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14.「エヴァ」というフィクションは存在していない
奇妙なことだが、ここまで話してきているアニメ「エヴァ」は、ノンフィクションであってフィクションの作品ではない。
そのことを示すように、エヴァは途中で実写映像に切り替わり、何であれば、そのエヴァの視聴者・ファンをスクリーン上に映し出すという表現もしている。
いわゆる「メタ要素」として見せつけられたような印象のものだが、これはそうではなく、そもそも「エヴァ」というようなフィクション作品は存在しておらず、はじめからすべてノンフィクションのみが進行しているということだ。
何の「話」もないのであるから、それはノンフィクションでしかありえない。
エヴァなんて話もなければ使徒なんて話もない。シンジやら綾波やらアスカやらいう話もない。ゲンドウやらゼーレやら人類補完計画やらいう話もない。
ただ、パトスの亢進というノンフィクションだけがそこにある。
徹頭徹尾、パトス亢進というノンフィクションしかそこにはない。
一種のクラブ・ハウスの映像が、そのクラブ・ハウスのスクリーンに映し出されたとして何か驚くことはあるか。あるいは何かしらの宗教団体の儀式が、その儀式の堂のスクリーンに映し出されたとして、何か驚くことはあるか。野球の球場なら、スクリーンにその野球が映し出されることはいつものことであって誰も驚かない。
「エヴァ」もそれであって、それはいわば「パトス亢進と無上射精を追求する会」の会場みたいなものだ。
その会場の様子が、会場のスクリーンに映し出されたとしても何も驚くことはない。
パトスが亢進する、そんなアニメが「みんな大好きでしょ?」と作り手の側は言っているわけだ。
「アニメが "話" だなんて言った覚えはないよ」と、わざとらしく表示しているとも言える。
パトスが神であって、パトスを積んだペニスの無上射精が天国であるなら、そこに何の「話」が必要だというのか。
そこに映っていたのは、理論上は聖堂の内部と、そこに祈りを捧げる人びとという光景だったはずだ。
仮に「パトス亢進センター」の視聴覚室なんてものがあったとしたら、きっとそういう自分たちの光景があって当たり前のはずだ。
こう考えてみるとわかりやすい。「エヴァ」なるプロジェクションがあったとして、そのパトス亢進作用が「好き」という人は、実際、他の「映画」がよくわからないはずだ。
これは厳しいところだが、破滅からは立ち去るという当然の勇敢さを持つ人においては、堂々と冷静に考えられなくてはならない。
たとえば「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を観ても、それはなんとなく「アツい」というぐらいに見えて、どういう話だったかというと、「よくわからない」「うまく言えない」はずだ。
このことについてはまた後に触れる。どちらかというとこのことのほうがわたしの話すことの主題だ。
「エヴァ」というフィクション作品などは存在していない。
よりわかりやすく言うと、それは一種の性風俗だと捉えればいい。
性風俗を描いたアニメではなく、アニメーションを用いた直接の性風俗だ。
だから綾波は「気持ちいいの?」と視聴者に訊いたはずだ。
それも性風俗のプレイの一環として。
そして次回へのお呼びとして、「サービス、サービスぅ」ともファンは聞きなれているはずだ。
このように徹底して、「エヴァ」なるフィクションも話も存在していない。そしてこのような性風俗を新しく産み出した作り手はその意味においては疑いなく奇才だと言えよう。
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