくにはもうこの「かわいい」を拡大強化するしかない・または拡大強化するだけでよいと感じて考えている人も少なくないはずなのだ。
現代においては、極論すると「かわいいなら生きろ、かわいくないなら死ね」という声が満ちていると言える。またその声が、極論というよりはけっこう生々しい事実なのだと感じている人は多くあるだろう。何もアイドル活動をする人に限らず、就職活動をする人も、いわゆる婚活をする人も、「かわいい」のあるや否やという一点で、豊かに生きられることにもなるし、ひたすらの「死ね」をこうむることにもなるのだと、そう感じている実情があると思う。
現代は生死軸の時代だから、主題は生きものである「体」となる。その結果、「体を鍛えている」「ジムに通っている」「筋トレをしている」ということが上昇のひとつの王道になっている。体のかわいさということではけっきょく男性は若い女性に及ばないだろうけれど、それでも男性もいまや、体を鍛えてマッチョになり、旧来のマッチョイズムとは違って「かわいい」ということが単純に言ってウケている。体を鍛えていてマッチョなのにキャラクターや振る舞いが「かわいい」という形でウケている芸能人を、詳しい人であればただちに数人は思い浮かべることができるはずだ。現代はそうして男女にかかわらず「体・かわいい」の時代だと言うことができる。じっさいわれわれがウェブブラウザを開いたとき、飛び込んでくる画像はアニメーションであれ実写であれ、さらにはAIによる生成画像であれ、「体・かわいい」のそればっかりだ。
そして付け加えるならば、現代は身の時代ではないので、ここで男の身で・女の身でなどという文脈を持ちだすと、それじたいが攻撃を受ける。「身ひとつ」で何かを為し遂げようとする者などより、体・かわいいが強化されている者のほうが魂の価値観として圧倒的に賞賛され肯定されるというのがわれわれの――二〇二三年での――実情だ。ひいては単刀直入に申し上げれば現時点でわれわれの「身」のほうがしかるべき命に到達するという可能性は、数的に言えばほとんどゼロに等しい。
生死軸・生命軸の沙汰に入り込む前に、われわれはさしあたりわれわれの現在の事実について、ひとつのことに気づいておかなくてはならない。それは、「体・かわいい」の大ブームにおいて、生死軸の上昇にかかわって有利さと称賛は明らかなのだが、その「体・かわいい」の当人の内部には、下向きに「死ね」の声がどうしても発生してしまうということだ。むろんそのことをやたらに振り回すわけではない。どうしても振り回さざるを得ないときは、賢明に匿名か、いわゆる「裏垢」を作ってそれをウェブ上にこっそり吐き出すだろう。
「体・かわいい」の代表は、やはり女性のアイドルだと思われるが、代表的に彼女らの魂には、下向きに強烈な「死ね」の声が発生するということを知っておかなくてはならない。彼女らはそれを表沙汰にはなるべくしないが、仕組み上その声は内部で巨大なものにならざるを得ないということだ。自分が受けている「体・かわいい」によるリフトフォースの大なるぶんだけ、隠し持った「死ね」のダウンフォースも強くならざるを得ない。
(そのことはじっさいもっと巧妙な仕組みで隠蔽あるいは逆転されているのだが、その詳細はまた後段に語られる)
「かわいい」を売りにする、そうした稼業に取り組んだことのある人は、あえて自白する必要はないと思うけれど、内部に下向きの「死ね」が膨大に発生するということにこころあたりがあるはずで、そのこころあたりについては整理しておいてよいと思うのだ。知らないうちに内部をむしばまれきられないうちに。
生死軸の時代の中で、素直に魂の上昇を求めた人は、どのように操縦桿を工夫しても、けっきょくのところ現代の主流たる「体・かわいい」に吸い込まれていったはず。そして「体・かわいい」に接近していって、この時代での実力と頭角を現しだしたころ、自分の内部に圧倒的な「死ね」の声が、けたたましさの笑いを伴って下方向に噴出し始めた、そういうことがあったはずだ。あるいはいまこのとき、その真っ最中にあるという人もあるかもしれない。二〇二三年の六月現在、まだウェブ上で歌曲「可愛くてごめん」が流行している状態にあるが、この歌曲が要するに「死ね」の声を発しているのは誰の直観にも明らか。この歌曲は単に制作者個人の悪趣味として発生したというわけではなく(個人の悪趣味であったら全体に流行はしないはずだ)、時代に鳴り響いている隠された声・表沙汰にするわけにいかない声を顕在化させたものと言い得よう。つまりこれが本当に時代の歌なのだ。可愛くてごめん、わたしはこの時代に上昇しちゃうけど、あなたは下降しちゃうのよね、ざまあ、と。
こころあたりを点検しておく必要がある。たとえば「ジムに通って」「体を鍛えている」場合、それが使命を果たすための兵士のトレーニングというようなことではなく、生死軸の現代で上昇しようとする意図のものだった場合、そのトレーニングのたび、筋肉をたぎらせるいちいちに、内心での「死ね」がはたらいていることがあるのだ。わかりやすさのために陳腐な言い方をするならば、つまり「死ねパワー」で筋力トレーニングをしている人が潜在的に少なくない。それは仕組み上そうなるのだ、生死軸において自分が自分にリフトフォースを大きく与えるということは、逆方向に「死ね」のダウンフォースを強くするということなのだから。
われわれは、表立ってじっさいの交際においては、人に向けてそのような「死ね」の声を明らかにはしない。だが時代全体にその潜在した声が大音量で鳴り響いているのはすでにわれわれの首肯するところの事実だ。
表沙汰にはしない「死ねパワー」で筋力トレーニングをする人もあれば、同じ「死ねパワー」でメイクや服装を整える女性もいる。アイドルじみたパフォーマンスをする人もいるし、いわゆるインフルエンサーとしての活動をする人もいるだろう。「可愛くてごめん」と歌い踊る人もいる。若い人々は、そうは言っても自分がそのような「死ね」の声を鳴り響かせる当事者とは信じたくはなく、自分は本質的に清楚でやさしく、平和に聖なるものに貢献する存在のはずだと思っているだろう。
ところが自分の内部から出てくる声が、そうではない、じっさいに「死ね」の嫌味と汚らしさを帯びたものになってくる。あるとき、自分で出した声にびっくりして、思わず自分の口に手を当てて、よくわからない笑顔の表情を示してごまかすというようなことがじっさいに起こりうる。またあるとき、ふと街中の鏡に映る自分を見て、「これ誰?」とその蝋人形のような顔にギョッとするということがじっさいにある。
このとき、まさか魂の上昇に向かっている自分が、その反面で「死ね」の声を養育しているなどとは考えようもないものだから、人は漠然と「自分の中に毒素が溜まっている」「どこかから毒をもらっちゃった、あるいは悪霊をもらっちゃったかな?」というように考えがちだ。つまり他人のせいや環境のせいと考える。そして発想はいわゆるデトックスや浄化というほうへ傾く。そこでデトックスや浄化らしきことをしていくと……確かにそれなりにすっきりして、「憑き物が落ちたよう」とも感じられるから厄介だ。その毒素の主はすでにあなたの内に棲んでいるのだから、浄化によって清掃されたあなたの内部において、毒素の主は「これは快適だ」といわんばかりに、さらに広く根を張り巡らせることになる。毒草のために花壇の雑草を引き抜いてやり、肥やしを与えて畝(うね)まで整えてやったようなものだ。
一方で、現代の王道である「体・かわいい」から脱落した者について考えてみよう。そちらの者は、「死ね」の声が、自分の下方に向けて出るというのではなく、自分の上方から押し付けられてくるように感じられるはずだ。かわいいなら絶賛で「生きろ」と言ってもらえるが、かわいくないなら憐憫と共に「死んだほうがよくない?」と笑われるのが現代。
どれだけ精一杯「かわいい自分」になろうとして、その気になりきって眠ってみても、翌朝目覚めたときには、どことなく四方から「死ね」と言われている気がする、そういう中で目覚めを迎える。そして自分はどこというあてもなく、上に向かって「生きたいよう、生かしてくださいよう」と懇願しているような心地になるのだ。いわゆる現代の陽キャ・陰キャというのも、表面的にはこのことで生成しているのかもしれない。自分が上にいて下方に「死ね」を言う側が陽キャ、自分が下にいて上方から「死ね」を言われるのが陰キャという単純な仕組み。単純な仕組みかつ、両者はまったく同一の軸上に存在している。陰キャも自分の立ち位置で我慢を強くしながら、裏側ではやはり陽キャから聞こえてくるものに対して「死ね」を反撃として発している。
主題は「死ね」の声だ。なぜなら生死軸はそもそも、本来は死に向かっているもので、それを反転させたものだから、生に向かって上昇しようという声はどこまでもウソっぽさを含まざるをえない。
「死ね」の声に押しつぶされる側のまま生きていくことは、あまりにもつらすぎ、しんどすぎ、とてもじゃないが安らかにやっていけるものではない。どこかで限界を迎え、人はこう考える、「何がなんでも、自分が死ねを言う側にならないと」。そうしてある意味、現代人は各個に死ねパワーに "覚醒" するという言い方もできる。
死ねパワーに覚醒した彼は、始終、どこに向けても基本的に「死ね」を向けることになる。そのとたん、彼は自分の一種の憂鬱が消し飛び、自己存在の問題がすべて根本的に解決したというほどにも感じるだろう。自分は魂の最上位にあり、よってすべてに向けて下向きに「死ね」を言う側だ。わたしにおいてすべての憂鬱は解決されている。わたしに向けて「死ね」を言う資格者は存在しない。よって、誰かが自分にそれを向けてきたとしても、そんなものは聞き取る価値がないのだ。いつも五月に聞こえてくる蠅の羽音にすぎない。それなのに、自分に向けられる声にいちいち動揺するというような人は、単に「メンタルが弱い」というだけだろう? 覚醒した彼はじっさい他人に向けてこうアドバイスする、「目を覚ましたほうがいいよ」。
覚醒済みの彼が、例外的に敗北を認めるのはどのようなときか。何に対して敗北を認めるか。それはやはり、突出した「体・かわいい」に対してだ。男性であれ女性であれ、とにかくそれが「かわいい」というときには、自分の敗北を認める。かわいい女の子、かわいい男の子、特にその強化とアピール技術に長けた者、それらは漠然とアイドル的な捉え方をされ、「生きる」ことのリフトフォース、そのシンボルや目標となる。そのかわいさにおいて、
「これほどまでに、生きろという声、リフトフォースを集める実力者がいるのだ」
そういう輝かしい――と錯覚される――目撃体験がされ、それに対する敗北と共に、自分もそうしてリフトフォースを受けるものになりたいものだという、生きる励みさえ見つけていく。そのことを指して現代のアイドル活動は、仕手側からは「みんなを元気にさせたい」という捉え方がされ、受け手側からは「元気をもらった」という捉え方がされる。そこでいわゆる「推し」や「担当」も出てくるわけだけれど、ここでアイドルたちがその「かわいい」のルールに反すると――つまり生きるのにか弱い者という立場を逸脱していることを暴露されると――これまでのリフトフォースは一気にダウンフォースに転じ、ファンたちからは一斉に「死ね」の声が向けられる。あるいはそうした逸脱をしなくても、加齢やトレーニングの不足、アピールの消沈などによって「かわいい」を失ったときには、すでにまったくリフトフォースを受けないものとしていわゆる「オワコン」の扱いをされる。
こうした仕組みの中で、もし、機械的にこの「体・かわいい」の実現者になろうとした場合、どのような手続きを踏めばいいだろうか。もちろんそのことを推奨しているわけではなく、その手続きを理論的に抽出できたときに、われわれが現代に目撃しているものの真相が浮かび上がってくるだろうということ。「体・かわいい」という、生きもの、かつ生きるのにか弱いから強者のバックアップを要請するシグナルを発信するということは、じっさい生きものそのままである子猫においては自然発生することだ。一方で、それを自然発生でなく意図的に発生させるというのはどういうことなのだろうか。いわゆる「かわいいは作れる」という標語がコマーシャルメッセージとして知られてあるが、その割にはそのことがあまりうまくいかないという人だって少なくないのでもある。だから安易にそれが「作れる」とも言い難い。
本当にその「体・かわいい」をずば抜けて実現している人はどのようなことをしているのだろうか。
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