ムン
甘え、公私混同、「あなたは我が強いんだってば
けっきょくのところ、わたしはムンに対する説得力を持たない。循環して出現してくるムン、その腰高の気配、湧き出てくる「我慢します」という言いよう、そのぶん請求される「わたし偉いですよね?」ということへの報酬。わたしは誰に向かって書き話しているだろう。何かに入り込んでか、あるいは何かから脱出してか。
わたしから出てくるムンへの説得のことばは、せいぜいのところ、
「だから、あなたは我が強いんだってば」
というぐらいなのかもしれない。そのようなわたしからの、ムンへの説得がありえたとして、わたしがけっきょくのところ説得力を持ってはいないと自らで認めることができる。
我が強いというのはどういうことか。たとえば白黒映像に残っているような、激しいシャウトを示すソウル・シンガーのありさまを観たとする。彼は激しいパフォーマンスを示し、まさしく彼の魂そのものをそこに現しているのだが、その魂の激しさをもって彼のことを、
「我が強い」
と言い当てることができるだろうか。いや、それはおかしい。彼に対して「我が強い」という言い当てようは何かが不当に思えるだろう。
同じシンガーというジャンルを現代で引っ張り出してくるとして、たとえば陰鬱な面持ちで、ぼそぼそと何かを言う様子で、目許も表情もなるべく露出しないように歌おうとする、ここでは架空の現代のシンガーがいたとする。彼は痩身で、血の気のないような姿をしているが、その印象と風貌をもって、
「彼は我が強くない人だ」
と言い当てることができるだろうか。それもいかにもおかしい感じだ。われわれは直観的に、
「この人たぶん、すっごい我が強いタイプだよ」
ということを看破していよう。
わたしはムンに対する説得力を持たない。たとえば、ここでは生命軸やら生死軸の話をしているけれども、そのことを直接のムンに向けて話したとしても、ムンから返ってくる反応は「ムン」なのだ。当たり前ではある。理性は命のものなのだから、ムンが理性での受け取りを示すということはない。
わたしがわたしの話すことにどのような命を得たとしても、わたしの示そうとする命に対して、ムンはそれ以上の量の「ムン」を返してくるだろう。そもそもムンは命の代替品なのだから当然のことだ。
ムンは必ず、
「ぼくの所属って、生命軸ですかね、生死軸ですかね」
ということを第一の関心として訊いてくるだろう。
じつのところ、彼にとってそれは第一というより唯一の関心であって、彼の関心は、けっきょく自分の立場を上等に言ってもらいたいということにしかない。
それぐらい我が強い。我しかないと言っていいほど我が強い。
といって、我が強いという指摘をしたとしても、その指摘は彼にとって愉快なものではないので、彼はけっきょくそれを受け入れることはせず、
「自分ではいちおう、生命軸に所属しているって思うんですよ。生命軸のことのほうが、ぼくにはむしろよくわかるかなって感じがすごくするんです。それってぼくが生命軸に所属しているからなんじゃないですかね」
と言う。
何がなんでも、自分がそう思いたいということを、他人にも肯定させようとする。
これは平易に言って「甘え」だ。ずっとむかしに土居健郎が指摘したとおりのこと。
彼は典型的に、見本のように、「傷つく」という場所に立つことを避ける。
「先ほどのソウル・シンガーと、現代の病弱にさえ見えるシンガーとを見比べたとき、自分の所属はどちらに近いと思うんだ」
と促しても、
「うーん……」
と、考えるふりをして向き合おうとしない。
生命軸に属する者なら、命を分配された姿と声があるはずだ。
その実物を示してみるほうが手っ取り早いからということで、まずわたしがその実演をしてみて、
「同じようにやってみたらいい」
と彼に促す。
すると彼は、態度を急変させて、
「やっぱりいいです。うーん? なんかよくわかりません」
と言う。
彼の思いが是か非かの問題ではない。人とやりとりをしているのだし、そもそも彼のほうから問うてきたことなのだから、ここで急に彼だけ引き取って、話はなかったことにしますなんて態度はない。
公私混同だ。私的な思いを公的な学門の中に持ち込んできて、それだけでも異様な感触がするものなのに、しょうがなしに公的な側が引き受けて立つと、こんどは急に「やっぱりいいです」と退き、すべては「私的なことなので」と言い訳して引っ込んでいく。
公私混同というより、公私じたいが存在したことがないのかもしれない。彼の言う公的というのは、「わたしとしての公的」であって、すべては彼の私的なこととして扱われるのだと思う。
じっさいのムンの挙動はこのようだから、わたしはムンに対する説得力を持っていない。
説得力という語には、「力」がついている。
ムンは「力」を持っているだろうか。
ムンは命を持っていないが、力を持っていないわけではない。力を持てないなら誰もムンなんてやらないだろう。
命の代替品として力を持ちうるからムンは使われている。
力を持っていないのはむしろわたしのほうだ。いまここで、わたしはムンに対する説得「力」を持っていない。
それ比べるとムンのほうは、甘え、公私混同し、我が強いままに振る舞うという「力」を持っている。
「あ! ぼくはあまり、人に死ねとかって思わないたちなので、そのぶんは生命軸に近いタイプと言えるんじゃないですか?」
と、ムンのほうこそわたしにぶつけてくる説得「力」のようなものを持っている。
ムンは力を持っているのだ。その力で、それなりに活躍もしてきているし、実績も得てきている。
実績もあって、そのぶんの自負もあるから、ムンはそんなに簡単に引き下がらない。
ただ、引き下がらないぶん、その突出しつづける「力」を観測して検査するようなことは簡単にできる。
ここでは検査キットを用意しよう。
甘え、公私混同、「あなたは我が強いんだってば」という、この三点セットのようなものを、いつでも手早く使える検査キットのように持っておくことは役に立つ。
ムンとは我慢のことで、我慢とは吾我の驕慢のことだ。吾我の驕慢は他者との峻別をやすやす侵略していくので、このことを「甘え」という。
吾我が驕慢していると、公的なことにも私的なことがやすやす侵略していく。このことを「公私混同」という。
吾我が驕慢していたら、我が強いのは当たり前だ。そして、我が強いというようなことは、本当は誰だって感触だけでわかるものだ。
ムンは性質上、この三点セットの検査を欺瞞することができない。
欺瞞することはできないので、欺瞞しようとすると、それは必ずムンからの「パワープレイ」のような、無理のある形になるだろう。
この検査キットは有効だ。
といって、それもけっきょくムンに対する説得力になるわけではないけれども、それでも三点セットがいつも目の前に用意されているなら、ムンとしてもいくらか鼻白むということぐらいはあるだろう。
ムンの圧力に対する、防壁、緩衝材ぐらいにはなるかもしれない。
(だとしたらたいへん有益なことだ)
白黒映像に残っている、魂から叫ぶソウル・シンガーが、歌いながら甘えたり公私混同したりはするわけがない。そんなこと観ただけでわかる。
なぜわれわれは、甘えたり、公私混同したり、我が強かったりということを、果てしなく続けてしまい、やがてはそのことの自覚さえよくわからなくなっていくのだろう?
ヒントをひとつ書き記しておこう。力というものは、対象を解体する。たとえば理解力というものがあったとして、その理解力というのは対象を解体して、その対象にあった命を失わせてしまう。そもそも理解といって「解」の字が含まれている。英語では tell A from B という構文でその解体が表現される。
力は対象を解体し、命は対象を解体しない。
解体しないというのは、分解しないということ、つまり消化不良ということだ。
生命軸と生死軸のことを、理解力によって完全に理解するのはよし。
でもいっぽうで、じっさいの命をディールするのは、むしろ消化不良によってだ。
理解不能、ではなく、消化不良だ。
食事を、ドロドロに溶かして飲めば、消化吸収にはいいかもしれないが、「食事」という命は失われる。
解体されていない場合にのみその「命」は残る。
ただ消化不良のまま、じっさいの命をディールし、それが済んだあと理解してみれば、たしかにここで説明されているとおりだ、ということが確かめられるだろう。
あまりここで詳しく述べるべきことではないが、少しだけ言ってしまうと、生死軸というのは、そもそも生と死がきっちり分解されている、ということから発生している。
生と死を分解するのはおかしなことではない。ただ本当には、その分解は、われわれの能力によって、出来るようでいて出来ないのだ。
われわれは自分がいま死んでいないということを証明できないので、じつはわれわれは生死を本当に解するということができない。
医者こそ、その生死を本当に解することはできないと知っていて、だからこそ医者はあくまで死の「兆候」を確認することを死の定義にしている。それで本当に死んだのかと医者に問えば、まともな医者は、
「それはわかりません」
と答えるだろう。
同じようなこととして、たとえばここまで「吾我の驕慢」ということを繰り返しているが、そもそも「我」とは何なのかということを、じつはわれわれは完全に解することができない。
「いやいやそんなことないよ、わたしはわたしだよ、自我を持っているよ」
と言いたくなるのだが、じつはそうして、ちゃんとすべてを解することができる「気がする」という現象じたいが「我」なのだ。
たとえばあなたの着ている服は、服であって「あなた」ではないだろう。あなたの靴も「あなた」ではない。
ではあなたから切り取った爪はどうか。あなたが散髪した毛はどうか。
日焼けして剥けておちた皮膚はどうか。
あなたから肉を切り取ったとしたら、その肉はあなたか。
あなたから血を抜いたら、それはあなたか。赤血球や白血球があなたか。
神経細胞のひとつを取り出して、それをハワイに送ったとしたら、「あなた」はハワイに行ったのか。
あなたの血と肉と神経細胞と骨のすべてを切り取って抜いたとき、「あなた」はいったいどの部分に入っているのか。
「あなた」が入っている肉の部分は合計で何グラムなのか。
あなたの肉体を、上半身と下半身に切り分けたら、「あなた」はきっと上半身にあるという気がするだろう。
ではあなたの肉体を、左半身と右半身に切り分けたら、「あなた」は右半身と左半身のどちらにあるのか。
「我」といって、それはけっきょく「わたし」というものが肉体を伴ってこうあるという「気がしている」というだけで、本当にそのことを解せているわけではないのだ。
あなたの肉体と、あなたの目の前のボールペンがあったとして、肉体はわたし、ボールペンはわたしじゃない、という「気がしている」だけだ。本当のことではない。
だから本当のことを取り扱うには消化不良をもってするしかない。
生死にせよ我にせよ、それぞれがそのように分解できるという気がしているだけ。
その機能じたいを我と呼ぶが、いまここでしたように、我の機能を揺さぶられたとき、あなたからはなぜか「甘え」「公私混同」「我が強い」という症状が出てくるだろう。
我を保とうとしているのだ。
その三点セットの反対側に「消化不良」があると思え。
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