ムン
現代の新入社員は入社した時点で傷ついて我慢している
生死軸におけるダウンフォースは「死」だ。「死ね」、あるいはそこまででなくても、「死ぬべき」「死に追いやられる」という感触のものになる。そしてあなたは、せっかくがんばって生きている者として、死ねと言われる、死ぬべきと言われる、死に追いやられるというはたらきかけがとても悲しい。当たり前だ。誰もあなたに直接死ねとは言っていなくても、なぜか、そのように言われているような感じがする。少なくとも、魂がそちらのほうへ追いやられる。そのことはとても悲しい。
「傷つく」ということの正体はそれだ。死に追いやられる感触とそのことへの悲しみ、および、生を吸い取られる屈辱、その痛みと悲しさがなかなか消えない・なかなか癒えないことを指して、われわれは体感的に「傷つく」と言い充てるらしい。
よって、生死軸に所属しているものは、何であれダウンフォースを受ければ「傷つく」ということになるようだ。
先の段で、部活動を辞めるうんぬんを相談してきた女性がいた。いきさつを聞いて、なるべく真剣に考えて誠実に答えようとしたところ、どうしてもこちらからは「その件ではあなたに非がある」と言わざるを得ないことになった。道理としてはその話が正しかったかもしれず、その道理じたいは相談者の彼女にも理解できたのだ。少なくともじっさいの会話をしているそのときは。
けれども彼女は生死軸に所属していた。その件で自分に非があるということは、自分が悪いということであって、自分が悪いということは、自分が下にあるということだ。だから自分の側から頭を下げる必要があるということだった。自分から頭を下げて、自分を誰かの下に置くということは、ダウンフォースを受けるということ、またリフトフォースを捧げるということ。
生死軸の下風に立たねばならない。
すると、自分は死に追いやられる力を受けねばならないし、生へ高揚させる力を捧げなくてはならないことになる。そのことが悲しく、そのことが屈辱的だ。そのじっさいの痛みや悲しみが、なかなか消えずに残り続けるということが「傷つく」ということになり、このことは受容不可能となる。
それで「傷ついた文脈」は、道理はさておき、当人としてはどうしようもないこととして、次のような形で生じる。
「自分のほうが悪いのはわかっているけれど、どうしても、そちらから頭を下げてほしい。そうしたらわたしは生きられるから。本当にそれだけでいいの、だからお願い」
「わたしが悪いってことでいいから。お願い、上下関係だけは、わたしを上にして? そしたらわたし、いくらでも反省するから」
もちろんそれでは、こんどは自分が相手にダウンフォースをかけ、相手を死に追いやるはたらきかけをすることになるが、もう正直なところそこまで考える気持ちの余裕がない。とにかく、死に追いやられる感触の悲しさと、生を吸い取られる屈辱、その消えない痛みと悲しみで耐えがたくパニックなのだ。もしこのことが受け入れられないなら、殺意さえ覚える。道理がどうとか、本当はどうでもいいの。それどころじゃないって、とにかく傷ついたってことがわからない? 道理といえば、これだけ傷ついているわたしがまず救済されるのが道理であるはず。道理を逸脱しているのはそちらのほうでしょう!? ねえどうして、わたしを上にして、ただごめんねって言ってくれないの。わたしのほうが悪いって、そんなことわたしだってわかってるよ。でも、ただごめんねって、そう一言いってくれるだけで、わたしこんな死にそうな思いから抜け出せるんだよ? どうしてそう言ってくれないの。ねえ、いいかげんにして、どっちが傷ついているかっていう、そんな単純なことがどうしてわからないの!? そういう文脈になっていく。
先の相談のくだりを精密に見るならばこうなる。わたしと彼女がじっさいにやりとりをしているとき、彼女はわたしとの会話を理性で捉えることができた。なぜか? それは、彼女の目の前でわたしが生命軸に所属する者として存在しており、そのわたしからの影響づけが彼女にあったからだ。影響づけから彼女もそのとき、一時的ではあれ生命軸の中に立てた。生命軸の中に立てれば、命は理性をもたらす。理性は命のものだ。その理性が、わたしのそのとき話したこと、あなたに非があるからあなたから頭を下げるべきだということを、彼女に輝かしく理解させた。彼女の理性は、彼女自身の非を認めさせると同時に、彼女に「それがまともに生きるということです」ということも力強く教えたはず。生命軸におけるダウンフォースは「生」なのだから。
ところが帰宅してから彼女は、日没のごとく影響づけを失ってゆき、自分の所属たる生死軸に戻っていった。ダウンフォースはふたたび「死」に変換される。
「けっきょく、わたしが悪いから、わたしが死ねってことよね、みんなしてそう言っているってことよね」
そういう文脈に変化していく。
「それで、わたしが死んだほうが、みんな意気揚々として生きられるってことよね。ごめんね、わたしみたいな邪魔者がいて。たしかに、わたしなんか死んだほうがいいよね!」
これが生死軸の現象であることは、次のことも踏まえればいよいよ蓋然性がある。じっさいによくあることとして、わたしが四方八方からのプッシュを受けて、まあ別に何でもいいやという気分になり、わたしから彼女の自宅へ押しかけるようにして彼女を呼び出し、
「ごめんね、傷つけちゃって」
と頭を下げて謝罪する。
するとそれだけで、彼女は「……大丈夫」と言い、数分後には、
「大丈夫、というか、いいの、わたしが悪かったの。こちらこそごめんね、あなたが謝ることじゃないの。もうじゅうぶん。もう謝ってもらわなくていいから」
と、急速に冷静さと余裕、およびこちらへの気遣い・配慮まで取り戻し始めるのだ。
このことはまったく機械的に起こる。こちらから頭を下げて謝罪すれば、内容がどうこうではなく、ただ上下関係が転換されて、死へのダウンフォースが遮断される。そして生へのリフトフォースが供給される。それで彼女はたちまち生気を吹き返し、「死ね」と言われていた悲しみと屈辱から解き放たれ、彼女の陥っていた恐慌は消失していく。彼女はひたすら「一息ついた」。もう先ほどのように死に追いやられ続けるというようなことはなくなったので、彼女はもともとの――と自分では信じているところの――他人に筋違いな絡み方はしない、まともな人格の者に戻っている。
この現象を明確にするために、あえて意地悪とさえ思えるような言い方もしておこう。はっきり言ってしまうと、ここでまったく無関係な誰かが彼女に向けてひたすら土下座をしたとすれば、それだけでもなぜか彼女の恐慌は収まっていくのだ。このことはまったく不気味なほど機械的に起こる。
彼女はその恐慌が収まっていくことを<<止められない>>のだ、
「傷ついた」と感じている彼女は、ひたすら「誰もわたしのことを助けてくれない」と感じて恐慌に陥っているだけであって、道理的な整合を求めているわけではまったくない。
自分より下にダウンフォースを引き受けてくれる者がいて、その者が生のリフトフォースを捧げてくれるなら、彼女はたちまち立ち直ることができる。むしろ、そのたちまち立ち直っていくということが否定できない。
「傷ついた」というのは、じつは「配置・立場」のことを指しているのだ。自分がダウンフォースを受ける「配置・立場」じたいのことを、体感的に傷つくと表現している。
だから、生々しいこととしては、特に女性の場合このようなとき、「誰でもいいので言い寄ってくる男」に助けられるということがじっさいにありがちだということを、経験から知っているところがあるのではなかろうか。
「話聞いたけどさあ、◯◯ちゃんは何も悪くないって! ◯◯ちゃんの繊細なところがわかっていない人が周りに多すぎるんじゃない? おれ◯◯ちゃんがすっげえイイ子で、尊敬できる子だって初めからわかってたし。ある意味◯◯ちゃんのそういうところが、周りの人を嫉妬させているんじゃない? ◯◯ちゃんはけっこう、ぶきっちょなところあるけれど、本質的にはどこにいても、もったいないぐらいの人だよ、おれはそう思うけどなあ。◯◯ちゃんはおれよりずっと頭いいし、なんていうか、おれなんかよりずっとこころがきれいだもん。ただ、まじめすぎるから、そうして傷つくことが多くなっちゃうんだろうね」
このような励ましあるいは慰めを受けた場合、その慰めの内容および、その発言の当事者が、いかにもアテにならない軽薄なものだということは、女性の側でもわかっているものだ。まったくアテにならない軽薄なものだということはわかっているのだが、それはそれとして「助かる」とほほえみたくなるところはある。さしあたり、男はへりくだっていてやりやすいし、何よりリフトフォースを向けてきてダウンフォースが遮断されるので、パニック状態からは恢復できる。この場合はあえて、この男の安っぽさと軽薄さ、アテにならない如何わしさが、ちょうど見下ろせる位置にあって息継ぎになるということもある。自分からその男へ、自然な軽蔑というダウンフォースが起こり、男から自分へは、露骨なおべんちゃらを含むとはいえリフトフォースが与えられる。とりあえず、「生きていくことはできそう」という気分になり、ありがとう、という素直な感情が湧く。
「ありがと。とりあえず、ハー、わたしが我慢すればみんな丸く収まるところだから、なんとかしてみるわ。こんなことで感情振り回されるの、いいかげん馬鹿馬鹿しいし」
「そうそう。けっきょくわかっていない連中は、いずれボロが出てきて自滅していくって」
「そだね。わたし、とにかくもっと、ふつうに生きたいよ笑。なんでみんなわかってくれないんだろうな」
生死軸におけるダウンフォースは、死ね、死ぬべき、少なくとも死に追いやられる感触のもの。それが耐えがたく悲しい。さらには、自分の生は向こうのリフトフォースとして吸い上げられる、そのことが耐えがたく屈辱的だ。
この耐えがたい痛みと悲しみを耐えるにはどうすればよいか。
どうしてもここで「我慢」が出てこざるをえない。
意図的にあなたにダサい服を着せ、あなたの隣に意図的におしゃれな人を座らせる。そしてみんなで一斉にあなたの隣の人をちやほやし、意図的にあなたのほうは見ない、一瞥もくれないようにする。そうするとあなたは自動的に傷ついていく。なぜか。それは、あなたの隣の人にリフトフォースが掛かり、あなたの隣の人が上位になって、無視されているかのようなあなたは自動的に下位にセットされるからだ。ダウンフォースが降りかかる。あなたはそのときおしゃれな人の横で「死ぬほどダサい」人になる。隣の人は「ふつうの人とはまったく違うよね」と称されているが、比較されているそのふつうの人とはつまり隣に座らされているあなたのことなのだ。
このような傷つく配置にセットされたとき、あなたは自動的にその状況を「我慢」するだろう。また、我慢する以外に何をどうしろというのか。そして我慢というのはどういうものだったか。
この状況を我慢でしのごうとしたとき、スコアリングは次のようになる。
おしゃれ 100
<計 100 >
ダサい 10 (我慢 100)
<計 110 >
スコアのトータルではあなたのほうが「上」だ。この我慢スコアを付与さえすれば、あなたはこの状況を、ため息ひとつで済む、どうでもいい下位のものとすることができる。
あなたの様子を看て取って、誰かがあなたに、
「どしたの?」
と訊く。あなたは、
「は? 別に。フツーですけど笑。何?」
と答える。
このときのあなたがどれだけムンとしているか。ムンは我慢の音だ。我慢スコアが 100 なのだから、100 のぶんだけムンの音が鳴る。
このようにして、人は自分が傷つく・傷ついたときにそのムンを出現させるということを発明した。傷つくというやつは、生死軸においてはダウンフォースの「立場」それじたいに起こるのだ。内容は無関係に、ダウンフォースを受ければ傷つき、傷つけばその耐えがたさを我慢するしかなく、その我慢はムンという音を立てる。
つまり、あれから二十五年が経ち、誰も彼女に謝ることはなくなったということなのだろう。
かつて、
「あなたからあのコに謝ってあげてよ」
「おれがいったいおれの何を謝罪しろというんだ」
と交わされていたやりとりが、いまは、
「あなたからあのコに謝ってあげてよ」
「ありえなくて草」
というやりとりに変わったということ。
まあ、それはそうなるだろう。かつて、「傷ついた」という一点張りで、しょうがなしにこちらから頭を下げて回っていたときも、そうした振る舞いに対して、
「本当にお疲れ様です」
と、こちらを労わってくれる誰かはいた。それが粋なことだったのか、あるいは閉塞した酔狂でしかなかったのか、いまとなってはわからない。それでも、労わってくれる誰かはそれなりにいたので、憮然としながらもなんとか韜晦して、やり抜いていこうと思うこともできた。
いまは世の中が純粋に、すべてが自己責任という考え方なので、二十五年前のこの発想はまったく成り立たないだろう。
「傷ついた」と、場合によっては際限なく言いだしかねない、しばしばタチの悪かったものについて、ついに誰もケアはしなくなった。単純に付き合いきれなくなったのだろう。もちろん誰かが「傷ついた」として、いまでも同情的なケアの気持ちを寄せることは誰にでもあるとしても、こちらが頭を下げて飛び込み、彼女に生きる気を取り戻させようとするやり方やその発想を持つことじたいは完全に終息した。そもそも、それが正しいというわけでもなかったので、その終息を糾弾できる人はいないだろう。いくばくかの切なさを残しながら、とにかく事実としてそうしたものは終わった。状況は次のフェーズに進む。
誰もそうした身投げじみたケアはしなくなったので、各自でその手当てを発明する必要が出てきた。
それで発明されたのが「ムン」だということ。
「傷ついた」ということが「ムン」で手当てされるようになったのだが、いますでにその手当てのプロセスは、われわれの精神においてオートメーションされた、ほとんど同時のものになっていると言っていい。傷つくということとムンの手当てをするということがほとんど同時になされる。それがほとんど同時であるため、「傷つく」というプロセスはほとんど確認されず、ただ「ムン」とするということだけが視認される。
たとえば二〇二三年現在、企業に新入社員がきて、指導員が彼に業務を教えるとする。すると、それだけですでに彼は上司や指導員の下にいるのだから、もう傷ついているということになる。傷ついて、ほとんど同時にムンの手当てをほどこしている。<<彼は入社して出勤するという時点でもう傷ついており、その時点ですでに猛烈に我慢している>>のだ。ドキドキワクワクなどしていない。彼にとっては入社するということがまず我慢で、出勤するということが我慢、上司や先輩や指導員がいるということが我慢で、そこから教育や業務が与えられるというのはさらに我慢なのだ。
だから内部の文脈は、
「わかりました、これをやらないと生きさせてもらえないってことですね。じゃあ生きていくことを潤すだけのじゅうぶんな金銭を支払ってくださいよね? そうでなければあなたが死ぬべきですよ、舐めないでくださいね?」
となり、その我慢の文脈が彼の体にムンと出る。
あらためて、生死軸、そのダウンフォースが「死」だというのは大変なことだ。
指導員と新入社員のやりとりが次のようにあったとする。
「この書き方だと、先方が誤解するので、こういう書き方に改めてね」
「承知しました」
これを、生死軸の副音声をつけて書きなおすと、
【生死軸】
「この書き方だと、先方が誤解するので、こういう書き方に改めてね。死ねよ」
「承知しました。傷つくわ、お前が死ねよ。お前が死んでおれに金を払って潤せ」
となる。
もしこれが生命軸ならば、副音声は、
【生命軸】
「この書き方だと、先方が誤解するので、こういう書き方に改めてね。生きろよ」
「承知しました。生きます、命じてください。わたしは生きて命令を果たします」
となる。
これではもう、ふたつはまったく別の世界で、ふたつの人々はまったく別の人々のようだ。
だからわれわれの現代はいつからか、まったく別の世界に入れ替えられたようにさえ感じられるのだ。
いまから四半世紀前、「傷つく」という不明の言い方が流行して、それが無制限の権威を持ち始めたとき、処理のしようもなくて、誰もがそのことを放ったらかしにした。そうして放ったらかしに――あるいは野放しに――しているうち、われわれの世界も魂もいつのまにか乗っ取られたということなのかもしれない。
新入社員の彼に、もし「我慢をやめたら?」と勧めたらどうなるか。
彼は何とはなく、
「死にてー」
と言うかもしれない。ダウンフォースに対抗する我慢をやめたら、そのまま死に追いやられることを受容するということになるから。
ダウンフォースを受容するのでなければ、
「誰もいない南の島とかに行きたい。あるいは、部屋でずっと寝転んでゲームしていたい。マジで」と言うかもしれない。じっさい、「なんとかしてお金貯めて、とにかく早期にファイアして、あとは悠々自適で暮らしたい。それがリアルな勝ち組だと思う」という人は少なくないのではないか。「誰ともかかわることなく、のんびり、自分の好きなことだけして生きていきたいです」。
あるいは、夢想のようではあるが、「何かの世界で頂点を極めて、そこでずっとあぐらを掻いてたいわ」と言うかもしれない。
ひたすら、死のダウンフォースが厭(いや)なのだ。当たり前だ。
誰でもがんばって生きようとしているのに、なるべく明るく生きようとしているのに、なぜずっと「死ね」の風を受けて無理やりにほほえんでいなくてはいけないのか。
本当にはそんな風は吹いていないのだが、生死軸に所属し、他の軸がありうるというようなことは教わっていないし与えられてもいないから、事実として彼の魂が受ける風はそれになる。
新入社員は入社しただけで傷ついていて、もし上司も先輩も指導員も、あるいは社長や株主でさえも、彼にへりくだって土下座するような勢いなら、彼は慰められ、励まされるかもしれない。
「大丈夫、というか、いいです、ぼくが新人ですから。すいません、みなさんが頭下げることじゃないです。もうじゅうぶん、もう謝ってもらわらなくていいですから」
←前へ 次へ→