ムン
ありがとうの逆転
本当のことを勉強するつもりがあり、本当のことへ踏み出してみるつもりがあれば、ときに劇的に、身が救われるということがじっさいに起こる。
本当のことへの踏み出しというのは何だろうか、それは何のことはない、<<自分の生を、命の人の「身」の足しにしてみる>>ということだ。
自分の生を、命の人の足しにしてみる。命の人の「身」の足しにしてみる。どういうことだろうか。わかるような、わからないような話だが、この話は逆の例を採れば把握しやすくなる。
われわれはふだんから、ここでいう「逆」のことをやっているので、無念だがわかりやすさとしては、その「逆」の話のほうがわかりやすい。
たとえばここに宗教施設があり、「命の人」という像が立てられていたとする。
「この像を拝めば、あなたは体の具合がよくなり、長生きできますよ」
とあなたは吹き込まれたとしよう。
そういうことならばと、あなたが真に受けたならば、あなたはその神像を拝むだろう。
それでもしあなたの体の病気が治ったとしたら、そのときは誰が誰の足しになったのだろうか。
そのときはもちろん、神像があなたの足しになっている。
「命の人」があなたの足しになっているのであって、あなたが命の人の足しになっているという成分はまったくない。
あなたは自分の体の病気が治ったことについて、神像に向けて、
「ありがとうございます」
と言うだろう。
それはもう、本当に病気が治ったのだから、ああ、こころの底から全力で感謝するに違いない。
あなたは、
「ウソ偽りない、このわたしの感謝をカミサマに捧げます! ありがとう、ありがとう!」
と声を高めて神像を拝む。
どこからか「うーん……」と首をかしげる誰かの映像が浮かんできそうだ。
これは、わかりやすい話ではあるのに、どこか納得のいかない感触がある話だ。
だから、安心していいというのも変だが、そのような形で安易に奇蹟が起こったり、病気が治ったりすることはない。
仮に、信じて祈り求めることで祝福的な奇蹟が与えられるのだという設定にしたとしても、このような拝み方ではその奇蹟というやつは仕組みとして起こらない。
神像に対し、
「どうかあなたの権威を称えさせてください、そのために、どうぞこのあわれなわたしの体を治してやってください、わたしがあなたの忠実なしもべであるために」
ということなら、ここでは設定上、その奇蹟というのは与えられる。
讃美歌というのは、カミサマの栄光を讃える歌であって、病気が治った人の「よかったね」を讃える歌ではないのだ。
命の人があり、生きている自分があったとして、生きている自分を高めるのに「ハレルヤ!」と言い出すのはいかにもおかしな話だ。
もし、神社の本殿にお賽銭を投げ入れ、それで願い事が叶うのであれば、その装置はまるで「成就の自動販売機」だ。そんな話はあきらかにおかしいだろう。
あきらかにおかしいはずなのに、何がおかしいかはじつはわかっておらず、本心ではそうした自動販売機こそ「ありがたい」「あってほしい」と願っているほど、われわれは愚かしく、生死軸に自らを括りつけている。
どのようにすればこの違和感と愚かしさは解決されるだろうか。このようなことは、もう単なる知性あるいは一般教養としてでも、自らのうちで解決しておくべきだ。そんなに複雑なロジックを要するものでもない。
あなたは人からまんじゅうをもらったら「ありがとう」と言うだろう。
まんじゅう一個でも、生きることの足しになるから、あなたはその感謝を言う。
あなたが神像を拝んだとき、その足下からまんじゅうが一個、転がり出てきたとする。
あなたはどうするか。とりあえずまんじゅうを拾い上げ、「ありがとうございます」と言うだろう。
もういちど拝んでみたら、もう一個まんじゅうが出てきた。
「二個も、ありがとうこざいます」
とあなたは言う。
さらにもういちど拝んでみたら、三個めが出てきた。さらに拝むと、もう一個出てきた。またまた拝むと、またまたもう一個。どうやら何個でも出てくるらしい。
それであなたはまんじゅうをパクパク、何個も食べ、
「いや〜 ありがとうございます。満腹ですよ、さすが神! げふっ」
と言う。
そこからさらに、あなたは思いついて、
「あの、差し支えなければ、持ち帰り用に、あと五個ぐらい拝んでもいいですかね?」
これは何やら危なっかしい感じがしないだろうか。カミサマにまんじゅうをせびって満腹になっていく。そのことをもって「神!」と称える。それは何かがおかしいとわれわれの魂は違和感を告げる。
こんなもの、お金持ちの足許にすり寄っても同じことではないか。
またこのようにも考えてみよう。こんどはあなたが、自分の昼食用に、まんじゅうを三個持ってやってきた。
昼食の準備をしようと、まんじゅう三個をいったん、神像の須弥壇に置いたのだが、ふと見ると、三個あったはずのものが一個減り、二個になっていた。
「あっテメエ、神さまコノヤロウ、神だからっておれのまんじゅうを食いやがったな。神のくせにふてえ野郎だ」
これも聞いていてあきらかにおかしい話だ。あきらかにおかしいのだが、何がどうおかしいかというと、われわれはその違和感を明瞭に説明できない。とりあえず、カミサマに向ける態度やことばづかいじゃないだろうとは断言できるのだが、どうもそれだけではじゅうぶんな説明になっていない。
これは何がおかしいのかというと、彼が拝んでいるのはカミサマなどではまったくないということなのだ。彼が拝んでいるものは彼自身の「生」だ。彼は生死軸に所属していて、その軸の頂点には彼自身の「生」がある。彼は自分自身の「生」を見上げているにすぎない。
彼は、自分の「生」が降って湧いてくることを拝み、そのことじたいを「神!」と言っているのだ。
自分の生が降ってくるということが彼にとって神であって、「命」うんぬんなどというものは、びっくりするほど彼とは無関係だ。
だから、彼の目の前に「命の人」が現れたとしても、そのことは彼にとって何もありがたくない。彼にとってありがたいのは、目の前に自分用の「まんじゅう」が現れるということに尽きる。
もし、彼が神像を拝んでも何も起こらず、近くにあった扇風機を拝めばまんじゅうが転がり出てくるということなら、彼はためらいなく扇風機を拝み続けるだろう。
神像を拝み、その祝福やご利益を求めるふうという、外形上は似たようなことをしていても、彼の内にはカミサマを拝むというような成分はわずかもないのだ。
わかりやすさのため「逆」の話をしているのだった。
「順」の話はどうなるかを考えよう。
奇妙なことだが、ここでの設定上正しく奇蹟が起こる場合、拝むほどに彼のまんじゅうは「減っていく」ということでなければならないのだ。
彼が持参してきたまんじゅうが、神像を拝むごとに一個ずつ減っていく。
それで彼が、こころの底から、
「ああ、ありがとうございます」
と言うようでなくてはならない。
これはなんとわかりづらい話だろう。まんじゅうが減って「ありがたい」という話はない。
このことについては、多くの人はさすがに意味がわからないと苦笑するだろう。
けれども一方で、逆に何かの納得がいく、という遠い直観を覚える人もあるかもしれない。
次々にまんじゅうが減っていって、何がありがたいのか。
このことは、じっさいに体験したことがある人にはわかる。宗教的な話ではない。むしろじっさいにこのことを体験した人は、わざとらしい宗教など要らないときっぱりと言うだろう。
まんじゅうが減るごとに、
「あれっ?」
景色が変わっていき、自分は何か外国のようなところに立っている。
いつもの景色のはずが、ぜんぜん違うところに自分はいる。
「何これ」
スーッと何かが消えていく音がする。
あっというまのことで、理解はとうてい追いつかず、そのことは進行していく。
「えっ、えっ」
身が救われていく音がするのだ。
自分が何かをしているわけではない。
ただ、これまでの「しんどかったもの」が、どこへともなく消え去っていく。
「これまで、こんなにしんどかったのか」
何がしんどかったのかはわからない。ただ、「しんどかったもの」があったらしい。
それが何だったのかも、いまはもうよくわからない。それはいま消えていってしまったので、それが何だったのかは、もう推測するぐらいしかできない。
「わたしは、本当は、こういうことがしたかったのか」
こういうこととは何か。それもうまく説明できない。
まんじゅうが消えて何がうれしかったのか。
わからないが、ただ自分は本当はこういうことがしたかったんだと知って驚いている。
当人が驚いているのだ。
なぜそういうことがしたかったのかと訊けば、彼は、
「わからない」
としか答えられない。彼はもちろん、生まれてこの方、まんじゅうが消えてほしい・減ってほしいなんて思ったことがない。
何もかも、彼の理解が追いつくところではない。彼は消化不良のままこのことを捉えるしかない。
とにかく、じっさいに身に降りかかるものとして、ヤバいぐらい「しんどいもの」があるということ。自分はこれまでずっとそれに囚われていたということ。
その「しんどいもの」を、取り去ってくれる存在があるということ。
その「しんどいもの」は、どうやっても自力では取り去れないもので、そんなものを、一撃で一瞬で、あっさり消し去ってしまう、すごいものが存在しているということ。
彼はそのとき、真に神像を見上げて、
「この人なんだ」
と知り、全身で震える。全霊は歓喜している。
話をわかりやすくするために、ここでは神像という設定にしている。
設定のことはどうでもいいのだ、本質は「ありがとうの逆転」にある。
まんじゅうをもらうことや、まんじゅうを差し出すことは、われわれにとってありふれたことだ。
それに対して「ありがとう」が言われることもありふれている。
ただ、まんじゅうを差し出した側が「ありがとう」を言うという文脈はまずない。
ふつう、まんじゅうをもらった側が「ありがとう」と言うのであって、そちらの文脈はいかにも正常だから、ここで話していることは、「ありがとうの逆転」と呼ぶことができる。
病気が治って神像にありがとうを連呼したという例にあった違和感が、これで解決されよう。
まんじゅうをもらってありがとうというのは、正常だが、祈りでもないし奇蹟でもない。
じっさいの例をふたつレポートしよう。
ある人は、大事な客先に持っていくための高級な菓子を買いに出ていた。ただし、彼女自身の用事ではない。
彼女の友人が忙しくしていて、その菓子を買いに行くヒマもないという様子だったので、彼女のほうから「わたしが買ってくるよ」と申し出たのだ。彼女は自転車で駅前に向かった。
駅前で数店舗を検索したところ、思いがけず品ぞろえは不十分だった。大事な客先に持っていくのにふさわしいものを買おうとしたら、二駅向こうのデパートまで行くしかなさそうだ。自転車で行くにはかなりの距離となる。
「うわ、それはちょっと……」
と彼女は思った。この駅前の時点ですでに日も暮れ始めており、人込みに揉まれてすでに疲労感が蓄積してきている。
けれども、忙しくしている友人のことを思い出すと、彼女はひるがえって、
「いいや、わたしがやりきろう。どこまででも、買いに行くよ」
と決意した。
するとそのときから、彼女の身にはまったく不思議なことが起こったそうだ。彼女はこれまで、何かが根本的に「しんどい」と感じながら生きていたのだが、なぜかその二駅ぶんを自転車で往き、お目当ての菓子を見つけて買い、また復すとき、彼女の身は果てしなく軽く、
「どこまで行っても疲れない」
という状態になったそうだ。
そんなことは、彼女にとって生まれて初めての経験で、
「あの手前で止まっていたら、つまり駅前の時点で引き返していたら、そっちのほうがぜったいにしんどかった。あそこで、二駅向こうのデパートまで行くって自分で決めて、自転車を漕ぎ出したときから、大げさじゃなく人生がガラッと変わった。いままで何もかもが根本的にしんどかったのに、しんどさがぜんぶどこかへ消えていって、本当にこんなことあるんだって驚いた。信じられないようなことだった」
ということだそうだ。
またある人は、かなり長い期間、理由もなく暗い気分に追い詰められていた。まともな学校を出て、まともな仕事につき、すべてのことを頑張っているけれど、いつも夜眠るとき、
「もう朝なんか来なければいいのに」
という思いがしていたそう。それでも朝はやってくるので、寝床で目覚めたとき、
「絶望、で目が覚めるんです」
ということだった。
彼女は、この絶望的なものをどうしたらいいんだろうと、いろんなところに行って勉強しようとしていた。そうして彼女なりの努力も勉強もするのだけれど、けっきょくのところ絶望は消えず、自分から悲しい声や、悲しい表情が出るのを止めることはできなかった。
「とにかく、つらいんです、何がつらいのかわからない、こんなことで騒いだら迷惑だってわかっているんですけど、でも本当につらいんです、どうしたらいいんでしょうか」
それは本当にまったくどうしようもないことだった。原因があるなら解決の方法もあるかもしれないけれど、原因が見当たらないので解決のしようがない。一般的な宗教の聖典もなるべく読んでみたけれど、それが解決をもたらすということはけっきょくなかった。
何かしらの勉強会に出ても、彼女の「つらさ」が先行して、じっさいの現場では勉強どころじゃない、手につかなくて頭に入ってこない、という状態だった。
本当にもう、何もかも終わりなのだろうかと、彼女がほとんど絶望に呑み込まれかけていたとき、彼女に向けて友人が、
「どうしても、何もかも終わりだというなら、この勉強会の資金面でもバックアップさせてもらったら? それだって、参加していることになるし、協力していることになるんだから」
と彼女に勧めてみた。すると彼女は、なぜか急にはっきりとした声で顔を上げ、
「え、いいんですか? そんなこと、させてもらえるんですか?」
と言った。
そのとき周囲にいた全員は、彼女の様子に、
「あれ、なんなんだこの感じは」
と打たれるような思いがした。
直観に聞こえているところに慎重になり、彼女には仮名が与えられることになった。彼女はあくまでその仮名でしばらく勉強会の資金面をバックアップすることになった。
彼女の言うところ、その仮名が与えられて、その仮名の基金を自分が担うことになった瞬間から、
「すーっと、すべてのものが消えていったんです」
ということだった。彼女は身振り手振りをつけて、その消失のときのことを何度でも話す。
「本当にすーっと、すべてが消えていって、わたし本当は、こういうことがしたかったんだって、そのときはじめて知りました」
そのとき以来、彼女が絶望の中で目が覚めること、また絶望の中で眠りにつくというようなことは、一切なくなった。悲しい声や悲しい表情が出ることはなくなり、彼女はむしろどう見ても明るいムードを持ち込むタイプの人になり、その意味ではまったく別人のようになってしまった。
以前は何に絶望していたのか、そしてそれがどのような絶望だったのか、いまはもう思い出すことさえできない。何がつらかったのかと訊いても、何がつらかったんでしょうね? と本人がとまどって笑うことしかできない。
ただ、
「それはとんでもない絶望で、ひたすらつらくて、自分ではどうすることもできないんです。それだけは覚えています」
ということだそうだ。
彼女もまたはっきりと、その瞬間から、大げさでなく人生がガラッと変わったと言うだろう。
そうした現象がじっさいにある。じっさいにあると言っても、測定ができるわけではないし、実験して再現性が確かめられるものでもないので、根拠や証拠が示せるわけではないけれども、かといってこれまで何度も繰り返し起こるこうした現象のことを、証拠がないからといってレポートせずにおくというのも不誠実なことだ。
じっさいの例をふたつレポートした。同じ現象は他にも無数に目撃してきているが、その中でも最も劇的で、その際やかさがわかりやすいものをレポートした。この現象のあらわれ方にはいくつか変形のパターンも見られるように思うが、どれもこれも、いくつかの順序が前後するようなところがあるだけで、現象としては同じもの、仕組みとして同じもののようだ。
その本質は「ありがとうの逆転」にある。端的に言って、<<消耗した側が「ありがとうございます」と言う>>ということ。まんじゅうが減った側がありがとうを言い、体力と時間を消耗した側がありがとうを言い、資金を支出した側がありがとうを言う。
そんなことが有り得るのだろうか、という気がする。もちろん常識的な文脈の中では有り得ないことだ。少なくとも、そんなことが有り易いということはあるまい。そのようなことは、もしあったとしても有り難いことだ。
けれどもわれわれは、そのことをまさに「有難うございます」と言っているのだから、むしろその有り得ないようなことのほうこそが、本来の有難いことなのかもしれない。
生死軸に属するわれわれは、軸上に自分の「生」を見上げている。まるでそれが神であるかのように。
そして誰かからダウンフォースを向けられたときには、ムンを立ち上がらせ、我慢スコアを足して、立場を入れ替えるということをしている。
ムンが「しんどい」のかもしれない。それはそうだ、我慢が「しんどい」のは当たり前だ。
そして自分が、自分の生だけを崇めて、今日も明日もムンばかりを繰り返すということが絶望なのかもしれない。
わたしが本当にやりたかったことはそんなことじゃない、と、自分では気づけないのかもしれない。
スーッと消えていくというのは、ムンが消えていくということの聞こえ方だろう。
消耗する側が「ありがとうございます」と言うのは、生死軸においてはイレギュラーだ。生死軸上、ダウンフォースを受ける側は、悲しみと痛みで傷つく立場にある。死ねと言われるのは悲しく、さらに生を吸い上げられるのは屈辱だった。それを「ありがとうございます」なんて言わない。
消耗する側が「ありがとうございます」と言い出したなら、それは生死軸そのものの破綻を意味している。死ねと言われたら悲しいが、生きろと言われたら励まされる。生を吸い上げられたら屈辱だが、命を分配されたら身に余る光栄だ。それはもう生死軸ではない。
冗談でなく、「身」がギューンと上方へ引っ張り上げられる感覚が起こる。命のほうへ引っ張り上げられ、自分の身の中心に上昇する奔騰を感じ、オオオオオという叫びが起こっているのが聞こえてくる。これまで何もかもにあった「しんどい」はどこへともなく消えていった。自分はこれまでとまったく違う景色の中に立っている。わたしはいまどこにいるんだ、というより、これまでのわたしは何だったんだ。
それが現象の本質であって、その現象を目前に見れば、その中で急にちょっとした病気が治ったとしても、
「そりゃあな」
というふうに、なぜかそれは納得するほうが当たり前のことに見える。
わざとらしく宗教的な設定など持ち出す必要はない。
むかし、急にわたしのところに、
「うなぎをオゴりたくなった」
という人がやってきて、とにかくわたしはうなぎをごちそうになったのだが、その後その人から、
「あれ以来、持病だった不整脈が治った!」
という連絡を受けたことがある。
たしか文末に、「とにかくありがとうございます!」と書いてあったっけ。
いまにして思えば、病気が治ったというより、ムンで病気が起こっていたところ、ムンが消えたので病気も消えたということなのじゃないかと思う。
消耗した側が「ありがとうございます」と言う、あるいは、傷ついた側が「ありがとうございます」と言う。
ありがとうが逆転するとき、生死軸は破綻し、ムンは消失する。
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