ムン
「かわいい」は我慢で作られる
生死軸においては、上昇が生、下降が死だ。下向きには「死ね」の声が生じるが、上向きに生じるものにはどのような趣きが起こるだろう。それは驕慢と言ってよい。生といってこの場合生きるのはとうぜん自分なのだから、上向きに生じるのは「わたしの生」、自分の生を最上に奉るということから、それは吾我の驕慢といってよいものになる。下向きに他者への死ね、上向きに吾我の驕慢が生じること、このことを総じて「我慢」と呼んでよい。つまり生死軸は同時に「我慢軸」だと言ってよい。
辞書に書かれているとおり、我慢はもともと仏教用語であって、本来は「忍耐」の意味を持っていない。称えるべき忍耐心や辛抱のことを「我慢」というのは単に誤用であって、ここでいう「吾我の驕慢」のほうが我慢という語の正しい意味になる。親が子供に対して「ガマンしなさい!」と言っているのは、じっさい「吾我の驕慢をしなさい!」と言っているわけなのだ。これは言いがかりでも何でもない。われわれが「我慢」の本義、吾我の驕慢というメカニズムを知らなさすぎるだけだ。親御さんが子供に「ガマンしなさい!」と言いつけ、その結果「よく我慢しましたね、偉いですよ」と褒めるのであれば、じっさいその子供は他者よりも自分がそのぶん偉いのだと自己の地位認定を調整するだろう。
節度の面から気が引けてならないけれども、わかりやすさの代表として、また一般によく知られた姿のものとして、アイドル活動をしている女性の例を示したい。そして、あなた自身がそうした女性の立場にあったとして、あなたの気分が最悪になりそうなイベントを考えよう。あなたは、いわゆるキモオタが行列を為して、あなたと握手をしにくるということを、人気稼業のプロがするそれとしては別に、具体的なこととしては喜ばないだろうし、ファンの彼らが異様な接近や、馴れ馴れしさを向けて来ることには、率直にいって嫌悪感あるいは抵抗感を覚えるだろう。そのときあなたはどうしなくてはならないか。一般に言われるところをそのまま言うと、あなたは「我慢」しなくてはならない。
一方、あなたは裏側では、不気味で精神的に歪んだプロデューサーに対して、気に入られるための御機嫌取りをしなくてはならないかもしれないし、ライバルとの兼ね合いによっては、やむをえず性接待をみずから仕掛けていくことをしなくてはならないかもしれない。またかわるがわる、スポンサーとの宴会に呼び出され、そこでやはり野放図なセクハラを受けたり、枕営業の誘いを受けなくてはならなかったりするかもしれない。
一般にはそれらは汚らしいことで、尊厳の汚辱される、苦痛に満ちたことだ。ふつうそれを「我慢する」となったら、その我慢によって人は消耗していきそうなもの。ところがここで言う我慢ということについて、一般的な感覚のそれではない、限度の向こう側、一般には知られていない仕組みのところまで到達するということがありうる。つまり、極端な我慢、極点を超えた我慢がありうる。周囲の何もかもに対して天地をつんざくような「死ね」の声を内部で破裂させていながら、表面的にはまったく逆に、無垢によろこぶ聖女のように、清らかに愛らしくニッコリ笑ってみせるということがあるのだ。我慢の極限を超えたことだが、あえてそのことを自らで選ぶ。このとき仕組み上、「死ね」の声が極大化するのに合わせて、逆側の、生への上昇も極大化する。このアイドルの女性は「かわいい」で生きていくことを選んでいるので、その「かわいい」も極大化する。ここで、その「かわいい」は素人のそれとは違うものになるわけだ。果てしない「かわいい」は、無限の「死ね」と共に双極的に発生していると言っていい。生きていくための "武器" があったとして、それは武器なのだから、内部の「死ね」が最大化したときに、最も鋭利な切れ味を具えるのではないか? ニコッ!
単純な話、たとえばわれわれは、アイドル業の女性が、すぐれて美麗で経済的にも優秀な、屈託のない洗練された男性たちの前で、ソファにくつろいで談笑しているところを見ても、それを「かわいい」とは思わないではないか。その逆、多くの女性から見てきっと近づきたくもないと感じられるような不作法な男性たちに向けて、ファンだからといって全力で愛嬌をふりまく、そして親しげに握手をしてグッとその笑顔を近くに寄せる、その行為を見て人々は彼女を「かわいい」と感じ、一部には「天使かな」というような言い方もするではないか。
人工的な「かわいい」は、その我慢ぶりが「かわいい」のだ。ただしそこで我慢ぶりが漏れ出ているようでは不完全で、内部に起こっている下向きの「死ね」の声は完全に裏側に隠しきられていなくてはならない。完全に隠しきられて、無垢な聖女のような親しさとほほえみを見せる。そのとき彼女の「かわいい」が本当に作られる。このとき彼女が「かわいい」ということは一般に疑いないが、知られていないのは、その内部では激烈な「死ね」が天地を引き裂くほどに叫ばれているということだ。自分に対するリフトフォースの「かわいい」と、周囲に対するダウンフォースの「死ね」が真実であって、他者に向けられている愛は存在していない。厳密に、それはただ人工的に「かわいい」のであって、愛なる現象はまったくない。
われわれはここで愛を誤解しているのだ。誤解ないしは錯覚が生じていると言っていい。われわれは子猫が「かわいい」のを見て、それを死ねと思うことはまったくなく、ごはんを欲しがって鳴くのであれば、なんとかそれを健やかに生かしてやりたいと思って空腹の当事者以上に焦りさえ覚えるもの。そうして「かわいい」に対しては「生きさせよう」とはたらくものだから、人工的な「かわいい」に対してもわれわれはそれを「生きさせよう」とはたらく。ここで、子猫に対するそれは、われわれの生そのものへ対する愛かもしれず、あるいはより上位の何かがわれわれにそうして生きとし生けるものの生をなるべくまっとうさせよと慈愛の命令をしているのかもしれないが、それは自然発生のもので、人工的なそれは仕組みが異なるのだ。われわれに対してバックアップを要請する子猫はこちらに何の思念も向けていないが、アイドル女性の場合はこちらに「死ね」の強烈な思念を向けてきている。われわれがアイドル女性を子猫ちゃんと思い込むのはどう考えても誤りだ。彼女らは事実、子猫ではないのだから。
彼女らは子猫ではないのだとすると、彼女らは何なのか、そこで彼女らは「我慢」だと言えばよい。奇妙な言いようだが仕組みがわかりやすく受け取られよう。われわれは「我慢のかわいさ」を見ているのだ。それで、親が幼子に言うように「がんばったね、偉かったね」と言いたがっている。我慢のかわいさ、このことはホステス業の女性たちもよく知っていよう。彼女らはよろこびと共に酔客の相手をしているのではない。しばしばまったくの逆で、酔客に対する「死ね」の声と共にその相手をしている。ホステス業の人たちが、その業態とは裏腹に、男性不信、男性に対する根本的な嫌悪があってその業務をしているということは、そちらの方面の人には昔からよく知られたことだろう。ホステス業の本職が、その肢体とほほえみに妖しいほどの力を持つのは、極点を超えるほどの我慢に至り、天地を引き裂くほどの「死ね」の叫びに相応した生への上昇を体に得ているからなのだ。
現代人はこの仕組みの中を生きている。ここではわかりやすく、流行の「体・かわいい」の例を採ったが、その例を取り外しても、われわれは生死軸の中を生きているのだから、われわれはともかく我慢の中を生きているのだ。現代におけるわれわれは何なのかといえば、子猫ではない、われわれも「我慢」だと言っていい。その気配と実体はどのように現れてくるか、その我慢にはどんな音が鳴っているか。そのことが今回の話の中枢だ。
くれぐれも、わたしは忍耐を否定しているのではない。つらさや傷つく中にも平然と立って見せようという「忍耐」は、積み重ねられた鍛錬によって度量ごと得られてくるこころや魂の強さに他ならず、内部的にはヒステリックに生じている「我慢」とは性質がまったく異なる。
忍耐とはまったく異なる「我慢」というもの。それはどのようなものなのか。われわれはそれを知り抜くことで、自分たちの生きている時代と状況がどのようなものなのかを明瞭に視認することができるだろう。
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