ムン
ムン
われわれは今日も生きねばならない。ぜひ生きていこう。ここだけ急におれは生命軸の者に戻るけれど、お前のようなわけのわからんアホはとにかく生きるのだ、とりあえず生きるのだ。生死とかいって知ったかぶりしてんじゃねえよ。お前みたいなアホにとってどうしても命というのがわからんというのはよくよくわかっている、お前よりおれのほうがわかっている。わかった上で書き話しているのだ、おれの書き話しを読んでいる者に対しておれが死ねということは決してない。おれが死ねというのは、どうしてもおれの話を聞かず、どうしても自分の所属軸で物事を決定したい奴に対してだけだ。おれが彼に死ねと言っているのではなく、どうしてもその軸にしがみつくというならしょうがないからその軸にディープキスしたまんまゴールインしろと言っているだけだ。それはそいつの話であっておれの話じゃない。おれの話には生と命しかない。おれはアホのあなたに、生きることを、勧めているのではないのだ、生きろと命令しているのだ。死ぬならおれの話したことすべてを口頭で操れるようになってからだ。そうしたらあなたは寿命までどうやっても死ねないだろう、おれの話したことすべてを口頭で操るなんてあなたには一生かかっても無理だからだ。
われわれは生きねばならない。われわれが生きるというのは、月曜日に出社するということで、月曜日に出社するということは、話のわからない一方的な上司や、やりとりをしても噛み合わなくてしんどくなる同僚と業務時間を過ごすということだ。あるいは自宅にいても洗濯物を干すということや、ベッドから起き上がって先月から目標にしている資格試験の勉強をいよいよ少しでも進めることだ。鼻炎がひどくなって病院に薬をもらいにいかなくてはならないというとき、そのことを面倒くさがらない人はいない。われわれが生きるということには、愉しみもあるけれども、生々しさにおいてはあちこちがおっくうなものだ。それがまだ、つらいというほどではない場合、まだ自分は恵まれているほうだと思えるけれども、それにしてもベッドから起き上がるときにおっくうと感じたらそれはおっくうには違いない。
「まあでも、しょうがない、生きるっていうのはそういうことだから。きょうも一日がんばろう!」
われわれはなるべく前向きに考えたいと思っている。この場合の前向きというのは、「生」を肯定してそちらに向かう力を受けること。つまり自分自身にほどこすリフトフォースだ。このことを悪く言う人はいないだろうし、悪く言われる筋合いはもちろんない。
けれども、ここで急に冷ややかに、その前向きなものも小さなスケールにして観察してみれば、なるほどたしかに「我慢」をしていると言われたらそのとおりなのかもしれない。おっくうなのだから……おっくうだといって、すべてに背を向けて寝転び続けているわけにもいかない、だから前向きに、生へのリフトフォースを受けて、せめてさわやかに。けれどもそれらの総体についてつまり「我慢」じゃないかと言われたらそのことは否定しづらい。
なぜ我慢をしなくてはならないかというと、それがおっくうだからだ。おっくうでないことは我慢しなくていい。目の前にお茶請けのまんじゅうが置かれていて、それをつまみあげてほおばることに「我慢」は必要ない。目の前のまんじゅうを食べることにはリフトフォースもダウンフォースも必要ない。だが納期について取引先の数社に電話でプッシュをかけて回るのはおっくうだ、何かしらの力が要る。せっかくの晴れの日だからふとんを干そうということも、すんなりできる日もあれば、何かしらの力の追加が必要に感じられることもある。仕事の帰り道にトイレットペーパーを買う予定だったが、折悪しく雨が降り出したというとき、それでもなおドラッグストアに寄って、傘を差したままかさばる荷物を運んで帰るのだとするときは力が要る。
力が要る。おっくうなことに対する、リアルな力、気力のようなものが要る。こうしたとき、あなたは一度、今から説明するようなことを実験してみてもいいかもしれない。
たとえば手元のスマートフォンで、いまいち人気の出そうにない Youtuber や、長く表舞台には残りそうにないお笑い芸人の映像を観る。そして、その内容はどうでもいいので、ほとんどまともに視聴もせずに一方的に、
「うわー、サムいなあ、こういう人たちって自分で自分のことつまらないって、わからない人たちなのかな? そのくせ信者というか、取り巻きたちがついているのが一番気持ち悪い。こういうの、両方ともそろって死んだほうがよくない?」
と毒づいてみる。けっこう甲高い調子で。内心で毒づくだけで十分だろうし、発声までする必要はない。ましてそのような書きこみをウェブ上のどこかにすることはおすすめしない。いまはそうしたことが刑法や条例で処罰されるようにもなってきたし、処罰されなかったとしても人の魂としてやってよいことではない。
赤の他人の、自分とは無関係なことに毒づいたところで、帰り道にトイレットペーパーを買うことのおっくうさは変わらない。変わらないはずが、
「あー、めんどいけどしゃーない、トイレットペーパー買って帰るかあ」
と言いだす気力が湧いている。同じような甲高い調子で。
あるいはさらに、著名人のスキャンダルが、報道とは言えないような猟奇性で報道されているのを見て、
「人気商売なのにバカだねー、こんなのスポンサーから損害賠償請求されて何億にもなるのに。この先まともに街歩けないし、あんまりいびられすぎて、この人、マジで首くくっちゃうんじゃない? まあ、そういう商売だからしょうがなくて、自業自得なんだろうけどさ」
そのように他人を死へ追いやるふうへ言うと、やはり、
「ダルいけどトイレットペーパー買って帰ろ。そんで、荷物置いたらやっぱりジム行こ。しんどいけど、やっぱこんな若いうちから、生きるってことオリちゃだめだわ」
という気力が湧いている。
同じようなタイミングで、動画サイトで子猫の動画などを観る人もいるだろう。あるいは「推し」の動画チャンネルで、短い動画が新着で表示されていることがあれば、それをタップして視聴する人もいるはず。
するとそこには「かわいい」ものが映し出されるので、それに対して鼻息がふがふがし、
「よーし元気出た、癒されたわ」
と気力を得るということがあるはず。
あるいはその場合、動画のコメント欄に、
「笑。きょうの服とても似合っていますね、かわいくてすてきです。きょうも元気もらいました、ありがとう!」
と書きこみをする人もあるかもしれない。
われわれはこうしたことを(ほとんどの人においては「内心で」だが)、習慣的に、無自覚にしており、それについて自分が本質的にはどのようなことをやっているかを、あまり考えはしない。ましてここで書き話しているようなところにまで穿って解き明かそうなどとは考えないだろう。
われわれは何をやっているのか? 冷静に見ると、「おっくうさに我慢で対抗している」のだ。我慢から力を得て、おっくうさを乗り越えている。よくよく見ると、それは確かに忍耐ではない。忍耐と言えばただ無言でトイレットペーパーを買って帰りそうだが、ここでの例はそのような忍耐というやり方を採ってはいない。
おっくうなことは「我慢してやるしかないでしょ?」と甲高くいうとき、われわれはこの自分たちのしている「我慢」の仕組みを捉えられていない。
捉えられていないまま、習慣的に、その「我慢」にブーストをかけることをしているのだ。
ここで示した例の、カギカッコ内部の印象的なところを集めるとこのようになる。「うわー、サムいなあ」「死んだほうがよくない?」「あー、めんどいけどしゃーない」「人気商売なのにバカだねー」「若いうちから生きるってことオリちゃだめだわ」「笑。きょうの服とても似合っていますね」。これらの言いようにはいわゆる前向きなものも含まれているように見えるけれど、ふと気づくと、どれもこれも決して "低姿勢" とは言えないものになっているのではないだろうか。前向き・後ろ向きということではなく「腰高」ということがあって、その腰高な自分の高揚感から、トイレットペーパーを買って帰る気力を得ているのではないか。もし純粋に雨の中を "忍耐" してトイレットペーパーを買って帰るだけならそこに「高揚」は必要なく、腰高になることもまったくないはずなのに。
我慢というのは何かを耐えることをいうのではまったくない。我慢というのは、「かわいい」動画にサムアップ・ファボのボタンを押し、そのときに腰高な自分に高揚を得ること、および、見下すべきものを見つけてそこに「死ね」をあてがい、そのときに腰高な自分に高揚を得ることをいう。
女性ならきっと誰でもこころあたりのあることとして、新しい服やあたらしい髪型、あるいは肌の調子がよいときや、若さと体形が自分でも「かわいい」と思えるとき、鏡に映った自分からきっと上等な部類の「生きる気力」を得るだろう。その高揚があるかぎりは、どんなおっくうなことも乗り越えて、生きていけるという気がしているのではないだろうか。
そうして「かわいい」なり何なりで吾我の驕慢を得て、それでおっくうさを乗り越えていけるということを「我慢」と呼ぶ。それは忍耐とはまったく意味が違う。
もしこの「我慢」が得られなくて、おっくうさに対抗できなくなるとどうなるか。そのときは、もちろん本格的な意味ではないにせよ、「はー、死にたい」というようなつぶやきが口をついて出ることがあるはず。リフトフォースが得られなくて下降に向かわされているということだ。生死軸においては誰でもその足下には死がある。その足下の死を見つめて、意味を持たせたものではないが「死にてー」というような言い方をわれわれはする。
われわれはおっくうさに直面したとき、あるいはその他、何であれ力が要る局面に立たされたとき、その力をこの「我慢」に頼る。我慢から力を持ってくる。甲高い調子、腰高な自分の高揚感から力を得るか、そうでなければ「はー、死にたいです」と冗談の言いようであれうつむく。気力が出ないんです、と。
その甲高い調子が出るとき、腰高が出るとき、あるいはうつむきが出るとき、体つきや体勢、呼吸の変化を伴って、肉体に「ムン」とした気配が出る。体内に流れている気魄か霊魂か、その様子が露骨に変化して「ムン」と、音が鳴ったかのように圧迫する何かが出る。これはつまり「我慢」が腰高に立ち上がったときの気配なのだが、このことを直接言い表すのには、その気配そのものの「ムン」の語を当てるのが一番よい。ムンは我慢の音であり、生死軸が唸る音だ。このごろは本当に生死軸の時代になりきったから、我慢の極点を超えたほどの人の「ムン」という音については、人々はむしろ「オーラがある」と称賛までする向きになっている。
日々、おっくうさを乗り越えなくてはならないとき、うつむいて死にたがってはいられないとき、あるいは不安に立ち向かわなくてはならないときや、自己実現や意識の高さを気取らねばならないとき、そうしたすべての力が要るときにわれわれは「ムン」を使う。腰高になる音、我慢の音、生死軸の唸る音。そのときわれわれの内部では下方に向けては「死ね」の声が響き始めている。
さまざまなことが複雑に絡み合っているように見えて、じつはわれわれの本質的な状態というのはひとつの軸と音で現わされるぐらいにシンプルだ。シンプルだからといって気楽だということにはならないにせよ、シンプルであればわれわれの思考の整理については一息つける。<<要するに、腰高になって自分に高揚しないと納得しないんでしょう>>。<<要するに、下方を設定して「死ね」と言わないと納得しないんでしょう>>。吾我の驕慢と、その音。甲高くなった調子。
ムンの人よ、恐怖と共に思考を単純化せよ。わたしが怖いことを言っているのではない。あなたが怖い人になったのだ。ここから大事なことは、あなたがその怖い人をやめることだ。
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