第五講 わざとらしさが横行する/現代と恋愛
現代の用語というと、「萌え」や「リア充」が目立ちます。「婚活」や「○○系男子」というのもよく聞きます。「勝ち組」「セレブ」という言い方はもう常用ですし、「雰囲気イケメン」といったような工夫した言い方もあります。今や七夕の短冊にも、子供の字で「セレブになりたい」と書かれていることは少なくありません。「女子会」は今でも活発のようです。
これらの現代の用語は、ただひとつ、「わざとらしい」という一点で共通しています。なぜ「わざとらしい」かというと、自意識から生まれた用語だからですね。「わざとらしい」という前に、まず「わざと」という言葉があります。これは「故意に」という意味ですから、「自意識で、意図的に」ということを指しています。時代が自意識の時代になるにつれ、用語も自意識出身の用語に切り替わっていたというところです。ただそれは、冷静に見てみれば誰から見ても「わざとらしい」のでした。
「わざとらしい」という言葉には、改めて注目すべき価値があります。わざとらしさを生み出すのは自意識ですが、それを「わざとらしい」と見抜くのは脳のはたらきです。もしあなたが、自分はわざとらしい人間でよいというなら、この話は必要ではありませんが、そうでない限りは、このことはしっかり講義する必要があるようです。それでは講義を始めましょう。
自意識は「行為」する。脳はただ「はたらき」を持つ
「びっくり箱反応」と、僕が呼ぶ現象についてお話しします。きわめて簡単な話です。ですが、簡単なだけにわかりやすく、誤解のしようもないので、改めてお話しします。
あなたがびっくり箱を開けると、中からバネ仕掛けのおもちゃが、音を立てて飛び出してきます。あなたは「うわっ!」となる。それを見て、周囲は笑います。これが"びっくり箱反応"です。なんの珍しさもない、当たり前のことですね。
では、もう一度、まったく同じことをやってみたらどうでしょうか。あなたがもう一度びっくり箱を開けます。たいてい、茶筒などの日常品に似せて、それは作られています。それを開けると、やはりバネ仕掛けのおもちゃが飛び出してくる。あなたは「うわっ」と言います……が、あなたはもう、それがびっくり箱であることを知っています。あなたはもうびっくりすることはできないので、びっくりした「ふり」をしています。
こうすると、周りは誰も笑ってくれません。少々の演技なんかしても無駄で、それはただ「わざとらしい」と、周囲の顰蹙(ひんしゅく)を買うだけです。
この当たり前のようなことをちゃんと見てみましょう。なぜ表面上はまったく同じことをしているのに、「びっくり箱反応」は笑ってもらえて、その「ふり」や「演技」ではまったく笑ってもらえないのでしょうか?
それはやはり脳と自意識との差によります。脳に触れられることがよろこびだと前回お話ししました。びっくり箱は、あなたの知らないところで、いきなり飛び出してくるので、自意識が入り込む余地がありません。ただびっくりします。その「びっくりする」というのは、あなたの自意識の仕事ではなくて、あなたの脳の「はたらき」なのでした。
一方で、びっくりした「ふり」というのは、あなたの自意識の仕事です。あなたが「自然に茶筒を開けるふりをしよう」「そして驚いたふりをしよう」「うわっ! と声を出そう」と、意図的に、企んで、その「行為」をしています。この「行為」というのが自意識の仕事です。
今、あなたに、「慌てて後ろを振り向いてください」とお願いしたとします。あなたは一応、それっぽい演技というか、それっぽいフリをしてくれます。「慌てて後ろを振り向く」という演技です。
それはなんとなく、よく出来ているように見えます。見えなくもない、という程度ですけれど。よしそれで、合格、と僕が言います。ところがそのときあなたの後ろで、大きな花瓶が棚から落ちて、「ガッシャーン!」と割れました。
そのときこそあなたは、本当に"慌てて後ろを振り向き"ます。それに比べたら、先の演技など、やはりわざとらしいものでしかないのした。
「慌てて後ろを振り向くという"行為"」は、自意識の仕事です。ですが本当に「慌てて後ろを振り向く」というのは、あなたの反応で、あなたの脳のはたらきによります。ガッシャーン! という音が、ただちに危機的な、急いで確認すべきものだと、脳が判断するので、脳があなたを振りむかせるのです。脳の情報処理能力が自意識のそれとは比べ物にならないというのは、もうお話しする必要はないでしょう。
自意識は「行為」をします。一方、脳はただ「はたらき」を持っています。あなたがその「はたらき」によって動かされるとき、あなたは「わざとらしくない」のでした。
脳がワッとなるということ
びっくり箱を開けたとき、あなたの脳は「ワッ」となっています。心身に浴びた情報を丸々受け取って急激に処理している、その感触が「ワッ」という感じになります。詳しくはまた次回の講義でお話しする予定ですが、あなたの脳がそこに「ワッ」となり、活躍しているということは、周囲の人の脳にも「見える」のですね。あなたの脳の「ワッ」が、周囲の人の脳にもちゃんと届いている、という感じです。そして「脳に触れられるのがよころび」ですから、みんな笑います。あなたの脳と周囲の脳が交歓したと言ってよいでしょう。
一方で、自意識のほうで、その「演技」をした、びっくりした「ふり」をした、というのはどうでしょうか。自意識は脈絡の機能を持つと申し上げました。脈絡というのは、「何も知らず茶筒を開けるならこんな感じだろう」「そして驚くという挙動はこんな具合だろう」「驚いたときはウワッと声を出すだろう」というような脈絡です。あなたはその脈絡どおりに演技をするのですが、これは脈絡なので、周囲の脳ではなく自意識のほうへ届きます。周囲は、あなたの脳がワッとなった「びっくり」ではなく、「びっくり箱+わたし=びっくりした挙動」というような脈絡式を実演で見せられているように感じるのです。何もその数式が間違っているわけではない。間違っているわけではないのですが、それは脈絡なのでひたすら自意識にしか届かないのでした。
ウソ泣きなんかが典型的にそうですね。「わたし、そんなひどいこと言われたら、泣いちゃう」と言い、両目に手を当てて「ふえええーん」と泣きます。「ひどいこと+女の子=泣く挙動」という数式の実演です。わざとらしいも何も、ウソ泣きはれっきとした「わざと」です。その自意識の「わざと」が、周囲の自意識に、いっそ"ちゃんと"届きます。それでも涙が出ていれば一応泣いていることにはなりますが、脳がワッとなったり、脳に触れられるよろこびがあったりはしません。向こうの自意識に、「あーあ、泣いちゃった」と届くだけです。
「脳がワッとなること」は重要です。まさに要(かなめ)だと言ってよいでしょう。ある朗らかな人が、友人であるあなたを見つけ、「おーい!」と呼びかけてくる。伸びやかに手を振ってくる。顔が笑っている。そういうとき、彼は「笑顔になろう」としてそういう行為をしているのではない。あなたを見つけ、脳がワッとなってしまい、笑顔になってしまうのです。だから彼の笑顔はあなたにとって嬉しい。彼は「わざと」そうしているわけではないので、わざとらしくはない。それで彼の笑顔や身振りはあなたの脳に届きます。脳に触れられるよろこびがあります。あなたが彼の笑顔につい笑ってしまうのは、社交辞令とか空気を読んでとかのことではありません。びっくり箱反応に人が笑ってしまうのと同じ原理で笑ってしまっています。
自意識は「習慣」になる
悪徳商法のセールスは、自然な笑顔を見せることに慣れています。彼らこそ、それを持っていないでは商売にならないでしょう。ですが、彼らのその一見自然に見える笑顔は、本当に"自然"でしょうか。そんなことはありえません。ありえないのですが、同時に、彼らの笑顔が一見"自然に見える"のも事実です。
なぜこのようなことが起こるかというと、自意識は繰り返しによって「習慣」を得るからです。「くせ」と言ってもよい。初めはきっとぎこちない作り笑顔だったでしょうが、繰り返しているうちに、自意識はそのパターン行為を覚えます。とにかく客に会ったら笑顔になる、という「行為」。それが習慣によって"自動的"になる。これは彼の職業的な技術であり、訓練によるものであり、また政治的な技術でもあります。
そして悪徳商法のセールスでなくても、あなたに向けられる笑顔と、またあなた自身誰かに向ける笑顔には、そのような習慣のものがありえます。強引にまとめて言えば、笑顔には三種類があると言ってよいでしょう。「脳からの笑顔」と「ぎこちない、意図的な作り笑顔」と「自然に見える、習慣的な作り笑顔」とです。
ですが、いくらそれが一見自然に見えたとしても、やはり作り笑顔は作り笑顔です。いっそ作りすぎた笑顔というべきで、多く本人もそれがもう自分の本当の笑顔なのか作り笑顔なのかわからなくなっています。この習慣に完成させられた作り笑顔を、それでも「わざとらしい」と見抜くのは何かというと、やはり脳のはたらきでしかありません。いくら習慣で完璧に見えたとしても、それが脳に届いてくるかというと届いてこない。笑顔なのでひとまずの安心感はありますが、そこによころびがあるかというと、やはり無いのです。びっくり箱反応にあるような、こちらがつい吹き出してしまうというものがない。
所詮、自意識の「行為」、いかに手馴れていたとしても、作り笑顔なのですから。脳がその程度のことでだまされることはありません。いくらそうして習慣で完璧な笑顔を作り上げたとしても、それが脳から起こっていないということはすぐにバレます。笑顔のパターンが数パターンしかないからです。喜怒哀楽、どのパターンを取ってみても、数は限られています。我々が箸の持ち方を何千パターンも持てないようにです。たとえば、「いい天気ですね」と話を向けてみたときに起こる笑顔と、「鼻毛を切っていたら鼻の中ケガしたわ!」と話を向けてみたときに起こる笑顔とで、あまり差が無い。脳につながっていないので、脳の変化に笑顔が変化しないのでした。
そのように、脳は結局だまされないのですが、それは逆に言えば、脳が弱ければだまされてしまうということです。
わざとらしさが横行する現代
「リア充」であるとか「萌え」であるとか、「婚活」「女子会」「○○系(癒し系とか和み系とか)」といった表現は、時代に現れてきた当初、そのわざとらしさから嫌悪されました。けれども次第に慣れてきた、慣れてきて一般的になってきた、という気がします。でもそれは単なる慣れだけではありません。そこには、脳が弱くなることで、わざとらしさの読み取りが出来なくなってきた、ということも平行して起こっています。
昔から、美男子、優男、二枚目、ハンサム、伊達男、色男、そういった眉目秀麗な男性は、女性に当然の人気がありました。かといって、女性は同時に、彼がキザであったり虫の好かない男だったりすると、逆に彼を軽蔑もしたのです。「カッコツケ」という表現に覚えがありませんか。少し前はそういう言い方をしました。たしかに顔は整っているかもしれないけれど、それを鼻にかけている、「わざとらしい」、そういうものを「彼はカッコツケだわ」と否定してきた。それは彼の姿が、整えられているだけで、男らしい脳につながってないもの、「自意識君だね」、という厳しい指摘でした。
もし、その「わざとらしさ」を見抜く脳のはたらきが弱っていれば、女性はその「カッコツケ」と本当に魅力的な美男子との区別がつかなくなってしまいます。いやいや、カッコツケがわざとらしくないなら、どんどんカッコツケをしたほうが、彼はきゃあきゃあ言われてモテることができます。人気商売なら当然そちらを採るでしょう。凛々しい眼差しの男性が女性をドキッとさせるのは当然のことです。ですが、それが「わざと」でもバレないということなら、別に脳から凛々しくなる必要もない、ただ凛々しい「ふう」の目つきを、形だけなぞればよいのです。そんなものは鏡の前で三分も練習すればだいたいわかる。はじめはぎこちなくても、習慣になれば「一見自然に見えるようになる」とお話しました。
どれだけ報道が警告しても、あいかわらずご年配がオレオレ詐欺にひっかかる被害は減らないようです。おかしい話だと思いませんか。いきなり息子や孫から電話が掛かってきて、何のあいさつもなしにいきなり「お金がいるんだ」と。仮に、電話口で息子や孫の声がわからなかったとしても、脳が健全なら、いくらなんでも「わざとらしい」と気づくはずです。ところが脳が弱っていると、そのわざとらしさに気づけません。犯人らはその芝居に慣れているのでしょうから、きっとその語り口はぎこちなくは無いのでしょう。でもぎこちなくなくても作り物は作り物です。オレオレ詐欺や振り込め詐欺といった類が横行できるのも、わざとらしさが「わざとらしい」と見咎められず横行できるということが土台にあります。
「萌え」であれ何であれ、僕は人の趣味にケチをつけるつもりはありませんが、いかにもわざとらしいものがわざとらしいと見えないなら、それは単純におかしいと思います。そのわざとらしさが逆にいい、というなら話はわかる。僕の趣味ではありませんが、そういう趣味の人もいらっしゃるでしょう。ですが、たとえばアイドルで言えば、本当に「控えめで清楚で弱気で臆病」だったら、そもそも自分からそんな世界へのオーディションに踏み入ったりしないでしょう。控えめで弱気な職業や、その道筋を、少なくとも選ぶのではないでしょうか? 僕はいわゆる典型的なオタク向けアイドルであったとしても、その女性がたくましい精神で活躍されているなら、そのことには尊敬の念を覚えます。ですがそのパフォーマンスが「わざとらしい」ものだったら、そのわざとらしさに気づくな、と言われても、それは僕には不可能なことです。僕に不可能というより、人間の脳には不可能なことです。人の本当の笑顔を受けて、よろこびを覚えるな、笑うな、と言われているのと同じですから。それは人の脳には不可能なことであって、本来、あなたの脳にも不可能なことです。
あなたの脳に問います。「リア充」といって、ありふれた会合をイベント仕立てにし、その写真を撮ってSNSに見せびらかすというようなことは、本当の本当に、「わざとらしい」と感じていらっしゃいませんか。大きな声でイエーイと言い合うこと、カメラに向けてVサインを揃ってするようなこと。「マジうぜえ」と大声で言って独特の雰囲気を作る男性のこと。「超ウケるんですけど」と言い、「ウチらリア友だからさあ」と言うようなこと。それらは本当に「わざとらしくない」ですか? 「マジうぜえ」という彼の声が、ただの手馴れた「習慣」の口調でしかなく、彼の腹には何も燃えたぎるような怒りなどないということを、あなたは本当に見抜いていらっしゃらないか。サッカーの試合ごとに異様な雰囲気になる渋谷の夜は本当にサッカー・ナショナリズムに対する熱狂なのか。「わざとらしく」ないのか。ライブ会場で無理やり「盛り上がってこーぜー!」とパフォーマーが言い、「イェーイ」と仕込まれたように答える儀式のようなもの、それは本当に「わざとらしく」ないのか。
わざとらしくても、そのように遊んでいるのだ、と言われる場合については、そのことには僕は何も申し上げません。それはここでの講義に該当するテーマではなくなりますから。趣味の問題だ、とここでは済ませてしまってよいでしょう。ただ、あなたの脳と自意識をテーマにして話しています。あなたの脳は、そこに自意識行為の「わざとらしさ」を本当に見抜いていらっしゃらないか。見抜いていない、わざとらしいとはまったく思わない、と言われるのであれば、僕はこの講義において、あなたの脳は弱っている、全体的情報を心身に浴びていない、と指摘せざるを得ません。そして、「本当はわざとらしいと思っている」というのであれば、何も問題はなくて、ただあなたが日々ずっとウソをついて過ごしているというだけです。○○のフリ、というのをずっと続けていらっしゃる。ずっと、自分でもわざとらしいとミエミエに思える、何かの芝居を続けていらっしゃることになります。それがなぜなのかという、理由は、きっと僕よりあなた自身のほうがご存知でしょう。
前回までの講義で、「巻き込まれる前提で」というお話しをしてあると思います。それらがいかに「わざとらしい」ものであったとしても、そのような形態がすでにあるというのが事実で、それにいくらか巻き込まれないではいられないというのも事実です。ただ巻き込まれた上でどうするかというお話しでした。巻き込まれて、一緒に沈んでよい、という話ではありませんでした。あなたが最終的にご自身を、わざとらしい人間にしたくないと言われる限り、あなたは巻き込まれながらも、窒息死してはいけません。脳に酸素を送り続けるために秘密の呼吸を続けていくよりないのでした。サッカー日本代表が勝利したとき、そのサムライの戦いぶりに感激したなら、お酒を呑んで大騒ぎするだけが感動の仕方ではないと思います。たとえば受験生が震えるようになって、テレビ中継をプツッと消し、「自分も今の自分の戦いをつらぬく」と、静かな決意で学習机に向かうことも、あってよいはずです。「もう誰に話す必要もない」「だからもう誰も話しかけないでくれ」と。それは彼がサッカー日本代表に「勇気をもらった」ということではありませんか。あなたの脳がどちらによろこびを見つけるか、またあなたは本当にはどちらと付き合ってゆきたいか、少なくともあなたがあなた自身にウソをつかれることだけは、されないようにお願いしたいと思います。
***
第五講は以上です。お疲れ様でした。
この第五講は、短くまとめることができましたが、重要な講義でした。一連の講義の中で、一つの本丸であったと言ってもよいと思います。現代と恋愛という大タイトルの中で、「わざとらしさが横行する」ということをピックアップしました。恋愛でいえば、本来、わざとらしさは大敵のはずです。いかなるロマンチックの風情も、そこにわざとらしさが見えたら途端にしらけます。しらけるどころか女性は軽蔑さえする。ところが、そのわざとらしさがバレないのだとなれば、もうわざとらしいことをやった者勝ち、みたいになってしまうのでした。でもそのわざとらしさというのは、自意識の「行為」であり、意図的に、そう狙って、わざとやったことに過ぎないのですから、彼の脳につながったものではない。言ってみれば聞きかじりでもできることですそれは。「こうするとロマンチックだよ」という情報誌か何かのパケット情報を真に受けて、それでロマンチックを意図的に"行為"してみる。これが女性にウケたら男性側はシメシメですが、それ、彼が自分であなたのために考えたものじゃないんです。それはいくらなんでも興ざめだと思いませんか。情報誌やインターネット相談でアイディアを借りてきてなぞるなんて、それのどこが「ロマンチック」なのかと問いただしたいところです。ロマンチックの真逆を行っています。だいいち、脳の弱りきったロマンチックなど見たくもありません。
自意識は「行為」をするということ、脳はただ「はたらき」を持っているだけだということ。このことを忘れないでいてください。あなたは本来、人に対して「行為」なんてわざとらしいことを、ほとんどする必要がありません。脳からあなたに笑いかけてしまう人のように、あなたが脳を健全にされて、脳が「ワッとなる」のであれば、その脳はあるていど勝手にあなたに本来の振る舞いをさせるように、もともと機能を持っています。"アピったり"しなくても、あなたは女として男性にアピールを起こすはたらきを本来は持っているのです。
仮にあなたの結婚式で、二人のなれそめを僕がスピーチするとします。そのとき僕が、「彼女は萌え系から癒し系に転向し、そこにちょっと天然を入れることで、愛されキャラとしてリア充の仲間入りができるようになりました。彼女は空気をちゃんと読める系です。またその後、女子会で婚活をマイブームにすることを教えられ、彼にアピることを繰り返し、今こうして雰囲気イケメンの彼とゴールインして勝ち組となったのです。彼女はリア友からマジリスペクトされています。彼女はこれから子供にキラキラネームをつけてママ友を増やし美魔女になってゆかれることでしょう」とスピーチしたらどうですか。とんでもない侮辱だと感じられませんか。でもこれらの用語は僕の使う用語でなく、どちらかというときっとあなたか、あなたの周囲が使う用語群です。それらの用語群が侮辱性を持っているのは、別に披露宴のスピーチに限りません。
なぜか自意識はこれらの用語を使うのが大好きで、これらの用語を使うのをやめようとはしません。それがなぜなのかというのは、見つめなくてもこの先にますます勝手に見えてきます。それでは引き続き第六講へどうぞ。
→第六講 脳は見えるものについていく へ進む
→このページのトップへ