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18.創作、いかなる動機で「エヴァ」は作られうるか
機械的に考えてみる。あくまで仮説だ。
いや、仮説というより、事実とまったく無関係なわたしの創作だと前もって断言しておこう。
ある男が福音書を読んだとする。
だがこの男はロゴスを失っており、すべての「話」は視えなかった。
話は視えないが、福音書に書かれていたイエスキリストのことは理解した。その活動も、奇蹟も、教えも、彼にとって理解するのは容易なことだった。
けれどもそれがどういう「話」なのかは彼には視えなかった。
彼は知識も含めて自分の中に、一応のキリスト像を得たと思った。
けれども彼の内部に入り込んだのは、イエスキリストという「他人」だった。
彼はイエスキリスが神の子であって救世主だというのを、とりあえず通説として肯定的に捉えようとしていた。
「そういうことだって、何か本当にあるかもしれないからな」
彼はイエスキリストについて詳しくなったし、そのような奇蹟の主が歴史上にありえたということを、単純に「面白い」とも思った。
ただ問題は、彼の中に入り込んだその「他人」が、どうも自分のことを肯定してくれないと感じることだった。
彼はイエスキリストを基本的に肯定しているのだが、イエスキリストの側は彼のことを認めてくれる感じがしない。
「そりゃこんなに汚れ切ったものだからなあ」
彼には、年齢やキャラクターにそぐわず、奇妙に「純粋」なところがあった。
それは彼が知人にバカにされる点でもあった。
彼は真剣にイエスキリストのことを考えてみることにした。聖書や十字架も持ち歩くこともしてみた。半分は真剣に、半分はネタとして。教会に入信はしなかったが、ミサに出席するなどはしてみるようになった。
にも関わらず、彼の中に入り込んだイエスキリストという「他人」は、彼自身のことを肯定してくれなかった。
ちゃんと信じていないからいけないのだと思い、本当に信じるということに努めてみるが、そうしているうちに気づくのは、彼の内部には「どうしようもなくふざけたもの」が入っていて、それが言うことを聞かないということだった。
友人は彼に、
「な? お前はそんな立派な奴なんかじゃないんだからさあ」
と見透かすようにからかった。
そう言われると破顔して、
「確かに、『主よ』ってガラじゃないよ、それはつくづくわかった」
と認めた。
そのときは愉快に感じて笑ったのだが、一人になって恐怖を覚え始めた。
この、自分の内部に入れてしまったイエスキリストなる「他人」は、このままずっと、自分のことを肯定してくれないまま、おれの内部に居続けるんじゃないのか。
おれの内部にいて、おれのことを否定し続けるんじゃないのか。
ふと彼は、自分がずっと憧憬に描いていた、一種の恋愛について考えてみた。
すると彼の中の「他人」は、彼の憧憬を認めなかった。
それについて彼は、
「ほらな」
と思った。
「おれはこいつによって否定され続けるんじゃん」
彼は友人に負けじと、仕事に精魂を注ぎ、クリエイティブに生きようとした。
だが、
「だめだ、おれの中に入り込んだ他人が、何もかも否定してきやがるもの」
モチベーションがそのたびごとに破壊され、仕事には致命的な支障が出始めた。
座禅を組み、海外を旅して、リフレッシュし、運動もして、自分を反省して鍛えなおした。
それでいよいよ復旧し、いよいよ本格的に再始動しようとすると、その途端、すべてはやはり否定されて崩れた。
数か月もかけて構築した、モチベーションとメンタルの態勢が、半日も経たないうちに「他人」にメチャクチャに破壊されて、もう復旧しなかった。
同僚は彼のことをあわれんで、同時に失笑もした。
恐怖は今や絶望的な確信に変わった。
「出ていけよ、出ていけよ、うるせえよ、うるせえよ、ほっとけよ」「いやだ、いやだ、いやだ、もういやだ」「否定するな、否定するな、否定するな、おれを否定するな!」
にょっきり出てくるその「他人」の顔が怖くて、夜中に悲鳴をあげることもあった。
喉がちぎれるほど叫び倒せば、何かが焼け切れて、また疲れ果てるのもあって、その後は眠ることができた。
彼はふと、この「他人」について、過去に似たようなことがあったということを思い出した。
子供のころ彼の父が、教育風情の口調で、
「俺の子のくせに駄目な奴だ。駄目な奴は一生何をやっても変わらんぞ」
とさげすんだ眼で言った。
それから二十数年のあいだ、つまりは父が死去するまで、彼の内部には父親が入り込み、「駄目な奴」「一生変わらない」と言われ続け、監視され続けた。
そのように、内部に入り込まれて支配されてしまうということがあるのを、彼は少年のうちから知っていた。
だからこそ彼は、他の誰かには入り込まれないように、常にバリアを張って生きてきたのだった。
「こころの壁」を指摘されて、それを解除するという努力もしてみたし、カウンセリングも受けてみたけれど、そのカウンセリングこそ、「この他人に入り込まれたら支配されてしまう」という確信をもたらした。
けっきょく彼は、バリアを張って生き続け、自らバリアを解除して接したのは自分の母親に向けてのみだった。とはいえその母親も、途中で不倫相手のところへ去ってゆき、残された彼は自分がいうほど母親に愛されてはいなかったということを体験し、その他人ということの恐怖を倍増させたのではあるが。
彼はこう納得した、
「そっか、つい聖書だからと油断して、うかつに自分の中に入り込まれちゃったのか。そういう同じパターンか」
「こうなっちゃうと、ほんと逃げ場ないんだよな」
彼は変態的な性風俗で性欲を処理するのが常だったが、これまでは楽しめたそれに対してもインポテンツの問題が出始めた。
バイアグラを飲んで性行為じたいは可能にしても、そこで無理やり射精することにまともな快感は得られなかった。むしろ砂を噛むような苦痛を覚えるばかりだった。
彼はペドフィリアで少女を視姦する一方、大人の女性に対しては、罵声を浴びせられながら嗜虐的に性感を得るというのが性的嗜好だった。
プロの女性が耳元で罵声を言ってくれるあいだ、そのことには性感を覚えて快感を得ることができた。
けれども射精に向かおうとすると、どうしてもいいところで内部の「他人」が顔を出してきて、彼はその他人に否定的に監視されていると感じる状態になり、まともに射精できなかった。
彼はなんとかしなくてはならなかった。
「もっと罵声言って! もっともっと、マジで!」
彼は、
「根本的にダメな奴」
と徹底的に断じられてペニスと肛門を刺激されると勢いよく射精できる、ということを発見した。
さらに、自分を根幹から否定することを繰り返し執拗に言ってもらい、それに対して自分が大げさな哀号を発すると、何かのタガが弾けとび、これまでにない強烈な快感と共に射精することができる、ということが発見された。
彼はその罵声からの性感と、射精の快感に守られているうちは、メンタルとモチベーションを保つことができた。
けれどもそれが途絶えて、
「まただ」
と、内部の「他人」がにょっきり顔を出すとき、すべては否定されて、監視されて身動きが取れなくなった。
本当に首を吊ろうかと何度も考えた。首を吊ってもよかったが、何しろ腹が立った。
業腹も極まって、この内部の「他人」に、自分の射精を浴びせかけてやりたいと思った。
そうしたら自分は、このしつこい敵に勝利することができるという気がした。強烈な、耐えようのない侮辱をぶつけてやってコイツを撃退する。コイツのことをなるべく忘れるようにしてコソコソし続けるなんて、みじめなことをいつまでもやっていられるか。コイツのことを、忘れようとするのではなく、本気でブッ叩いて撃退する。
そうして勝利すれば、何か本当の、この世に生まれてきた理由のようなものをつかみ取って、この先を生きていけるかもしれない。
このことに向けての射精を得るのに、プロの彼女はいっそ、自分にとって不可欠のパートナーになっていった。
「ほらもっとイヤな気分になりなさい。根本的にだめな存在。今日も汚い泣き声出すんでしょ。そんなことしてもダメなものはダメ。あなたは永遠にダメ。あなただけが永遠にダメ。永遠にダメ。世界中のすべてがあなたのことを嫌っている。それが当然。死んだってダメ。死んで逃げる権利もないぐらいダメな存在なんだからね。はい、汚い、汚い。あなたのことを誰もよろこばない」
彼を性的嗜好において救ってくれているプロの彼女は、
「こうして泣き叫ぶだけがあなたの世界でしょ?」
と教えた。彼はそれに泣きながら、
「はい」
と答えた。
「射精していいよ〜 どうせそれしかできないんだから。それだけがあなたの世界なんだから」
「はい」
「世界で一番汚いもの出しなさい!」
巨人に踏まれた豚のような声をあげて、彼は射精した。何もかもが壊れるように感じる射精であって、その快感に彼は、
(神を見た、かも)
とさえ思った。息を切らし、よだれを垂らしながら。
途中で例の「他人」がにょっきり顔を出したかもしれなかった。
けれども彼はそのとき、その他人が持ち掛けてくる「話」を、完全に失認することに成功した。
後日彼は、かつてポストモダン主義的な中を生きた杵柄を持ち出し、
「けっきょくパトスが神なんだよね」
とうそぶいた。
若い後輩が、
「なんかそれ聖書っぽいですね」
と感心するふうに言った。
そう言われて、彼はふと、もう二度と例の「他人」に首を突っ込まれずに済む方法を思いついた。
「聖書っぽい、か。ねえねえ、いっそ、そういうのやっちゃおうか」
「どういうことです?」
「あのさ、どんな話を作ったところでさ、神ってのは違うんだよね。神ってのは直接見るものなんだよ。神の話をするのは簡単だけどさ、神の話なんてもうたくさんじゃない? そうじゃなくて、神を直接見る、何かそういうのやりたいんだよ」
***
これは、エヴァが創作される動機と手続きについての、仮説を含んだ創作だ。何ら事実にもとづくものではないし、事実を推定しようとする意図のものでさえない。
ただ、
1.「他人」に対する恐怖と壁(ATフィールド)
2.「パトス」の無限大化に向かう
3.福音書の書き換えが題目になる
という三要件を満たすためには、何かしらこうした手続きが背後に必要なはずだという、ひとつの思考実験を示したのみ。
「他人」に対する恐怖と壁がサルトル的にあったからといって、「パトス」の無限大化に向かわなくていいし、パトスを無限大化していくからといって、何も無関係に福音書の書き換えに手をつける必要はない。
ただここに示したようなプロセスがもしあったならば、「エヴァ」のようなものは創作されうるだろう。
事実がどうなのかはもちろん外部からは知りようがないし、事実はここでまったく必要でない。
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