ムン
生死軸の例外が「かわいい」という現象
昼間に空を見上げれば太陽があるはずで、あなたがそれを見上げたら、そこにはあなたの太陽があるはずだ。
太陽というのは不思議なもので、人それぞれ見上げればそれが「わたしの太陽」に見える。にもかかわらず、その太陽は他の誰に対しても太陽のはずだということが理屈でわかっているのだ。誰に対しても同じ平等な太陽のはずなのに、われわれはそれを見上げたとき特別な「わたしの太陽」とも体験する。
そしてさらに奇妙なことには、その太陽は自分にとって宇宙で一番身近な存在のようにも感じるのだ。それでいて当然、太陽はわれわれから最も遠いところにあり、どのようにジャンプしてみても最も手が届かず、何をどう努力したところで横並びにはなりえない高さにある。そうして一番及ばないものでありながら、生涯を通して最も身近な存在でもあるのだ。最も失いようのないものでありながら、最も手に入りようがないもの。
この太陽にかかわる体験の謎は、逆に身近すぎるがゆえに考えるのを後回しにして、おそらくわれわれは最後までその謎には取り掛からないのだろう。それでもなお、太陽はこちらを見捨てることはせず、そっぽを向くとしたら太陽ではなくわれわれのほうだ、「わたし」がそれに背を向けるということがあるだけだ……
仮に太陽が命の存在であるとすれば、われわれは太陽に「命じてください」と求めればよさそうなものだ。太陽はわれわれに向けて「生きろ」と言い続けているだろう。それがリフトフォースとダウンフォースだが、それぞれのフォースは自分の所属する軸によって翻訳されるので、太陽の側がどうであっても、われわれはわれわれの側でそれぞれの翻訳をする。するといっそ面白いことに、生死軸にいる者にとっては、太陽が自分に向けて「死ね」と言っているように聞こえるということになる。太陽がこちらの生を吸い上げて、そのぶんお前は「死ね」と言いつけているように聞こえるのだ。
馬鹿馬鹿しい話に聞こえるかもしれないが、歴史的に太陽神に「いけにえ」を捧げてきた民族は存在したのだ。いけにえを捧げるというのがじっさいどのような魂の光景だったのかはわかりようがないが、もし単純に太陽が「生きろ」と命じていると聞こえていたならば、そう安易に人々は「いけにえ」という死の儀式を敢行はしなかったはず。
吸血鬼ドラキュラは太陽の光を浴びたら砕け散ってしまうが、太陽の光を浴びず、夜に人の生き血を啜り続けるうちはずっと生きていられるのだ。
人々がこれまで太陽のダウンフォースに「生」を聞き取ってきたか「死」を聞き取ってきたかは定かではない。
かつて、ウェブ上で見かけたコメントでわたしが面白いなと思わされたものがある。アニメ映画「耳を澄ませば」を観た人々が、一部にはっきりとした傾向として、
「死にたくなる」
と言い出したことがあったのだ。わたし自身にはその感覚はなかったけれど、言われてみるとどこか、なるほどな、という感触を覚えもした。
まぶしすぎるから死にたい、というようなこと。まぶしすぎるものを直視させられて、何かが砕け散りそうだ、死にたい、というようなこと。どれだけ背伸びしても、ジャンプしても、手の届かない世界。それを最も親しく見せられて「死にたい」と思うことがあるようだ。
太陽にせよ世界にせよ、そのダウンフォースがどのようであるかというより、そのダウンフォースを翻訳するのはけっきょくわれわれの側だということのようだ。わたしは「わたしの太陽」としては、わたしに死ねと言っているようには聞こえないので、ひとまずわたしとしては、太陽は「生きろ」と命じているということで話を進めよう。
太陽あるいは世界そのものに命があるとして、そのまぶしい命はやはりわれわれに「生きろ」と命じている。けれどもそれは異軸翻訳されるから、生死軸の者には「死ね」に聞こえる。
「世界は自分に死ねと言っている」
「だから、正直に言えば、死にてー」
もしそのように聞こえている人が思いがけず多いのだとしたら、われわれはいよいよ、
「みんなどうやって生きているんだろう?」
ということを考えていかなくてはならない。
朝起きた瞬間から「死ね」と言われっぱなしで、夜寝るときまで変わらず、さらに翌日も翌々日もそれは変わらないとなれば、生きていくことに活力やよろこびなど持ちようがない。太陽も世界も風も雲も、木々も花々も、小川のせせらぎも山の稜線も、自分に向けて「生きろ」と言っていてほしいものだ。そのすべてから一斉に「死ね」と言われ続けるのはさすがにごめんこうむりたい。
「生きろ」と言ってもらえること、そう命じてもらえることが必要で、特に年齢の若いうちはそうしたものに励まされる必要があるだろう。「生きろ」という声。その声を聞き取ることができれば、いまふうに言うところの「元気がもらえる」ということがあるかもしれない。元気というのは「元の気」だから、本来はヨソからもらうものではないけれども、ここではそういう意地悪な言いようは控えよう。ここでは「いわゆる」元気がもらえるもの、ということで話を進めたい。
天の太陽の次は、地下に目を向けてみるとして、たとえば地下アイドルでも、人気があるのはファンたちにとって「元気がもらえる」存在だからだろう。Vtuber などに至っては、もはや合成されたイメージであって当人というものじたいが存在しないアイドルだが、それでもかまわないしむしろ新しくて良いというふうに多くのファンを獲得している。それもやはり、じっさい「元気がもらえる」から人気があるのだろう。
そしてなぜ元気をもらえるかというと、アイドルが「かわいい」からのようだ。そのように取扱説明書に書いてあるわけではないが、どうやら「かわいい」ならば「元気がもらえる」という因果関係があるらしい。そこは、状況から見て明らかな蓋然性だけでよいだろう。たしかに、竹やぶに祀られているお地蔵様を眺めていたからといって元気をもらえるわけではないだろうけれども、一方でなぜ「かわいい」なら元気をもらえるのかについて、これまでよく考えられているわけでもない。
「握手会に行って、推しから『がんばってね』って言ってもらえて、またそれが超かわいくて、ものすごい元気もらった、生きがいだわ」
太陽から「生きろ」と言ってもらえて元気がもらえるならそちらのほうが安上がりでよいだろうが、そうもいかず、太陽が「生きろ」とは言ってくれないので地下に通ってアイドルのパフォーマンスを観る。その会場まで足を運び、グッズを一通り買うというようなコアなファンでなくても、いまやアイドルの「推し」なり「担当」なりを持っているのは若年層においてごく一般的なことらしい。そしてじっさいに、そこから「元気をもらっている」という向きはすでに既定のこととしてあるようなのだ。
わたしがわたしの年齢で「推し」を持っていたとしても若い人たちはわたしを笑わないだろうが、わたしが「太陽が生きろと言っている」などと言い出せば、そのときこそ彼らはわたしのことを笑いそうだ。それはまったく健全なことだと思うしわたしも逆の立場だったら確実にそうしたと思うが、それはともかくとして、なぜ「かわいい」なら「元気をもらえる」のかはやはりあるていど解明しなくてはならない。
生死軸において、下向きには「死ね」のダウンフォースが出るのだから、アイドルに対してファンたちは、下の立場にあってはいけない。かといって平等というのも変なので、つまりファンたちはアイドルたち、特に「推し」に対しては、自分(たち)のほうが上にあるという感覚があるはず。自分たちが上にあるからこそ、その対象アイドルを「推し」と言うのだろうし、推しに対して「応援している」という言い方になるのだろう。
野球のチームがあったとして、監督が若い選手を「推す」ことはありえても、若い選手の側が監督を「推す」ということはありえない。われわれが立候補者から誰かを推して議院に選出するのは、われわれの側が主権者であって上位だからだ。為政者の側から「キミを国民として推そう」というような発想があっては不気味でたまらない。子供のピアノ発表会があれば、母親は自分の子を「応援」するだろうし、現代では舞台上のパフォーマーより観客席の消費者のほうが上という感覚があるのだろう。
二十年前には、アイドルグループのセンターを「選挙」で決めるというような発想はなかった。選挙があるということは、有権者があるということで、それが民主的であるならば主権は民たちの側にある。そうしてファンの側に主権があるのであれば、たしかにアイドル側からファンの側へ「死ね」のダウンフォースは発生しないことになる。そのことの安心感をもって、ファンたちはライブ会場に足を運んでいるのかもしれない。
ただそれではここに疑問が残る。それは、ファンの側が「上」なのであれば、こんどはファンの側からアイドルの側へ「死ね」のダウンフォースが起こってしまうはずだということだ。わざわざライブ会場に来て「死ね」をぶつけるようでは、まともにライブ活動などやっていられない。若いころのボブディランのライブではないのだから。
この疑問については単純な解答がある。ファンたちからアイドルに向けては「死ね」のダウンフォースは発生しない。それは「かわいい」からだ。子猫などを見ればわかるように、「かわいい」というのは弱い者のほうに発生するものだ。母親にとって子供はかわいくても、子供から見て母親をかわいいとはあまり言わない。老人になって完全に腰が曲がり、髪の毛のすべても真っ白になっていったというなら話は別だが、それにしても「かわいい」は基本的に弱い方に発生するのだ。
たとえ生き死にの戦争をしている真っ最中の兵士たちでも、戦地で民間人の子供たちを見て、その子供たちが「かわいい」ものに見えた瞬間、彼らの銃口はその子供たちのほうには向かなくなる。子供たちも武装しているかもしれないが、兵士たちは全力で、子供たちに「余計なことをするな、じっとしていろ」と命じるだろうし、そのように全力で念じるだろう。
生死軸・生きもの・体の中で生じるイレギュラーの現象がこの「かわいい」だ。小さくか弱いうち、強者の庇護を求める本能的シグナルを発信できるように造られている。また大人の側も、それを強く受信してしまうように造られている。山で獲物を捕る猟師も、まだ敵意や危険を知らずこちらに寄ってきてしまう子供の動物は狩猟の対象にせず、大きな声を出して追っ払う。
とはいえ、われわれが堪能しているアイドルやアニメの「かわいい」には、ある種の警告音が鳴り響いているように思える。なぜなら本来の「かわいい」は、じっさい子猫のように強者の庇護が必要なか弱いものが生をなるべくまっとうするために具えられたシグナルの機能であって、それを「かわいいは作れる」という発想から模造して使用することは、咎(とが)に及ぶ可能性があるからだ。
子猫がニーニー鳴けば、母猫は乳を与えにやってくるだろうし、それどころか異種のわれわれヒトでさえ、猫用ミルクを与えようとして割と必死にやってくるだろう。仮にそのシグナルを発生させる装置を自分の体内に仕込むことができたとして、その装置のボタンを押して本当によいものだろうか? そのボタンを押せば、食事も衣服もあたたかい寝床も、誰かが必死で与えようと持ってきてくれて、さらには欲するならアクセサリーや花束や、目立ってちやほやされる立場なども与えようと必死になってくれるとしたら、そのボタンをわれわれは本当に押してよいのだろうか。
さらには、そうした一方的な献身は、そのボタンを押すことでしか自分には与えられそうにないというとき、果たしてわれわれはすべてをあきらめて、そのボタンと装置をいさぎよく放棄し、解体することに向かえるのかということにもなってくるけれど……
われわれはこの「かわいい」について考えるべきことを残している。もう少し考え進めてゆくとしよう。
われわれはなぜ、作られた「かわいい」を見下ろして「元気をもらう」と言い出すのだろう。
太陽を見上げて元気をもらうということなら、こうした話は必要なかったのに。
太陽は彼に「生きろ」とは言ってくれなかったか。
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