ムン
「傷つく」という分岐点
恋愛を空想するとき、最悪だ、というシーンを空想する人はいない。二人の仲が険悪で、お互いにため息をつき、表情はお互いを否定しきって、最低の時間を過ごしている。お互いに、しんどいわ、うんざりだわ、そんなことを無言で言い合っている、そんなシーンをわざわざ自らで空想に思い描く人はいない。
われわれは恋あいを空想するとき、夢のような、不思議な、光に満ちた、そういうシーンの中にいるそういう二人を思い描くだろう。われわれは空想とあこがれの段階においては、恋あいや交際といった間柄のことを「うまくやれる」と思っているのだ。うまくやれると思っているし、若く経験が浅い場合には、
「いったん付き合ったら、相手を大切にするとか、思いやるとか、そういうことはおれはぜったいにやっていけると思う」
と確信さえしていることが多いものだ。男女どちらであっても。
にもかかわらず、ここで読み手のうち何割かは苦笑しながらうなずいているものと思うが、じっさいの交際となると、空想していた「うまくやれる」はまったく成り立たないことがよくある。
なぜか?
それは、空想の前提として、人が・自分が「傷つく」ということが想定に入っていないからだ。
人はきっと、なにひとつ傷ついていない、安息と安寧の中でなら、交際にかかわることをそれなりに「うまくやれる」のだと思う。だが当然、われわれが生きるのに「傷つく」ことがないという前提を立てるのは非現実的だ。
たとえば男性Aと女性Bが交際していたとする。この日、女性Bは仕事上のことでこっぴどく上司に叱責され、そのことで何やらダメージを負ったような、「傷ついた」と言いたくなるような状態になった。ただでさえ体調が悪かったところ、自分の不注意が響き、ひとつのミスが大きなトラブルにまで発展してしまった。
もちろん体調がどうこうということを言い訳にはできないので、Bは責められるまま反省するしかなかった。彼女は心底から反省して、
「申し訳ございません。今後このようなことがないように、戒めます。気を引き締めてまいります」
と言ったのだが、上司は眉根を寄せたまま、
「いや、もういいから。これは別の人にやってもらうから。君には任せられないってよくわかったわ」
と言い放って、彼女の担っていた仕事を取り上げてしまった。
Bはエッと驚いた。担当していた仕事から外されるということがショックだったが、なぜかそのショックと同時に、
(え、そうなの?)
と、急激に何かの熱が冷めていくように感じた。
それはいくらなんでも、しらける、というような。
(今さら担当を外されるなんて、それはいくらなんでも感情的すぎない? たしかにわたしが悪いかもしれないけど)
それで、上司が投げやりに、
「何してんの。もうきみは帰っていいよ」
とBに言うのも、そのまま恬淡と受けて、
「わかりました。では失礼します」
とそのまま退社したのだった。
Bは帰り道、首をかしげて歩き、鼻からフーとため息を漏らして、
「なんか、疲れた」
と思った。目の端にはわずかに涙が浮かんでいる。
「あーあ、なんかもう、逆に全部どうでもよくなっちゃったな」
Bはあまりに気分がくさくさするので、やりきれず、次第に腹が立ってきた。
ふと思いついて、気晴らしに、むかし好きだったアニメの「まとめ」動画をスマートフォンで観た。
過激な描写が特徴的だったそのアニメは、彼女の記憶の古巣を刺激して、
「あー、懐かしー! このシーン、あったあった」
と彼女を陽気にさせた。イヤホンから、エキセントリックなアニメキャラクターの声が響いてくる。
そうしてなんとか気を取り直してBが帰宅すると、Aが先に帰宅していた。
ドアを開けながら、
「ただいま」
と言い、Bが玄関に入ると、Aはいつもどおり「おかえり」と応えた。
Aは玄関のほうへ出てきて、
「おかえり。あのさあ、下駄箱の上に置いてあった青いメモリースティック、どこに行ったか知らない?」
とBに尋ねた。
「え? 知らないよ。てかわたしに訊かないでよ。わたしいじっていないよ」
「そうか。おかしいな、たしかにここに置いたんだけどな」
「Aくんきのう酔っぱらって帰ってきたから、どこか別のところに置いたんじゃない。てか、どいて。ここ狭い。わたしシャワー浴びたい」
Bは自分でも少し怯まされるほど、つっけんどんな声を出していた。これじゃ八つ当たりだなという気持ちも湧いて、すべてのことはわずらわしく感じたにせよ、いちおう謝罪のつもりもあって、
「今日はもう、すっごい疲れてんの」
といちおうの言い訳だけは残して、つかつかと脱衣所に入っていった。
Aに八つ当たりしてしまったということを、Bは数秒だけ悔やんだが、ただちに別のことを見つけると、その悔やんだ気持ちも塗りつぶされていった。
(あ、もう! また脱いだ靴下をこっちのカゴに入れてる)
苛立ちが湧き、Bはハーと大きなため息をついた。
(靴下はこっちじゃないって何度も言ってんじゃん、どうしていつまでたっても覚えらんないの)
Bは、
(とにかくシャワー浴びよ。とりあえずすっきりしないと、流れ悪いわ)
シャワーを浴び、バスタブに湯を張って、入浴剤でその湯を泡立ててしばらく過ごしていると、ぬくもりと香りにほだされて、ゆっくりとではあるが、Bは次第に鼻歌が出るていどには機嫌を回復させていった。
防水機能のあるスマートフォンをバスタブの縁に立て、先ほどのアニメの「まとめ」のつづきを観た。そのアニメのギャグシーンに反応し、彼女はバスルームに響く大きな笑い声をあげもした。
「これよ、このシーン、これって今見ても笑えるわあ」
脱衣所に出て、髪の毛の水分をぬぐい、顔にいつもより入念な保湿液を行き渡らせて、Bはパジャマに着替えてからリビングルームに戻った。リビングルームでは、Aがソファに寝そべって、テレビ番組を見るでもなく眺めていた。
見ると、ダイニングテーブルにはすでに二人分の料理が皿に盛りつけられてある。帰宅したときには気づかなかったが、先に帰宅した彼は食事を作ってくれていたらしい。
ダイニングテーブルの足許には、見慣れない紙袋が置いてあり、上から覗き込むと何やら洋菓子のようなパッケージが見える。それを見て、今日はAが出張から直帰してくる日だったということを思い出した。出張先からおみやげを買ってきてくれたのだろう。
Bがじっくり入浴していたあいだに、彼の作ってくれた料理は冷めてしまったらしい。
Bは、
「あのさあ、ごはんたべる?」
とAに呼び掛けた。
Aはつまらなそうにテレビ画面に向いたまま、
「あとでいいわ」
と言った。
Bは、
「あっそ」
と答えた。
Bはいくらか、自分が帰宅してすぐ向けたつっけんどんな声と態度に良心の呵責を覚えたが、それより内心に思ったのは、
(あーあ、すねちゃった)
ということだった。
Bはひとり、すでに冷めてしまった料理を食べながら、
(あーあ、この洋菓子みたいなやつ、正直、食べたかったなー。でも今日はもう無理だろうな)
と思った。
こうした一連のことは、じっさいの交際においてはいかにもありがちなものだが、われわれが恋あいを空想するときには、こうした現実的な交際のシーンは思い描かない。空想に思い描かれる「ただいま」と「おかえり」は、そのままあたたかく二人を和ませ、そのままふたりを快適で仲睦まじい食事のシーンへ連れていくはずだ。
Bが趣味として始めたロードバイク、その車体を、Bは玄関の下駄箱の斜向かいに置いている。
それについてAとBは次のように言い合っている、
「あのさあ、やっぱりこれ、ここに置くのは邪魔すぎるって。ここまともに通れないじゃん」
「だって、こういうの外に停めていたらすぐ盗まれちゃうんだよ」
「いやいや、このマンション、他の部屋でも出たところにロードバイクとかふつうに停めてあるじゃん。エントランスにはオートロックあるんだし。それで二重か三重かにカギとかつけておいたら大丈夫なんじゃないの」
「オートロックって言っても、じっさいいくらでも誰か入ってきているし、逆にそういうところのほうが狙われるんだよ。それに、車体まるごと盗まれなくても、部品だけ取られたり、何かいたずらされたりすることあるから」
「いやだから、それはわかるけど、じっさい他の部屋でふつうに外に停めているの見るじゃん」
「でも、何かあったらどうするのよ。このロードバイクって、そんなに気軽に買いなおせる値段のものじゃないのよ。わたしにとっては大切なものなの」
「そうだけど、お前自身、こないだ玄関出るとき、思いきり引っかかっていたじゃないか」
人は、「傷つく」ということがないのであれば、こうした自転車の置き場所ひとつのやりとりについても、「やれやれ」という調子で友好的に、おしゃべりのひとつのようにやっていくことができるものだろう。
けれどもわれわれのじっさいは、そうして切り取って思い描いた空想のように単純ではない。
たとえば、お互いにいまいち話が通じないなと疲労感を覚えている中、Bが酔っぱらって帰ってきたことがあった。Bは酒精によって機嫌がよく、勢いのままAをベッドルームに呼び、Aを性交に誘った。
Bはそうして調子づいていたけれど、Aは素面(しらふ)のままなので、とつぜんのことでBに同調はしきれない。
そうしてAがためらう気配も、Bからは酒精のまま、
(あーもう、めんどうくさいなあ。しゃーない、お姉さんがなんとかしてあげるから、こっちおいで)
と包容的に思えていたのだ。
ふたりはベッドの上でもつれあおうとしたが、やがて、Bの身体をまさぐるAの行為は気力を失って遅滞してゆき、
「ごめん、やっぱ無理だわ。いまちょっとそういう気になれない」
とAは言った。
Bはこのとき、気が大きくなっているし、日ごろのストレスも溜まっているので、行動は衝動的だ。Bはプッと笑いだし、
「えー? それはちょっと、ありえなくない? それは彼氏として、男として、どーなの。ちゃんとしようよ」
彼女としては酒のいきおいで、冗談を含めたつもりで言った。
それを受けてAは、
「うん。何かお前のそういうところも、本当に無理だって気が最近してきた。こんなこと言いたくなかったけど」
と言った。
Bは酔っぱらっているので、
「えー? 何その感じ」
と茶化して取り合わない。
そうして取り合わないだろうということも、すでにAの予測の範疇にあったようで、Aはこちらを向かず漠然としたうなずきを数回するだけだった。
Bは腹が立ってきて、
「なんかムカつくわ。わたし、飲みなおしに、外行ってきまーす」
と言い、荒っぽく服を着始めた。
Bが玄関でパンプス靴を履くのにガツガツ蹴りつけるような音を立て、ドアを強烈に叩きつけるようにして出て行ったとき、AはBのことを引き留めなかった。Bが乱暴に出て行く際、バッグの紐がロードバイクのハンドルに引っかかり、ロードバイクがガッシャーン! と倒れたことは皮肉を含んでいた。
その皮肉に向けて、いやらしい笑みを起こすというつもりも、すでにAにはないようだった。
このようにして、お互い抜き差しならず「傷つく」「傷つけあう」ということがあって、その上でロードバイクの置き場所について言い合うとなると、それは友好的なものではなくなっていく。
AとBは、互いのことを大切に思っていないわけではないのだが、じっさいのところAはBのことをすでに「けっきょくそういう人なんだ」と逐一、観察して確かめるだけという乾いた態度になっており、いっぽうでBは、新しく飲み屋で知り合った飲み仲間たちに向けて、酒の席だからということではあるにしても、
「あーもう、彼氏まじウザい。上司もウザい! みんなまとめて死んでくれ、わたしを自由にしてくれー。わたしはもっと、フツーに楽しいのが好きなだけなんだってば!」
と言い、わかるわかると飲み仲間たちを笑わせるようになっていた。
われわれは恋愛や交際を空想に思い描くとき、ここで示した一連の例のようなことを思い描きはしない。もしここに示した例のとおりのことを空想に思い描くなら、現代のわれわれは、
「恋愛ってじっさい、そういうクソな部分あるよな。トータルで見たら正直、自分の好きなゲームやっているほうが楽しいわ。恋愛とかしんどすぎる。そら少子化も進むわな」
と述懐するだろう。
われわれが恋あいを空想するというとき、ここで示した例のようなものは思い描かない。もちろん、交際していくということは、それなりにいろいろあるだろうと推定ぐらいはするけれど、それにしてもすべてのことはけっきょく「うまくやれると思う」と思って空想している。その「うまくやれる」という予定は、人が・自分が「傷つく」ということを前提に入れていないことから起こっている。
人は生きているうちに、いつでも傷つくし、現在のところ、傷つくということは同時にムンを引き起こす。
ここで示したAとBの話が、二十五年前のものだったらどうなっていただろうか。二十五年前であれば、スマートフォンでアニメの「まとめ」動画を観ることはなかっただろうし、ロードバイクを趣味にする人もずっと少なかっただろうが、そのあたりは捨象してもらうとして。
二十五年前だったら、この二人は、お互いに「傷つけてごめん」と言い合うことへ進めるだろうか、ということが話の続きになった。はっきりと涙を流して、何かに声を震わせて、苦しみながら悲しみながら、すべてを振り切って「傷つけてごめん」と。「本当は大切にしたいんです、でも、なぜかそれができないんです」と。その進みゆきは、見物人としては単純な応援の力が湧くところだけれど、当事者にとっては思いがけず苛烈な試練の道だ。
二十五年前でも二人はきっと、やっていけずに破局しただろう。きっと若さが二人を赦さない。やがて別れるしかなく、けれどもその別れにおいて、二人はやはりどこか相手を真正面に見るところはあって、
「きみにやさしくすることができなかった。ただそれだけだと思う。男として情けないよ、ごめん」
と悔い、またその相手も、
「わたしのほうこそ、あなたにやさしくすることができなかった。今さらどうしようもないけれど、最後にはっきり言わせて。ぜんぜんやさしくできなくて、傷つけるばっかりで、本当にごめんなさい。わたしってこんな奴なんだね、初めて思い知ったよ」
と堂々と言ってのけるところがあった。
そしていっとき、"何か" の風が舞い込んで、なぜか二人を急に気軽に明るくすることがあった。
これまでのことも、これからのことも、急にすべての重さを吹き払われたように。
「でも、なんかさ、楽しいことも、たくさんあったよなあ」
「それはもう、楽しいことすっごいあった。なんでか、正直そっちのことばっかり覚えているよ」
そしてまるで、何かいつものことのように、二人を互いに、
「じゃあ、ありがとうね」
と言わせ、二人を握手させ、二人の関係は過去のものとなっていくのだった。
最後に吹き込んだ "何か" の風は何だったのだろう。
それはきっと命の風だ。
二十五年前、「傷つく」という言い方は、しばしばたちが悪く、面妖な性質を持つものだったけれど、二人は別れ際にその「傷つく」という呪力を超克した。自分が相手を傷つけたとは言うものの、自分が相手によって傷ついた・傷つけられたとは言わなかった。
この二人は土壇場で、ついにこの恋あいにおいて勝利したとも言える。その勝利の証拠として、命の風が吹きこみ、二人を祝福して、二人の別れを暗いマイナスのものとせず、何もかも大丈夫なのだと何かが見守るものにした。
二人は別れてしまったが、最後の最後、
「このようでありなさい」
と命じる何かに従い、そのとおりに命を果たしたのだ。そうすることでついに、どのようにしてか出会い、どのようにしてか交際し、どのようにしてか別れた、そのことのすべてに恋あいの「命」が与えられた。
二人はきっとそれぞれに、恋あいと交際にかかわって大変な思いをしたと追憶するだろうが、このときのそれぞれに、恋あいはどのようなものであるかと訊いてみたとしたら、彼らはどう答えるだろうか。
「クソな部分なんてない。自分のクソな部分は出てくるけれど、恋あいにクソな部分があるとはまったく思わないな。自分の好きなゲームだけしていたいなんてまったく思わないし、しんどいなんて思わない。恋あいなんて、無理に意図的にするものではないと思うけれど、もしまたそのときが来たら、そのときはあるがまま、ただそのときはどうか人を傷つけないような自分、人にやさしくできるような自分でありたいとだけ思う。せめてそうでないと、さんざん傷つけた前の交際相手に申し訳が立たないから」
彼らはそのように答えるだろう。
傷つくということが分岐点になる。二十五年前の例になるけれど、傷つくということを超克して、命の風を呼び込んだここでのAとBのことを見よ。
傷つくということはあるけれど、必ずしもそれを忌避しなくてはならないというわけではない。
傷つくと知っていて、その中に立つことはできる。
その中に立ち、傷つくということを「当然」と引き受けることはできる。
傷つくといっても、それをこころの底から「かまわない」と言えば、それはかまわないということになるのだ。
雷が落ちようが核兵器が降ってこようが、蜂がこようが蛇がこようが、「わたしはここにいます」と言うのならば、その人はそこにいるだろう。
ムンっとすればわれわれはムンになるが、ムンっとしなければ、われわれはムンにはならない。
AとBは土壇場で、自分が相手を傷つけたことを詫び、相手のことについては「ありがとう」と言った。
彼らは土壇場で、自分が傷つくということに「我慢」という手当てをしなかった。
傷つくというのは、生死軸でのダウンフォースの立場に起こることだ。だからこそ現代のわれわれは、匿名のウェブページで、誰かを傷つけるためには瞬発的に「死ね」と書きこむことを発想する。
死ねと言われたら悲しい。生を否定されるのは悲しくて、生を吸い上げられるのは屈辱だ。その痛みと悲しみのダウンフォースの中で、それでも「かまわない」と本心から言うなら、それはかまわないということになる。
このとき、人がそうして傷つくことの中に自ら立ち、それを忌避しないのであれば、人はどうやら命の道を見つけることがあるようだ。
「傷つく」という場所に分岐点がある。われわれはいま、その場所が近づくと、「ムン」で急加速して素通りし、そこに分岐路があったとはまったく気づかないのだが、もしその傷つくという場所を当然として立つならば、そこはじつは交差点であって、分岐路があることを見つけるようだ。「あれっ?」と、その分岐路の先から命の風が吹いていることに気づく。その道へ一歩踏み込むと、空から命の羽根が舞い降りて来る。彼は生死の世界ではなく生命の世界を視る。
「これが世界なのか。こういう、世界なのか」
傷つくということは手当てされたのか? そのように訊けば、彼は「いいえ」と答えるだろう。死んだ方がマシか? と訊けば、彼はやはり「いいえ」と言い、「生きろってことだ」と答えるだろう。
分岐点に立ち、見つけた分岐路に踏み出せば、そのときから彼の所属は生命軸であって、生命軸のダウンフォースには「死ね」はまったく含まれていない。ダウンフォースを受けるあわれな彼は、「生きろ」と力強く命じられているのを聞き取っている。
彼はいっそ、生命軸の者として、
「傷つくために生きているんだ」
とさえ言うだろう。
傷つくという場所に立たないかぎり、命への分岐路は見つからないのだから。
本当に傷つくという場所に立ち、それを「かまわない」とするなら、その場所で人は生死軸の順転さえ見つける。もともと生死軸はわれわれの生存本能によって逆転されて設置されているのだった。本当の生死軸、順生死軸は死が上位にあり、生が下位にある。上から下へ「死ね」の声が向けられているというのは、どだいフェイクのものでしかないのだ。どれだけその表面が業火によって強烈なものに加工されていても、それは見せかけのものであって実在はしていない。
呪詛の「生々しさ」がそのような軸の存在を錯覚させているだけだ。
(このあたりの説明はやや高度なのでいささか理解しきれないかもしれませんが、理解しきれなくても全体の把握には問題ありません)
生命軸の神が命の神であるように、順生死軸の神はじつは死の神だ。死の神は、やがてわれわれに必ず死を与えるだろう。そのことは誰だって確信があるはず。たいていこれから百年以内にその死は与えられる。その確信とまったく同じように、命の神はやがてわれわれに必ず永遠の命を与えるということが仕組みとして視えていなくてはならない。
己の魂が所属した軸の神がわれわれの魂に神そのものを与えるだろう。
「死ね」のダウンフォースは、本当はわけのわからない、成り立ってもいないでたらめなフェイクにすぎない。本当は、「生」を上にした軸など存在しないのだから(それを「生々しさ」で錯覚させているということです。これは魂の現象ではなく血・呪力の現象です)。
本当は、死の神はわれわれに死を分配し、われわれは死の神に生を捧げている。死の分配はわれわれにじつは「生きろ」と聞こえている。また、生をそのことに使い果たしたとき、われわれは確かに死を得るだろう。
二本の樹木が下から「生えて」いる。地表はどちらも生だが、片側の樹上にあるものは死、片側の樹上にあるものは命だ。われわれは死に関してはすでに獲得できるという確信がある。獲得したくなくても獲得させられるとまで感じよう。それはつまり、死の果実はすでに獲得済みだということだ。死はすでに内定をもらっている。命のほうは未だ内定をもらっていない。
よって彼が、
「傷つくために生きているんだ」
というのも、精神的な言い方ではなく、道理にかなった言い方となる。
このままひたすら直進するだけでは、内定どおりに死の結末に至るのみ。分岐点がないならその単一の道をまっしぐらだ。
分岐点は、「傷つく」という場所にある。
だからわれわれの生は、その「傷つく」という場所に立つためにある。そこで分岐路を見つけ、生命軸のほうへ魂を踏み出させるために生きている。
われわれは命の代替品として「ムン」を発明したけれど、「ムン」で傷つく場所をスキップできるとして、そのことはわれわれの生を有意義なものにはまったくしていない。
むしろこのままでは、「ムン」は、われわれを傷つくことのすべてから守るようでいて、われわれの生のすべてを無価値なものにしてしまうだろう。
われわれはいつだって命のあるやなしやを気にしている。自分の姿に、声に、振る舞いに、ちょっとしたジョークの言いようのひとつでさえ、命があってほしいと思っているし、それがないと判明すると深く傷つく。自分の恋あいに、青春に、仕事に、芸術に、命はあるか、あってほしいと願っている。命がなければ自分は傷つく。まったく致命傷というように傷つく。
そこでムンの出番だ、というのが現代の定跡だけれど、じつはそうではないのじゃないか。
同じ生きるなら傷つくということ。われわれは傷つくために生きている。分岐点に立って何ひとつ曲げずに「かまわない」と言うなら、すべてのものはわれわれに生きろと言っている。死を得るために生きるのもひとつだが、それはすでに獲得済みのものだから忘れてしまえと、そして命を得るために生きろと言っている。わたしもそう言っているし、わたしでないものもそう言っている。
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