第八講 陶酔がよろこびに取って代わる/現代と恋愛
あなたは脳に起こる営みと自意識に起こる営みとを、はっきり区別されるべきです。現代と恋愛という大タイトルでお話ししていますが、現代が自意識の発達する時代であり、脳が弱くなる時代であるにも関わらず、あなたは脳の営みとしての恋愛に到達するべきだというのが、この講義のつまるところの結論です。脳に起こる営みにしか、営みのよろこびは無いのでしたね。それを、よろこびのないまま形式だけ恋愛を営んでも不毛なことです。「リア充」の要件をいくら整えても、そこに営みのよろこびが無いのでは、何が充実しているのか、わけがわかりません。
脳に起こる営みと、自意識に起こる営みとを、あなた自身で峻別するには、あなたはその両方をよく知らなくてはなりません。そこで、脳に起こる営みはどのようであるかを、先ほどの講義でお話ししました。今回はその裏側、自意識に起こる営みの"本性"はどのようなのかについてお話しします。
ところで、このような「現代」の仕組みは、いつから、何を端緒にして、始まったものなのでしょうか。明確な断言は誰にもできないと思います。ですが、本講義では、それが1995年ごろに始まったと、指摘する予定です。現代を実際に生きる我々にとって、過去のことは関係がありませんが、それでも「現代と恋愛」を把握するのに、過去からの変遷も踏まえた構造的理解は、あるていど必要だと思われます。そのことは、次回の講義に話され、講義全体の締めくくりとなるでしょう。今回の講義はその次回の講義まで繋がっています。
それでは講義を始めましょう。
自意識の正当な営み
前回の講義でも、自意識の「仕事」についてお話ししています。自意識には正当な仕事があり、自意識には自意識の、正当な営みがあります。それは人間独自の営みであり、他の動物にはない営みです。また、典型的には、ロボットで代用が利くようなものや、IT革命・インターネット通信で利便が増すようなものは、自意識の営みだと言えます。代表的なものは役所の手続きです。これは本当には、役所のホームページで全て済ませられるほうが、本当は都合がよい。新聞を読むというようなことも、他の動物には無い、人間独自の営みです。新聞などは、典型的に情報「数」を必要として読むものです。ですからこれは、オンラインのウェブニュースに取って代わったほうが利便が増すところがあり、事実としてその移行は始まっています。「この薬にはどのような薬効があるか」であるとか、「サラダ油は大さじ一杯で何カロリーあるか」であるとか、そういったことはパケット情報なので、IT革命が正当に利便を増してくれました。今、日本の端から端へでも、電車で行くにはどうすればいいか、どれだけの時間と電車賃が掛かるのかを、オンラインITが即座に回答してくれます。とはいえもちろん、パケット情報の複雑化したものには、まだまだIT化の実現していないものがありますから、それについては専門家が必要なのでした。法律の条文はインターネットで即座に調べられますが、「このような事件について過去の判例はあるだろうか?」というようなことは、まだ専門家の糸口なしには調べることができません。専門家には専門家のITデータベースがあるかもしれませんが、それを利用するのにも、まだまだ専門家の専門的な知識が必要な段階です。まだスマートホンに向かって「法律相談」ができるところまではIT技術は進化しきっていない。
いわば、「未来には、スマートホンに相談すれば、それだけで片付くだろう」というような用事の全ては、自意識の営みだと言えるでしょう。「ドライ・マティーニのレシピは?」と聞くだけで、スマートホンが即座に回答してくれるというようなところに、すでにIT技術は到達しています。
年賀状などは、ビジネス上の礼節として保存されているものを除けば、現在はほとんどオンタイムでの「あけおめ」メールに取って代わられました。このあたりまでは、自意識の営みだと見ていいでしょう。微妙なところですが……これが「手書きのラブレター」になってくると、そろそろ話は変わってきます。手書きのラブレターをもらったとき、その文言をテキストデータに打ち込みなおし、原本は捨ててしまっていいとは、人はなかなか感じません。精密にスキャンしてデータを保存すればよいかというと、なかなかそうも割り切らない。それは、手書きのラブレターには手書きの味……というより、その便箋に直接手で触れることができる、そのページをめくってゆくことができる、ということが重要です。物品の直接の感触を受け取るのは脳ですから。脳の立場になって捉えれば、脳はその封筒と便箋と綴られたインクと文字とを、分解して受け取っていません。全体的情報としてその「ラブレター」を受け取っています。これを失うのが惜しいので、人はそれをデータ化して保存すればよいとはなかなか割り切らないのでした。それは割り切るも何も、脳の立場になって考えれば、データ化したそれと手で触れられる便箋とはまったくの別物です。デジタルデータは劣化しませんが、劣化しないというのは、つまり本当にはそこに実物など存在しないからに過ぎないのでした。この実物でないデジタルデータを嘗め回していても、脳はずっと飢餓状態で退屈しています。
手書きのラブレターであれば、そのように、文面も含めた、一通の「作品」として、人はやりとりします。だからこそ、受け取れば貴重に感じられますし、そのぶん、いざ作って贈ってみようとすると、とても難しいのでした。
自意識の正当な仕事は、「データでよい」「データのほうがよい」という仕事です。たとえば、野生のライオンが人に襲い掛かるときの映像があったとしたら、それを観察し、分析し、有用なデータ化するのが自意識の仕事です。一方、このとき脳は何の仕事もしていません。目の前にそういう映像があるというのは、別に危機でも何でもないのですから。ライオンの映像を観ているところにハチが飛びこんできたら、そのとき脳にとって恐ろしいのはライオンではなくハチです。
自意識の仕事と脳の仕事は、そのように明確に違うわけですが、じっさい、自意識の仕事のほうも、人間の営みには必要なものです。たとえば、いくら恋人とは脳の営みがあるべきだといって、彼氏がいつまでも自分の食品アレルギーを覚えてくれないというのでは、困りますし、ちゃんと想ってくれているのか疑わしくなってしまいます。
彼女が金属アレルギーだというので、彼氏はそのアレルギーに触れない指輪は無いものだろうかと探し始めます。そのようなとき、インターネットはとても便利です。また、ネットで調べた情報だけでなく、装飾の専門家に相談してみるのもよいことでしょう。
それらは自意識の正当な仕事であり、人と人との、自意識を通じた正当な営みです。自分の母親は足が悪くて車椅子だというのに、バリアフリーの店とルートをきちんと調べてアテンドしてくれたというとき、その配慮は人を喜ばせるでしょう。これらのことは必要なことなので、そのために「みっちり勉強するべき」だと、前回の講義で申し上げました。人は動物とは違う暮らしをしていくので、自意識の機能は自意識の機能で鍛え上げていなくてはいけません。そしてその機能を鍛え上げるというのは、「合理的でかつ頑強」というほうに、鍛え上げるものだと申し上げました。PCのパワーアップと同じで、高熱と轟音を発するのはパワーアップではない、それはむしろスペックダウンだと、このことはまったくわかりやすいと思います。
それが自意識の正当な営みですが、一方には、正当でない営みもやはりあります。営みにはよろこびが必要なのですが、今申し上げてきたとおり、営みのよろこびのために自意識を使うというのは、そもそもの機能として使い方の誤りなのです。あなたはこの段で、「自意識には正当な使い方がある」ということと、同時に、「それをよろこびを得るために使うのは誤りだ」ということを、理解してゆかれればよいと思います。食事をするのに箸使いは必要ですが、箸が「美味しい」わけではない。合理的でかつ頑強に鍛えられたPCを、"よろこびのために使う"というのは、それだけで何かおかしい感じがしますね。その感じは当たっています。このまま先に進んでください。
自意識は「陶酔」する
自意識にはそもそも「よろこび」を得る機能がないのです。第四講で説明したとおりになります。それでも、脳が弱くなり寝たきりになって、パケット専門人になってしまったら、よろこびを得ようとするにも自意識しかその機能のアテはなくなります。
それで、自意識に、そのよろこび(のようなもの)を得させようと、アテにすると、自意識にはよろこびの機能がないので、代わりに得られるのは「陶酔」になります。自意識は陶酔を起こす機能があるのでした。それは一種の快楽ですから、表面上「楽しい」ですし、いっそその楽しさは表面に直接くるため、強烈といってよいかもしれません。
ですが、あくまでも、自意識によろこびを得る機能はないので、それはよろこびではありません。「現代と恋愛」という大タイトルに引き当てていえば、現代の恋愛は、本来あるべき営みのよろこびにすりかわって、陶酔がそれを占めていることになります。現代が自意識の時代だとするならば、現代は陶酔の時代であり、人々は営みに陶酔を得ている、ということになります。
ですが、陶酔は、必ず「飽きて」しまいます……このことに進んでいく前に、ひとまずここまでのことを整理しましょう。「自意識は陶酔する」ということ、自意識には陶酔の機能があるということを、あなたは明確に知ってゆかれるべきです。
たとえば犬や猫などの動物は、どうしたって陶酔を起こすことがありません。我々は犬や猫やその他の動物に、陶酔によるイヤラシサを見ることがありませんね。それは彼らが自意識というものをほとんど持っていないことによります。自意識が無いので、そもそも陶酔を起こす機能自体を持っていないのです。
それと同様に、乳幼児だって、まだ自意識がほとんど形成されていませんので、陶酔を起こすことができません。人間がはっきりとした陶酔を起こせるようになるのは、おそらく自意識が急激に発達する思春期以降、ということになります。今、俗に言われる「中二病」というのはこれのことを指しています。自意識が急激に発達するにつれて、そこに起こる陶酔に遊ぶクセが強くつく、その表れのことを、あくまで揶揄としてのスラングですが、「中二病」といいます。これは誰でも発達の過程で体験することですし、特に悪く言われるべきことだとは思えません。思春期に急激に発達した自意識は、その後、合理的かつ頑強に鍛え上げられて、「みだらに陶酔グセに耽(ふけ)る」というようなことはなくなっていきます。そこまできちんと鍛えられてゆかない人がいたら、その人は単に鍛えられていないという一点において、いくらか冷たく見られるでしょう。それは特に注目する必要もない当然のことです。
自意識にはよろこびの機能がないため、自意識によろこびを得させようとすると代わりに「陶酔」になる。ですからやはり、営みのよろこびを得るためには、脳のほうを鍛え、脳の営みを広げてゆくべきなのですが、その脳の機能が飢餓によって弱りきっているのが現代でした。ですから、「陶酔」が文化になっていくよりしょうがないところがある。「陶酔」のもたらす、弊害も含めて……このことから、実際に我々が目にする「現代」の様相が作られてゆきます。
こちらが整理しながら進めてゆきますので、あなたは整理に気を取られず進んでください。
陶酔は必ず「飽きる」
陶酔は必ず飽きます。それも、ずいぶん早くに、その飽きはやってきてしまう。そして、そうして飽きたり慣れたりしてしまったら、今度はもっと強い陶酔への材料が必要になります。キリがないという状態になる。
ちょうど麻薬の中毒と同じです。麻薬も、初めのうちは少量で、抜群の陶酔が得られるのでしょうが、それはすぐに耐性がつき、慣れてしまいます。そうなると、もう投与量を増やしていくしかなくなります。そして麻薬の投与は基本的によろこびではないので、陶酔が冷めたあとには、やはり何も残っていません。それで結局はさびしいので、それを紛らわせるためには、やはり麻薬を投与するしかなくなる。そうして破滅を知りつつ破滅に向かうのも、人生の一選択かもしれませんが、本講義ではそこまで話を広げず、それは不毛な筋道だと捉えることにします。
陶酔は必ず飽きてしまいます。そして冷めるのも早いものです。これは恋愛で典型的な例を見ることができます。まったくノボセるようにして恋におち、付き合いだしたものの、すぐに「冷めた」と言い出す。そして冷めてしまったら、もうその人のことが好きでも何でもなくなってしまう。好きどころか「うっとうしい」というほうが強くなり、別れますが、別れると今度は、その人のことをきれいさっぱり忘れてしまいます。「付き合ってたんでしょ」「そうだけど、正直すっかり忘れた」と笑い話になる。
陶酔は、いくらそのとき盛り上がったとしても、「思い出」にはならないのでした。このことは、あなた自身、自分の思い出を振り返ってみればわかります。あなたの「思い出」は、振り返って胸を打つように感じられるものについて、思いがけずどれも陶酔的な記憶ではないはずです。一方で、「昔はあんなにキャーキャー言っていたのに」というようなものについて、あなたはきれいさっぱりそれを忘れ去っており、何も思い出に残っていないということを発見されるかもしれません。
あなたは「よろこび」と「陶酔」を区別できるようになられるべきです。それは同時に脳の営みと自意識の営みの区別でもある。別れたとたんに、「なぜあんな人に意地になっていたんだろう」と冷めかえるような交際があります。それはまるでパチンコ遊びにハマっているおばさんが、店を出た途端に自分の損失に冷めかえるような状態です。陶酔的な文化物に触れて、何かひとしきり真実の鳥肌を感じたような気になります。が、それは数時間もしないうちに抜けていってしまう。それが抜けていってしまい、何も自分のうちに積み重なっていかないのは、麻薬のような、陶酔の中毒物に過ぎないからです。
僕が高校生だったころ、さして友人でもなかった友人が、なぜか僕に打ち明けて話してくれたことがあります。耳打ちするように、他に聞かれないようにでしたが、「ライブに行くと、その熱が、三日ぐらいは抜けないんだ」と、彼は話しました。それはつまり、ここ数日の彼の挙動のおかしさについて、彼が秘密を話してくれたということです。
それに比べて――比べるのはよくないことですが――たとえばサッカー日本代表の試合があるたびに、渋谷の夜は荒廃的に騒ぎになります。それは、熱狂なのか、と見えるのですが、その熱は、翌日の昼にはもうすっかり抜けているように見えます。「あの試合を見て以来、おれは自分の仕事を貫くと誓ったんだ」と、数年間も走っている人はあまりいません。「勇気をもらった」と強く言うならば、それは本来、たとえば受験生の勉強する一年を支えたとか、そういうことでないと、本来おかしい。
どれだけ熱狂的に見えても、それが陶酔でしかなかったとしたら、それはすぐに抜けてゆくのです。人に真実や勇気や励ましを与えたりは、本当にしません。それは、その最中には、本当にわからないことなのだとしても。
本講義では、必ずしも、その陶酔を悪いものとは捉えません。思春期などは特に、自意識の急激に発達する時期なのですから、そこに「若気の至り」というような、陶酔だけで付き合った交際というようなものがあることは、誰にでもあることで、悪く言われるようなことではないと思います。また別に思春期でなくとも、あるいはパチンコ遊びであっても、陶酔が完全なゼロというのは、それはそれで人間として不自然です。本講義はそのように、陶酔にいくらか鷹揚な立場を、合理的に採るものですが、かといって、「陶酔とよろこびの区別がついていない」というのは、まったく別の問題だと捉えるものです。あなたもすでに、その区別がつかないのは、論外だ、陶酔は陶酔でかまわないにしても、と、同意されうることだと思います。
その、陶酔とよろこびの区別のために、あなたが知ったのはこのことです。陶酔は「飽きる」ということ。早くに抜けてしまい、思い出や、大切なもの、支えや励まし、勇気や知恵といったものを、実は何も残さないということです。
また、そうして何も残さないというだけならよいのかもしれませんが、陶酔は中毒性のあるものなので……「飽きた」の次は必ず「ぶりかえし」ます。パチンコ遊びで大損をしたおばさんが、翌日にはまたパチンコ屋に行きたがることのように。
自意識にはよろこびの機能がありません。脳にしかよろこびの機能は無いのですから、脳機能の喪失は、そのままよろこびの喪失です。そして、人間は、よろこびの無い時間をずっと過ごしていくということには、そうそう耐え切ることができないのでした。それで、得られないよろこびの、寂しさの手当てに、「陶酔」をするという遊びは、ますます中毒性を帯びてゆきます。
中毒性を帯びて、それに依存し、抜け出せないというのでは、それはもう遊びという次元を超えてしまっていますね。根本的な解決はきっと、脳の営みとそのよろこびが回復されることしかないと思います。
いわゆる自意識過剰とは
前回の講義でも話しましたが、いちおう復習しましょう。自意識過剰というのは、自意識による「陶酔」、その"焼きつき"のようなものが、習慣になり、とっさにそれを繰り返してしまう、そのパターンが自分に染み付く、ということです。周囲の人々が自分に注目している、という幻想は、幻想なのですが、真に受ければ陶酔することができます。陶酔の中毒になり、陶酔にハマっている人は、ほとんど自動的に、その陶酔のあるほうへバッと飛びつくようになります。周囲が自分に嫉妬している、と幻想を持てば、プラスのほうへ陶酔できますし、周囲が自分を笑っている、嫌っている、と幻想を持てば、それはマイナスのほうへ陶酔を起こします。陶酔の、プラスマイナスはあまり関係が無いのでした。陶酔は陶酔であるだけで、ある種の快楽を帯びており、人を中毒にします。自信過剰も自己卑下も、陶酔があり、その陶酔への中毒というのが本質です。自信があるとか無いとかいうことは、本当にはどうでもよくて、その自信うんぬんを「ネタ」に、自意識が「ワーッ」となる、その"焼けつき"にハマっているのでした。ただし、そうして中毒になりハマっている、その習慣から抜け出すのは、そんなに容易なことではありません。やはり脳の営みとそのよろこびから得られるまで、根本的な解決の筋道は無いと思われます。
陶酔の技術が進化する
現代が自意識の時代であるならば、それは陶酔の時代ということでもあります。そして陶酔の時代であるならば、その陶酔のための材料が、時代的に求められているということが、事実になります。是非はともかくとして、たとえば麻薬中毒の人があふれかえっていれば、麻薬は実際強く求められているというように、是非はともかくとした事実が成立する。現代はその点で、陶酔への需要があり、需要があれば供給もあります。その需給の中で、人に陶酔を与えるもの・与えやすいものについて、それを製作する技術が向上してきたという、このことも事実です。そのことについてお話します。
ただし本講義では節度として、具体的にどれがどうだということは申し上げたくありません。あくまで一般論としてお話しすることで、十分な理解――と心当たりを――をあなたは得られるものと思います。
自意識の性質というところへ、再び戻りましょう。自意識の機能は、パケット情報の処理であり、表面的脈絡の検査でした。パケット情報の処理ということで、「パケタイズした情報を」「無数に」「ジュースのように流し込む」ことが、自意識を陶酔させるのに有効です。脈絡というのも、本当に難しいものだと、それは「みっちりした勉強」になってしまうので、そうして噛み砕かなくては飲み込めないものではなく、「ジュース」のように甘く一気に流し込めるものが、自意識を肥え太らせるのに有効です。
単純な音や、単純な意味、単純な明滅、単純な刺激を、とにかく数多く、矢継ぎ早に流し込むこと。極端に言うと、打ち込みのビート音と共に、明滅するランプを備え付け、そのビート音に沿わせて、「各駅の映像」と、その「終電時刻の大きな告示」を、早いテンポで次々に表示する、そこに何かしらの甘露――たとえば美少女の画像を貼り付けるなど――を伴わせるのも有効です。とにかくそういうのを、速いテンポでガーッと流し込む。それで最後に、
「終電までまだ時間がある」
というような、本当には何の意味もないけれど、それを意味ありげに「カッコツケ」に出せば、そもそも陶酔を欲しがっている誰かは、そこにありうる陶酔にバッと飛びつきます。「テンション上がる」という言い方をされるでしょう。
それが、架空ですが、ひとつの極端な例です。そういったものは、本当になんでもよくて、とにかく速いテンポで、音と光を伴わせ、甘露やカッコツケの何かを、矢継ぎ早に流し込めば、それだけで自意識は陶酔します。それは単純な、自意識の性質なのでした。自意識を陶酔させるためなら、「1本で100分の映画をじっくり観る」より、「1分で100本の映画のカット・シーンを振り返る」というほうが陶酔します。音と光の明滅を伴わせて。ですがそれはもちろん、1本で100分の映画をじっくり観たそれよりも、じっくりしたものは残しません。急激な陶酔があり、急激に抜けていくだけになります。
その他にも色々な方法が考えられるのですが、その方法論を追求することが本講義の目的ではありません。本講義では単純に、これを「自意識用の陶酔ジュース」と呼ぶことにして片付けることにします。ジュースは「刺激的で飲みやすい」ことが本位です。飲みやすいというのは、「理解が容易」「とにかくわかりやすい」ということであり、刺激的というのは、べったりと甘露であったり、奇抜なスパイスが混ぜ込んであったりです。
重ね重ね、その「陶酔」が悪いというわけではないのですが、それでジュースに中毒になり、自意識がひたすら肥え太っていくというのでは、誰にとっても不本意であるはずです。ましてその陶酔ジュースは、後には何も残さないのですから、陶酔が冷めれば、やはりよろこびの無い寂しさばかりがあり、さらに強いジュースにしがみついていこうとしてしまう。
近年、時代に合わせて、この「ジュース作り」の技術が、ずいぶん向上しています。それは巧妙になったというより、ひどく大胆になったという具合です。そのジュース作りの仕方が。あなたがスマートホンからウェブサイトを開いただけでも、かなり警戒すべきものがそこにはあります。そこに情報「数」が、ジュースの分子のようにひしめいており、どれもこれも「理解に容易」で「刺激的なトピック」を伴っていることに、あなたは今日から気づくことができると思います。あなたがそのジュースに、「なんとなく」触れているつもりでいらっしゃっても、ジュースの作り手側は、それを「なんとなく」では作っていません。あなたの自意識に「陶酔」を与えるために、入念に、それは作り上げられてあるのです。(試みに、情報数の「さびしい」ウェブサイトを、探してごらんなさい。そんなものはもう見つからないはずです)
陶酔との距離感を取る
人間は数そのものに自意識を陶酔させるところがあります。たとえば、1000000000000000000000000000000000000000000000という数字をここに置いてみると、それだけで自意識は奇妙な興奮を覚えるところがある。何に対する興奮なのかわかりませんね。ですが自意識にはそういう性質がどうしてもあります。
あなたも行ったことがある、ディスカウント・ストアを思い出してみてください。きっと商品が所狭しとひしめいていたと思います。もしあれらの商品が、すし詰めではなく、がらんとした中にぽつりぽつりと置いてあったらどうでしょう。きっと購買意欲そのものが起きません。商品が所狭しとひしめいていること、そして派手な値札が数字をずらずら並べていること、そこに数多くの人が出入りすること、そのものが、自意識の陶酔を引き起こしていて、それが購買意欲と店舗の経営を成り立たせています。あなたは渋谷に出ると、わずかでも、買物をせずには帰ってこられないのではないでしょうか。あなたは旅行に出る前まで、みやげ物なんてどうでもよいと思っているかもしれませんが、みやげ物屋に商品が「数多く」「ひしめいて」いたら、あなたはそれらをつい買ってしまうかもしれません。ディスカウント・ストアでも、みやげ物屋でも、誰も買わないんじゃないかと思えるような商品がたくさんある。ですが、そのものが買われなかったとしても、それは商品の居並ぶ「数」として一つの役割を果たしているのです。売れなくても、実はそこに無意味に置かれているのでは決してない。
もちろん、これらのひとつひとつについて、それが陶酔だからということで、否定してかかるというのは、あまりに行き過ぎて、逆に不健全だと思います。「テンションが上がってしまって」「つい衝動買いで」ということも、普通程度にあるほうが、何かと楽しめるものだと思います。それがまるで無いでは、少し景気が悪すぎます。
ただ、それにしてもということがあります。このごろは、その陶酔を作り出す技術が、度を越えて向上しすぎているところがあります。商売としては当然のことですが、人文的にはいささか苛烈にすぎる。パチンコ屋では扇情的なBGMが流れていて当然だと思いますが、普通の物売りの商店でも最近はそのようなことがよくあります。凝り尽くした照明が当たり、視界にはできるかぎり多くの商品が飛び込むようになっており、値札といえば強い黄色の地になっていることが多い。どんなものでも0円ということはありえないのですが、色々と契約とセットにして、「¥0!!」という表示を付けられるように工夫しています。セールスの極意を教授しようとする本などでは、もう堂々と、「商品ではなくて売り方に尽きる」と語っているものもあります。それは確かに極意なのでしょうが、度が過ぎれば営みとして不健全です。商品の数と値札の数に陶酔させられて、買物をしてしまう、それで「趣味は買物かな」というようなことを、ポカンと述べるようになるのは幸福なことではありません。売り手の側は職業上しょうがなくても、書い手の側は、どこからが度が過ぎると見るべきか、その陶酔の仕掛けと、どこかで距離を取る必要があります。
一度、ディスカウント・ストアの店内でも、あるいはコンビニエンス・ストアの店内でも、あるいは娯楽用のインターネットのウェブサイトでも、通販のサイトでも、テレビ番組のオープニング画面でも、どこでも、静止画にしてみて、じっくりと観察されるとよい。一体どれほどの情報数がその画面に収まっているか。それはまさしく「ひしめいている」という具合だと、改めて気づかれると思います。あるいは音楽ひとつを取っても、そのPV映像のいかに賑やかなことか。次々にカッティング・エッジが凝らされ、物品も人数も多数出てきて、ライティングも動きも、一秒ごとにひしめいている。それを視聴したとして、はたしてメロディを聴いていたのか何なのか、もうわからないというような造りが少なからずある。そうして情報数がひしめいていたとしても、後に何も残さないなら、それは情報量の豊かさではありません。
情報数が多いと、陶酔が起こりますから、さびしさが紛れます。あなたが習慣的にスマートホンを覗き込み、コンビニエンス・ストアに立ち寄るとしたら、その動機のほとんどは、実はさびしさを陶酔で紛らわすためなのです。そしてそれはすでにほとんどの場合、習慣化を完了させています。
重ね重ね、そうした陶酔の機能と、陶酔の現象は、それ自体が悪だというわけではありませんでした。ただ、それを自分がやっているのに、その自覚がない、知らない、というのは、また別の話になります。あくまで、自分はそのようなことを割とするのだと知った上で、どの程度それに遊ぶのか、どこからが「度を過ぎる」とするのか、それを自分で決定するのが、陶酔との距離感の取り方です。
情報数でコミュニケートすることの疲れ
人がよろこびの機能を失い、陶酔の機能でそれを代替させるとしたら、人と人とのコミュニケーションも、その中に陶酔を作り出そうという向きになります。それで、「テンションを上げていこう」ということへ、人は向かいがちになります。自意識を陶酔させるのは情報数でした。それも、理解の容易で、刺激的な、「ジュース」であるほうがよいとお話ししてきています。
たとえば、矢継ぎ早に自分についての情報を語っていくことで、その情報数陶酔を引き起こそうというやり方があります。「自分は○○大学を出ていて」「仕事は三つも転職しててさ」「最近ひとつポカをやって」「課長とケンカになった」「でも自分は格闘技やってたし」「最近はジョグとかフットサルだね」「マラソンに出ようと思っていて」「靴の趣味が変わると服の趣味も変わるよね」「けっこう凝り性で、血液型のせいかな」「これフットサル大会で準優勝したときの写真」「こいつとは別のサークルもやってるんだけど」「あとおれ植物系が好きで苔とか育ててるんだよね」「この夏はB級グルメに凝る予定でさ」「あと流星群とか興味ある?」、と、矢継ぎ早に聞かせるやり方です。「テンションを上げていこう」ということで、こういう話し方をされる方は少なくありません。
これらの情報は、どれも理解に容易で、それなりに刺激的なのですが、これがずっと続けられるかというと、もちろん続けられません。どれだけ話題の豊かに見える人間でも、四、五回も会って話せば、そういう話題の「ネタ」は尽きます。
ではそれで、話題が尽きたから黙るかというと、黙ってしまうと、コミュニケーションが途絶えて、情報が無いという「さびしさ」が押し寄せてきます。そこで人々が取り出すのがスマートホンです。友人同士で集まっているのに、それぞれがスマートホンをいじっているという光景を、あなたも珍しくなく見かけたことがあると思います。あれは話題が尽きたから、もう「テンションを上げる」ということもできなくなって、それぞれさびしくないようにと、あのような状態に行き着きます。
最大の問題は、そうして「テンションを上げて」、情報数を矢継ぎ早に聞かせていったとしても、結局その人がどのような人なのかわからない、ということです。パケタイズした情報を集合させても統合はしないとお話ししてきました。彼がどのような人であるかという全体的情報は、脳でのコミュニケートが起こるまで得られません。
ですから、これは疲れるのです。テンションを上げてがんばった、そしてさんざん話した、話題が尽きるまで話したはずが、結局互いのことが何も伝わっていないという感触になる。この疲労と無力感が、人を次第に「病んでる」というほうへ押し込んでいきます。自分のことが相手に受け止めてもらえないというのは、それだけでも辛いことなのに、さんざん情報を伝えようと努力した結果、なお伝わらないので、絶望が押し寄せてくるのでした。
あなたはこのような例をイメージしてください。外国の人が、「日本人は食事に箸を使うんだろ」といって、台所から食卓まで、料理をひとつまみずつ持ってきます。あなたはそれを見たら必ず、「それは使い方が違う」と言うはずです。確かに日本人は食事に箸を使いますが、それはそういうことではないと。食卓に全て運ばれてから、ゆっくり、ひとつまみずつ楽しむ、そのために箸を使うのです、とあなたは説明されるはずです。
自意識がパケット情報しか取り扱えないというのはそういうことです。ちょうど料理の全体から、煮物のひとつをつまみ上げるように。一方、脳が全体的情報を取り扱うというのは、料理を全てお盆にのせて一気に持ってくるということです。
もし本当に、台所の料理を、箸でひとつまみずつ食卓に運んできて食べさせるというのであれば、疲れます。どれだけ箸使いが上手であっても疲れ果てるでしょう。その挙句、「どんな料理を食べたのかよくわからない」と言われるのです。これでは、いわゆる「病む」ことから逃れられません。
それで、疲れ果てないために、病まないために……コミュニケーションを諦めて、それぞれにスマートホンをいじり始めます。情報数といえば、人間がその端末に勝てるわけがないのでした。
ただし彼らは、楽しむことまで諦めたわけではありません。コミュニケーションというのも、それをする機能を与えられていないだけで、本当に諦めきっているわけではない。ずっと誤解をしていて、箸で情報を運搬することをやめられないでいるだけです。彼らはそうして、テンションを上げてみたり、疲れて下げきったりして、それでも「何か起こるのか」「何も起こらないのか」と、実は内心でしぶとく、見守るのを続けているといえます。誰だって、若いうちから、本当には、友人やコミュニケートが要らないとは思っていませんから。
本当に全てを諦め、楽しむということや、「何か起こるのか」ということも諦めきったとき、人はもうそうして呼び出しあうこともなくなり、スマートホンをいじくることさえなくなります。最近になってよく言われる、「病んでる」であるとか「メンタルがやばい」であるとかの先は、そういう、本講義では「麻痺型」と呼ばれるところにつながっています。
それはまた次回の講義で説明されるでしょう。本講義の主題はここまでです。お疲れ様でした。
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この第八講では、ひとつのことだけを理解してください。"自意識には「陶酔」という機能がある"ということです。このことだけ決定的に理解していただければ、全体の構造の把握は容易であると思います。脳の機能が弱まれば、脳の営みは失われ、ひいては営みのよろこびも失われる。よろこびを失った人々はどうするのか? それは、自意識の陶酔で代替されるだろうというのは、自明と呼んでよいほど、眼に見えてわかる手続きになります。
やや危険な言い方をすれば、このようにも言えます。あなた自身の心当たりの中で、このことの構造を確認してみてください。あなたの心当たりの中にも、たとえば、「この人は社会活動に熱心なところがあるが、どうも陶酔的だと思う」と思える人がいるはずです。あなたはその人のことについて、"この人は脳のはたらきが活発ではないだろう"ということを、どこかで見抜いて知っています。また、"活動の熱心さの割には、周囲と深くコミュニケートはできていないだろう"ということも、なぜかあなたは知っているものです。だから正直なところ、あなたはその人のことを、活動も含めて、豊かだとかうらやましいだとかいまいち感じないのです。その人のようになりたいかと問われれば、あなたは慌てて首を横に振るかもしれない。
「わざとらしさが横行する」という講義を、第五講でしてあります。「テンションを上げていこう」とする、いわゆる「リア充」の、わざとらしい騒ぎの中、あるのはよろこびではなく陶酔です。ですからそれは、その場だけは盛り上がれても、積み重ならずに、一時かぎりできれいに霧消していきます。たくさんの人と「知り合った」、肩を組みあい、騒ぎあった、大声を出し合った……としても、本当にはコミュニケートが起こっていないので、誰のこともわかりあっていません。たくさんの人の、身の上の情報を、直接にもオンラインにも得たとしても、やはり自分は誰かのことを知っていることにはならず、また、自分のことも、結局誰にも受け止められてはおらず、知られていない。
そのようなことの中で、賑やかな騒ぎの裏側で、人々は疲れています。その疲れに、まるで自覚が無いというような人は、きっと本当にはほとんどいらっしゃらないと、感じられてなりません。ただ、疲れたと言い出してもしょうがないし、これしか方法がないのだからと、気を張っているというのが本当のところでしょう。その気力が萎えたときには、「最近病んでる」「メンタルがやばい」と、たまにこぼすようにしながら。
陶酔はよろこびの代替には結局ならないというのが、本講義の採る立場です。代替にならないものをずっとそうしていたらどうなるのか、というのか次回の講義になります。今回はここまでになりますので、このまま勢いよく次の講義まで消化してください。
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